熊澤良尊の将棋駒三昧

只今、生涯2冊目の本「駒と歩む」。只今、配本中。
駒に関心ある方、コメントでどうぞ。

目次

作品 文章 写真 販売品

奈良にて

2024-02-29 17:35:30 | 文章

2月29日(木)、雨。
今日は、所用で奈良へ。
奈良漆器の樽井さんのところで、1時間以上。併せて、泉鏡花文学賞受賞者の寮美千子さんにもお会いしたかったのですが、奈良町にあるお店が閉っていてお会いできませんでした。
なんとか、連絡がつけば良いのですがね。
名刺を挟んでおきました。

帰宅後は、盛り上げを少々。
今の時期、漆には最悪の気候ですが、チョッとやる気が出たので、恐る恐るやってみました。
さて、結果は如何にです。

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キリガネ(金貝)のこと

2024-02-27 17:32:23 | 文章

2月27日(火)、雨。

一日中、しょぼしょぼと雨でした。
「本」は一段落して、身辺を軽やかにしようと、作業は永年ため込んだ資料や本の整理に移行しました。
整理の基本は捨て去ることなので、どんどん捨てようということですが、本当にそれで良いのかという気持ちも少しあって、2週間程度ずらそうかなと思っているところです。
その間に若し誰かが、捨てる前に見せて欲しいと言う方がいらっしゃれば、先ずはその方にお見せして、欲しいものが有れば、無償でお渡ししするのが資料の為にも、ベストではないだろうかと。
若し、そのような方がいらっしゃればですが、その時はご連絡ください。

話は変わって、映像は最近入手した蒔絵の玉手箱。
いくつか家紋のような小さな図柄が散りばめられています。

その図柄の中に、普通の蒔絵(写真、手前の花柄蒔絵)とは違って、図柄が金箔、銀箔で加飾された(キラッとしているのが金箔。黒っぽいのが銀箔)ものがあります。
この内、金箔のところは、この写真のように、浮き上がって波打っているのですね。

丁度、それは過日の象牙水無瀬駒とともに「なんでも鑑定団」で話題になった「葵紋蒔絵の将棋盤」に見られる同様の「キリガネ」あるいは「金貝」と呼ぶ技法で、この「キリガネ(金貝)」は、金などの薄い板を模様の形に切り出して、その周辺は漆で固めてはいるものの、土台との間の本体は温度変化による膨張差を配慮してか、麩糊などでやわらかに止めているだけなので、耐久性に難があるわけです。
そのため、この写真のように経年変化で、剥がれたり、浮き上がったり、あるいはよじれたりしていることが多いのですが、過日の「なんでも鑑定団」では、これを「家紋を付け替えた」と言ったのは、おかしなことではあります。

このような「キリガネ」は、新しいうちは金属そのもの光沢で、ピカ
ッと輝く光を放って美しいのですが、何十年、何百年と経過するうちに、緩んでくるのですね。
そこで思うのは、なぜ「キリガネ」では、図柄全体を裏から漆で張り付けて固めてないのか。それは今のところ、私にはよく分かってはいませんので、専門家に聞いて確かめたいと思っています。

 

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名古屋テレビ「金とく」

2024-02-27 02:39:53 | 文章

2月27日(火)、深夜。

1時間ほど前に目が覚めました。
見るべきテレビも無いので、これまで録りためていた録画の中から、久しぶりに、10年ほど前の名古屋テレビ「金とく」、という将棋のドキュメンタリー番組を選んで、見ることにしました。

内容は、将棋の歴史に関すること。
今回の番組は、特に大橋家の歴史が中心で、当時の大橋家の生業などが語られていました。その中に「大局将棋」のことが採り上げられており「大局将棋」の資料は、大阪に将棋博物館が出来てしばらくして、寄託された大橋家の古文書の中に見つかっていたのですね。
古文書はその後、将棋博物館が閉鎖されて、今はそれらが静岡県の大橋家の子孫に戻されており、その一部が映されていたのです。

