6月25日(水)、曇り。
先程、新聞販売店に電話。「来月から、夕刊はいりません」。
販売店は、あっさり「分かりました」と。
そして加えて言いました。
「販売店の連合会から、新聞社幹部に言ってください。読者の休刊日に対するクレームがいっぱい。これ以上、休刊日が増えると、新聞が売れなくなって困る。と」。
そうです。8月から、土曜日の夕刊を取り止めますとの告知がありました。
元々、夕刊は翌日の朝刊と記事がダブることが多いのもしばしばで、眼についていましたし、休刊日は増やすは土曜の夕刊を止めるは、で、それに対する愛読の小さな抵抗の具体化です。
何度も言いますが、新聞人は自らの首を縮めているのです。
日曜日は休みたい。
休むのは宜しいが、でも私は、毎日、新聞は見たいのです。
毎日発行しても、最小限の発行行為は工夫して続けることが出来ないか。
一斉に休む必要はないはず。
その気持ちがあれば、休刊日を増やしたり夕刊を休んだりは避けられる。でも、その気持ちが無い限り、やがて新聞は見向きもされなくなるのです。
その日が近づいています。
40年も前は、多くの骨のある新聞人が何人もいました。
しかし、今の新聞人には、どれだけいるのでしょうか。
今は、そんな危機感が無いようです。
今日も、愚痴になってしまいました。
6月24日(火)、雨。
最近の話。
びっくりですが、この加茂にも「熊」がでたそうです。
特に被害は無かったのですが、熊は「月の輪熊」とか。
近くには小高い山は、東西南北にありますが、今まで30年以上住んでいて、そんなこと聞いたことがありません。
という訳で、くわばらクワバラ。
という話でした。
6月16日(月)、晴。
このところひと月ぐらい、以前に作りかけで、途中で棚上げにしていた「巻菱湖」何組かの仕上げ(盛り上げ)作業を続けています。
出来上がりには、まだ少し日にちがかかりますが、出来上がりましたら、同時並行している「新しい平箱」にセットして披露しようと思っています。
6月7日(月)、曇り。
今朝、何気なくNHKテレビを見ていると、古将棋の駒。
オヤッと、見直すと、どうやら私が作った「大局将棋駒」だと分かりました。
「あれ、僕が作った駒だ」と家内に話した直後、画面は別のシーンに。
その間、5~6秒でした。
今考えると、あれは何の時間だったのか?です。
よくわかりませんが、7時台であったと思います。
ところで、今日、福井県の川井さんから、電話がありました。
何でも、今日、13時過ぎからの「べらぼう」で、将軍家治が将棋を指すシーンがあるという。
間もなくだが、忘れてもいいように、録画をすることにしました。
6月2日(月)、曇り。
ニュースは、連日、備蓄米。
安くした最大の功労者は誰でしょう。
そう、前の農水大臣。江藤拓さん。
「口は禍の元」と言いますが、
辞めるに至った彼の口が最大の功労でしょう。
そう思いませんか?
あれから10日ほど。ということで、今日は以上です。
5月30日(金)、曇り。
新聞で、以前からおかしいな? と思っていたことがあります。
新聞休刊日?
いえいえ、それ以外のことです。
おかしいな? と思っていたのは、時事ニュースで、国内政治のニュースが少ないことです。
それで、国内の時事ニュースが、どれだけあるかを、最近、ウオッチするようになりました。
例えば今日の愛読紙の朝刊。ウオッチしてみましたら、次のような結果でありました。
1ページから5ページまで、大見出しの数は論説を含めて19項目。
この内、日本に直接かかわる時事ニュースは、今日は何時もより少し多めで、コメ問題を中心に9項目ありました。
対して残りは、トランプとか、韓国、シリアとかの外国に起因するニュースで、何時もは、全体の3分の2ほどを占めていることが多いのです。
ゲスの勘繰りかもしれませんが、政府筋から、「国内ニュースは、ほどほどに」などと、圧力がかかっているのかもしれませんね。
今日も、ゲスの見方でした。
、
5月27日(火)、曇り。
相変わらずの曇り空。
梅雨の走りのような。
この時期、色々することはあるのですが、その一つが終りました。
その気になって、書き始めて10日ぐらい。
機関紙への投稿原稿。
やっと終わり、編集部の方へ先ほど郵便局から発送することが出来ました。
文章作成は、昔ながらのワープロ。シャープの「書院」。
むかし人間ですね。まだまだこれを頼りにしております。
ボリュームは10ページ。
ご覧のように、イラストあり、図表あり、カラー写真ありです。
掲載の可否は、これが編集部に届いてから決まります。
決まりましたら、報告いたします。
5月21日(水)。
毎日、色々なニュースが続きます。
その中で、お粗末で幼稚なニュースは、バカ大臣の辞めるに至ったニュース。
お粗末な大臣は多いが、見事にそれを越して行くこの度の元大臣。
誠にお粗末。おそらく、知能は小学生以下ではないかと。
そんな大臣を任命したのが、石破さん。
総理に就任して以来、言うことが180度転換して、周りの空気を窺うばかりの総理に、信用度はガタ落ち。信頼度はゼロ。
自ら、更迭の「こ」すらも口に出せないで、辞任表示を待っていた、そのテイタラク。
まー、そんな気持ちの、今日この頃でした。
もう少し、書き連ねることにします。
1、将棋の歴史
我が国の将棋伝来はいつ頃であったか。その見方は研究者によってさまざまで、定説はいまだになく確かなことは判っていない。
そもそもの将棋は、わが国で発祥したモノではない。
世界各地の将棋は遥か昔、古代インドで生まれたゲームだとされていて、やがてそれが形を変えながら、時代とともに東へ西へと各地に広がって、我が国には大陸を経由して、あるいは東南アジアとの交易に伴い大陸沿岸沿いにもたらされたに違いないが、その時期は平安時代あるいはその前だったかもしれない。
しかし、ある研究者は各地遺跡から発掘された駒や、当時の記述文献の時代をもとに、ごく慎重に平安時代後期だとする人もいて、他方、より想像をめぐらす人はそれより百年か二百年前の8世紀ごろまで遡るとする考えもあって、いまだ定かではない。
そのようにして我が国にもたらされた外国将棋は、それほど間を置かない時期に、我が国の先人の叡智によって日本流に工夫されて形を変えた。
以下、まだまだ続きます。
5月16日(金)、晴。
先の原稿を書いています。
書き足しながら、すでに書いたところも手直しもして、冒頭は次のようになりました。
「水無瀬駒」のこと
ここで言う「水無瀬駒」はおよそ四
水無瀬兼成は当時、正二位権中納言という高位の公卿として、水無瀬家十三代の当主でもあったが、血筋は時代を代表する文化人・三条西実隆の流れを汲んでいて、23歳で水無瀬家に入った人である。
念のため申し添えれば、現在、「水無瀬書」という銘で多く出回っている駒は、本来の兼成筆による水無瀬駒とは全くの別物で、出所不明の文字であり、その点、くれぐれも間違えのないように願いたい。
以上です。
この調子だと、まだまだ先は長いです。