4月27日(水)、時々小雨。
梅雨の前触れでしょうか。暑いのか寒いのか、身体がついてゆけない感じ。
ということで、今日は、新規に「菱湖」を彫り始めました。
先ずは「歩兵」から。
「今度は、どの様に作ろうかな」と考えながら、
時折り、刃先を砥ぎ直しして、1枚数分かけて表を彫り、裏を彫り、と快調。
まあ、あんなこんなで今日も平穏無事に、1日が終わりました。
ああ、今からですか?
あとは寝るだけ。
4月25日(月)、晴れ。
五月晴れ(?)が戻りました。
しかし、湿度は高め、要注意。気が抜けません。
先ほど、嬉しい電話がありました。
千葉県野田市からです。
野田市(関根名人記念館)には、SNSで問い合わせしていましたところ、本日夕方に電話があり、「伝・後水尾天皇真筆駒」の所在が分かりました。
「関根名人記念館」にあるとのことで、木村家からは、平成30年に、そのほかの盤駒など12点とともに寄託(後に寄贈に)を受けて、以来、同館にて保管所蔵されているそうです。
早速、最初に情報を寄せていただいた北海道のKさんに、お礼かたがた報告を受けたことを、お伝えしました。
永年、もやもやしていたことがはっきりして良かった。そう思いました。
ということで、以上、報告いたします。
4月24日(日)、朝から雨。
今の時期、シトシト雨は森羅万象の生き物にとっては慈雨。
仕事の方は漆仕事は敬遠して、駒磨きからはじめました。
駒は、箱に入った「小型・中将棋駒」。
普通の中将棋駒は、碁盤サイズの盤に12枡描いた枡目に収まる大きさなのですが、こちらの「小型・中将棋駒」は、将棋盤サイズに12枡。
箱から出して、一つひとつ磨いてゆきました。
その様子がこの映像。
玉将の駒尻に「六十九才」とありますので、十年前の作品。
表面に艶がもどり、元の箱に戻しました。
時たま、このようにするのは良いことです。
この駒には、小さな行き先表示がしてあります。
紅いボッチは一歩で、棒線はズーッと進めるしるし。
これは、400年前の工夫でもありますね。
あ、そうそう、これは彫り駒です。
4月23日(土)、曇りがち。
今日は珍しく、午後から二組のお客様。
先のお客様は、これから駒づくりを始めたいという人。
後のお客様は、この間の展示会に来られたお客様。工房を直に見てみたいとのことでした。
来客に際しては、前もって、おおよその訪問理由をお尋ねしてそれなりの準備をするわけですが、今日はどちらも、ウエルカムということで、この日になりました。
ところで、本日の仕事は午前中の4時間でしたが、一組、出来上がったのがコレ。「錦旗」の福良駒。映像はその一組です。
材は御蔵ツゲのうっすらとした斑入り。王が1枚、玉が2枚のセットです。
話は変わりますが、昨日の「伝・後水尾天皇筆も駒」の行方に関して、函館のKさんから有力な情報をいただきました。
それによると、千葉県野田市にある「関根名人記念館」に、寄託されているとのことでした。
最も信頼できる場所だし、そうかもしれないと
で、早速、手紙を出して確認をしようと思います。
4月22日(金)、曇り時々小雨。
以前にもふれましたが、質問をいただいたので、再び「伝・後水尾天皇筆の駒」について述べておきます。
「伝」とは、そのような伝承があるという意味です。
但し、その伝承が正しいかどうかは別問題であります。
「伝・後水尾天皇筆の駒」は、後水尾天皇の筆跡だとして、大橋家で永年伝えられたきた駒で、昭和15年だったか16年だったかに、木村名人が、当時、ウン百円也(現在の貨幣価値でウン百万円か)で大橋家から買い取りました。
その映像です。
素材はツゲでなく桑木。銘は無く、文字は重厚な漆書き。
この駒が、現在多く作られ市販されている「錦旗」の原型であり、豊島龍山がこれを模倣した駒を「錦旗」の銘を付けて売り出したところ、大いに人気を博した。
しかし、当時(’明治時代後期)は、「錦旗」と呼ばれた駒は他にもあって、一つはこの大橋家の「伝・後水尾天皇筆の駒」なのですが、もう一つは関根金次郎(後に名人)が譲り受けた「竹内淇洲筆の駒」で、これを愛用した関根は連戦連勝。他を寄せ付けないところから、敵なしの駒として、世間ではこれを「錦旗」と呼んだ。
他のもう一つは、豊島龍山の「錦旗」に対抗して、某駒師が全く別の文字の駒に、同じ「錦旗」の銘を刻して売り出した駒。
駒の世界では往々にしてありがちなことで、当時からモラルが欠如していたようです。