その史料を元にして作ったのが、現在も大阪商業大学にある「大局将棋の盤と駒」。
大写しで対局するシーンもありました。
この時の対局シーンは番組のためのモノで、半日以上800手ほどが進行していましたが、まだまだ序盤の域で、盤面が少しほぐれた程度で、王手にもたどり着けないで、決着までには、あと何日掛かるかわからないと言うことで、ここで打ち切られていました。

只今はカメラが手元になく、その対局シーンがどんなものだったかは、今はアップできませんので、後日、カメラがあるときに撮り直して、このブログにアップしようと思います。


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今の将棋

2024-02-26 17:06:43 | 文章

2月26日(月)、晴。

所要で、郡山に行ったついでに、奈良の塗師・樽井禧酔さんのところに寄って、例の「本」を渡してきました。
「本」には、樽井さんのことが、数ページに書いてあるのですが、時間が無いのでそこそこに失礼し、代わりに「近世の奈良を見つめ直す(奈良県立大学ユーラシア研究センター編)」を貰って帰りました。
それには、含蓄ある言葉で「漆のこと」があちこちに読み取れるものでありました。

ところで、
先日の「徹子の部屋」で、藤井聡太さんに対して「将棋はなぜタテヨコ、9なのですか?」の質問に対して、やや黙考があって「それは難しい質問です。分かりません」との受け答えに関連して、
コメントで「熊澤さんは、どう答えますか?」という質問をいただきましたので、私なりの答えを述べておきます。


理屈で言うと、難しすぎですね。
私は多分、次のようなことを言ったように思われます。
「そうですねえ。将棋は1000年以上の歴史があります。その間、9x9より小さい将棋や、12x12など大きな将棋が考案され、試みられたりしたのですが、結局は9X9枡の今の将棋が面白く、一番もてはやされてきた歴史があります。
ですから、今なお多くの人々の間で、飽きることなく指し続けられているのだと思います」。

いかがなものでしょうか。

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徹子の部屋

2024-02-24 17:44:20 | 文章

2月24日(土)、曇り。

今日も「本」の残務整理をしておりました。

棋王戦は始まりました。

昨日、テレビ「徹子の部屋」に、藤井さんが出ているのを見ました。
黒柳さん、さすがですね。
「縦と横それぞれ九つなのは、どういう理由ですか?」。
これはすばらしい質問でした。
藤井さんの普段では見慣れない一面を引き出していたように思います。
徹子さんに喝采。


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久しぶりの生会話

2024-02-23 17:33:39 | 文章

2月23日(金)、雨。
今日もシトシト雨でした。
仕事は、今日も「本」のこと。
この作業も、あと二日程度で一段落、と言うより二段落の見通しなのですが、今日は三重県からのお客様。
Oさんとは、電話では時々話はするのですが、今朝は朝早く電話をいただいて「近々訪ねたい。本の追加が欲しい」と。
「それでは早い方がいいね」と言うことで、今日になりました。
滞在は、二時間半から三時
間ほど。
能登の話。棋王戦の話。福井の話。王位戦の話。と言うことで、久しぶりに生会話での花が咲きました。

 

 

 

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電話

2024-02-22 17:59:26 | 文章

2月22日(木)、雨。
今日もシトシト雨でした。菜たね梅雨と言うんでしょうか。

仕事は、今日も「本」の残務整理の繰り返し。
昼には隣町の喫茶店で食事。
そこには「朝日新聞」の記事がありました。
「ウウン」と思いながら、目を通しました。
同じ記事をご覧になった方も、多いと思います。

その夕方、今日の残務整理を終えようとしたとき、能登から電話がありました。前にいただいた電話から、その間、こちらからの電話は控えていたのですが、彼からの近況報告。15分ほど。内容は控えておきますが、とにかく、元気なことは確認できました。




 

