5月31日(金)、曇りがち。
昼頃、外出ついでに、返礼品の「菱湖」を市役所にお渡ししました。「先様も、大変喜んでいただいている」とのことで、良かったと思っています。
仕事は、「水無瀬兼成卿写」の盛り上げを少々。あと半日ぐらいかかりそうです。
この間、出来上がった「錦旗」と「古水無瀬」。お届け先の電話では、「漆の盛り上げ具合に,たいそう満足」とのことで、こちらも、良かったと思っています。
今日の映像は「南帝山」の根付。これで表と裏の文字が終わりました。早ければ、今週中に届けられるかと。
5月29日(水)、曇り。
昨日から今日は、久しぶりに根付仕事。
昨日は駒の底に銘を書き入れて、今日は、天の中央に金具を埋め込んだ後、太くどっしりと漆で表書き。「南帝山」は、吉野の奥、北山にある南朝ゆかりの瀧川寺の山号。裏はやや小さく「守護」の2文字。こんな感じです。
太い文字も、細い文字も、同じ蒔絵筆で書いています。一文字一文字それぞれ肉筆なので若干の違いがありますね。映像は、書いた直後で濡れています。これから一日かけて、表面は乾かすことになります。
5月25日(月)、晴れ。
朝は一仕事。4組目、残りの最終盛り上げ「錦旗」の4枚。それを終えて、琵琶湖瀬田あたりへ、今日採れた生小鮎を買い付けに。片道は一時間強。電話で1キログラムを予約して、出かけました。今年は琵琶湖湖畔への買い付けは、これが3度目。ということで、帰宅は15時過ぎ。小鮎は5センチほど。いつものように、家内の手で甘露煮に。1キロですと、3週間ぐらいで完食してしまいます。
ところで、仕事の方。映像は出来上がった「古水無瀬」の玉将と王将。こんな感じです。全体完成後の映像は、明日にでもアップしようと思います。
昨日、講談社から最終校正のゲラが届きました。
本の名前は「教養としての将棋」。もともとは3月に刊行される予定でした。執筆者は各章を通して7人ほど。メインは、梅原猛さんと羽生善治さんの対談です。 ですが、出版直前に梅原さんが逝去されたので、上梓が延び延びになっていましたところ、いよいよ6月に出版されることに決まったとのことです。
小生の担当は「工芸としての将棋」という章で、校正の締め切りは、今月27日。ゲラが届いたとき、丁度、盛り上げの作業中だったのですが、こちらの方が気になるので、早速、ゲラに一通り目を通して校正に取り掛かりました。
文中で使われる15枚くらいの写真は、今回が初めての校正なのですが、各写真ともサイズが小さいので「倍くらいの大きさに変えてほしいと伝えるつもりでいます。 ということで、昨日の盛り上げ仕事は10枚ほどを残して中断。今日に延ばすことになりました。
今日出来上がった駒。「水無瀬兼成卿写」。
材は、薩摩つげチジミ杢。
もともと、彫り埋めだったのですが、提案して、ひと手間掛けて、盛り上げました。
玉2枚にしたのは、クライアントのご希望。
5月16日(木)、快晴。
名人戦第4局が始まります。注目です。
2組目の盛り上げ「錦旗」が最終段階に。出来上がりは2日後の予定かと。出来上がり次第、アップしようと思います。
昨日、アップした文章。塩井さんの将棋チェストのこと、一部記憶違いがありましたので、先ほどその部分をカットし訂正しました。
5月8日(水)、天候不明。
先ほど、夜中に目が覚めると、去年の名人戦第3局、興福寺の戦いをameba テレビが再放送。思わず見続けることにしました。
というのも、この対局では、小生所有の将棋盤と、岡田さん所有の小生作の「古水無瀬」が使用されたので、それを思い出しながら見たわけです。この時の見分では、対局者はじめ、関係者の前で盤の由来を、説明させていただきましたが、もう少し詳しく説明しておきます。
この将棋盤、盤覆いには「贈 阿部真之助殿 昭和十一年二月吉日 十三世名人関根金治郎」とあります。阿部真之助さんは、名人戦を主催した東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)の学芸部長で「これからは、それまでの一代世襲制の名人制度に変え、実力で競う名人戦へとの制度改革を」と、関根名人に提言するとともに主催社となり、その実現をバックアップしました。なお、戦後はNHK会長まで歴任された言論人です。
この盤にある「昭和11年」は、丁度、10年に始まった実力名人戦の最中で、ほぼその成功を見極めた時期に当たり、この盤を、関根名人は阿部さんに御礼の気持ちを込めで贈ったものであることがわかります。
この盤の厚みは5寸2分ほど。現在のタイトル戦で良く使われる7寸ほどのものと比べると、かなり薄いものです。しかし当時は、このくらいがちょうどよい厚みとして作られたものだと思います。特筆すべきは、天地柾年輪の緻密さです。1尺1寸ある盤の端から端まで、ルーペで数えてみますと、800本でした。
私がこの盤を入手したいきさつを述べておきます。もう30年近く前のことです。仕事で上京した折り、少し時間があるので、上野池之端のツゲ櫛「十三や」さんへ行こうとして御徒町で下車し、たまたま立ち寄った骨董屋さんに貝合わせの蒔絵の将棋盤を見つけて買ったのですが、その2~3か月後、その骨董屋さんから電話をもらいました。「熊澤さん、また、こんな将棋盤と駒が手に入りました」。「ウムフム、関根名人から阿部真之助さんに贈られた盤。駒は、木村作の木村名人書。島桑の駒台と駒箱がセットになっていると。ウムフム、そうですか。わかりました、2~3日の間にお店へ行きますから、奥にしまっておいてください」。
そうして、3日後。上京して店に行くと、ウインドウにその盤が。おやおやと思いながら店に入り「盤は、奥にしまっておくようにお願いしたはずですが、どれどれ・・」と。それは将に「うぶだし」そのものという感じで、これまでどこかの博物館の奥にでもしまわれていたような気品と雰囲気で、タダものではないと直感しました。
値段を聞くと、コレコレ。私は「うーん。我が家の家計の半年分以上か、うーん・・」と。 店では、15分しか余裕がなく、「2~3日の内に決めるので、それまでは店の奥へしまっておいてほしい」と頼んで、あわただしく千葉の方に仕事に向かいましたが、車中では早く決めないといけないという思いで、その途中、乗換駅から公衆電話で、家内と店に「買うことを決めた」と伝えた次第。
でも、この盤の出どころが気になります。そこで、店の主人には「これはどこから出たものですか」と尋ねました。しかし「それは明かせません。商売上の仁義ですから」。「ああ、それはそうですね。でも一つだけヒントをください」。「ヒントは、文京区の或るお屋敷から出たもの」でした。
長文になりました。この続きは、また。