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時代考証

2024-02-21 18:09:18 | 文章

2月21日(水)、雨。

もう一月か、それ以上前のこと。
NHKテレビに映ったのは、ドラマ「光る君へ」の予告編。
平安時代の貴族2人が盤を挟んで、囲碁を打つ姿でした。

オヤッと思ったのは、その盤の違和感でした。
盤の形は、現代のタイトル戦で使うような分厚い盤で、6寸ぐらいか、あるように見えました。
(江戸時代初期の資料によれば、盤の厚みは、せいぜい3寸未満でしかない)
しかも、脚の形は現代と同じ「刳り脚」で、どうやら、このシーンは時代考証がなされていないように感じました。
因みに、囲碁や将棋の盤に、刳り脚が使われるようになったのは、室町時代後期か、江戸時代初期の頃からで、それまでは「猫脚」の類であったと思います。

この時代の碁盤なら、モデルとしては、箱型の正倉院御物の碁盤もあるわけで、その点、時代考証にも手抜きすることなく、ドラマ作りしなければならないと思うのですが、いかがなものでしょうか。
NHKらしくないな。そのように思った次第。


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駒は、なぜ五角形かということ

2024-02-20 07:52:10 | 文章

2月20日(火)、曇り。

2月ですが、このところ4月5月の陽気。
10年前のブログで「駒の5角形」について述べていました。そのことは今回の本「駒と歩む」にも、述べていますが、10年前のブログをもう一度、アップします。

 

先日、ある方から「将棋の駒の五角形の成り立ちについて」の質問を受けました。その方は商業史の研究をされていて、「江戸時代の豪商が発行した『株札』には五角形のモノがある。五角形の代表は将棋の駒だから、教えてほしい」と言うことでありました。

「歴史的な成りたちのことは、良く分かってはおりません。他の研究者は¨船とか絵馬とかの形¨からだと言ったりしていますが、単なる思いつきに過ぎず論理性が欠落しています。何故、日本の将棋駒が五角形になったのかについては、合理的な理由を挙げて述べなければなりません。小生なりに考えた事は幾つかあります。そのことは講演などで話したりしていますが、電話でよろしければお話します」。
と言うことで、次のようなことをお話しました。

①、道具を使う遊びには、道具が簡単に作れるのが重要。  
  道具は、容易く手に入れられる材料で簡単に加工出来ることがポイント
  で、日本将棋の原型が我が国にもたらされた当時は「木簡」という恰好な
  材料が身近にあって、先人はそれに文字を書いて駒にすることを思いつい
  たのは自然なこと。  
  因みに、東南アジアでは石や貝。中国では木の枝を輪切りにしたものが多
  く使われた。

②、最初は四角い形だったかもしれない。しかし時を置かず、文字の方向
  (=駒の方向)に合わせて先端を削って山形にした五角形に改善すること
  を思いついた。 
  さらに外国のチェスや将棋駒のように敵味方で色分けしたり駒の文字
  (名前)を変えたりすることなく、駒の向く方向で敵味方を区別する事を
  考えついた。
  これは我が国の文化であり先人の知恵であり、これが合理的なところか
  ら、まもなく定着したものと考えている。

③、日本将棋の駒の最大の特徴は、駒自体に敵味方の区別が無いところ。
  これは、相手から取った駒を自分の駒としてそのまま使える日本独自の
  ルールとも相互に密接で、同じ駒を敵方にも味方にも使える駒があれば
  こそ、このルールが出来て支障なく定着した。

④、理由は、このほかにまだまだあります。
  電話で伝えるのは、それほどでもありませんが、文字にして書くのは
  結構時間がかかります。

 以上ですが、この続きを「本」にはもう少し詳しく述べていますので、参考にしていただければ幸いです。

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復元師

2024-02-18 01:06:45 | 文章

2月18日(日)未明。

夜中にフト目を覚まして、先程までNHKテレビを見ていました。
主人公は、割れた伊万里焼の皿とか、部品が欠落している唐三の馬などを修復する「復元師・繭山某」。
たまたまその映像を見かけて、興味深く見せてもらった。
作業は、全くの新品のように直すわけではない。
造られた時代と経過した年月を経て、然るべき姿を想像しながらの修復である。
面白い。
勝手に想像すれば、修復はオリジナルを作るより難しい制約があるし、その技術はオリジナルにも勝るレベルの心を持ち合わせていないと務まらないと、思いながらのテレビであった。
とにかく、面白い。
そんな1時間でありました。

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駒の写真集

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