さて、話を世にいう「錦旗」に戻しますが、ある時(昭和60年ごろ)小生に、木村家(木村義徳さん)より「大橋家の伝承が正しいかどうか、駒を鑑定してほしい」との要請がありました。駒を将棋博物館に寄託するにあたって、ハッキリさせておきたいとの理由でした。
当時、木村名人ご夫妻は両人ともご健在で、小生はすぐさま、神奈川県茅ケ崎の名人宅へ伺って、名人より、この「伝・後水尾天皇筆」と言われていた駒をはじめ、10組近い駒を拝見させてもらいました。
結果、この駒は、まぎれもなく水無瀬兼成卿のことの筆跡であると断定し、そのことは博物館副館長・木村義徳さんも納得され、将棋世界誌「博物館だより」でレポートしました。
余談ですが、名人宅での昼食は、ご一緒に絶品のウナギ重。その美味かったこと。これも忘れることはありません。
ところで、小生が作る「錦旗」ですが、作り始めたのはこのあと。本歌たる「伝・後水尾天皇筆の駒」をベースに小生なりの感性を加味して「錦旗」としての駒を作り始めたのでした。
さて、その本歌の駒。
10数年前、博物館が解体されて、木村家に戻されました。しかし、関係者が相次ぎ亡くなっており、その後のことは分かりません。
気になる行方ではあります。
4月21日(木)、曇りのち雨。
今日も昨日と同じ、盛り上げに終始しました。
ところで、今日の映像は、じゅんびはしていたものの、展示会に出展しなかったもの。
いずれも、日ごろ仕事場に展示している駒です。
あ、ちょっとボケていますね。
明日、もう一度撮り直してみます。それまでは、これにてごめんください。
4月20日(水)、晴れ。
展示会が終わり、2日が過ぎていつもの生活リズムに戻りました。
今日も盛り上げ仕事。
心もいつものように、リズムを取り戻したかに見えました。
でも、ちょっとおかしかったのですね。
仕事は、いつも18時までには終えるのですが、今日は違ってしまいました。
17時を過ぎて、「もうそろそろ終わりの時間だなあ。あと30分ぐらいはやれそう」。そう思いました。
「ウン、これだけは出来そう」。
ということで、王将、玉将5枚、2組分に「銘」を書き入れる」ことにしました。
「ヨシ、今日はこれでおしまい」。そう思って、後かたずけを日締めたのですが、妬けに外が暗いのです
おかしいな。天気が悪いのかなあ。
そう思いました。でも、おかしいなあ・・。
ここで気づきました。
時間の認識が、1時間狂っていたのでした。
時計をもう一度見ると、18時30分。
オヤオヤ、ということで、今日はいつもより、小一時間仕事時間がオーバーしているのでした。
実はこの勘違い。今回が2回目。
何かが狂っているのです。
そのため1時間、仕事が進んで、その分、夕食が遅れたことですが、実害はゼロ。
以上、今日もつまらない話でした。
展示会残務整理は午後に大方終了。残る時間は久方ぶりに駒づくりを再開しました。
展示会では、慣れないこと故、少々体力が必要でしたが、駒づくりではパワーを多くを必要としない分、気分は軽やか、ホット一息。
まあ、明日からはいつもの環境で仕事ができることに感謝。天に感謝、感謝。
感謝しなければなりません。
外に目を転じれば、山吹の花。
一週間ほど前に咲き出して、今は満開かと。
まさに、黄金の山吹色。
自然は見事です。
4月18日(月)、曇り。
夜が明けて、新しい一週間がはじまりました。
昨日の展示会は80人近くの盛況裏に終了。
皆様にお渡しした「駒根付」は、僅かに残るのみ。
心配していた密にもならず、疎にもならず、天気もマズマズ。
近隣はもとより、遠くから来られた方も多く、片田舎、京都外れの加茂町にまで、お出でくださった皆様に感謝いたします。
お疲れはなかったでしょうか?
ありがとうございました。
今回の26年ぶりの展示会でしたが、皆様の感想と言いますか、展示内容や出展数、皆様はどのように観られましたでしょうか。
率直な感想などお聞かせくださればと思います。
(来年はどうするか。東京などはどうするか、などもじっくり考える参考にしたいです)
当方ですか。
会期中はそうでもなかったのですが、終了後の跡片付けでは思いのほか体力を使いました。
でも、やってよかった。という思いでいっぱい。
本当にありがとうございました。
本日、展示品の中では「福ら駒」に興味をいただいた方が多かったようです。
「福ら駒は新しいジャンルというべきで、1年ほど前に思いついて作り始めました。盛上げ駒より手間がかかっていても、この値段にしているのは皆様に使っていただきたいとの思いです。駒の価値は、掛けたコストだけではありませんからね。
指の感触は、ベタっとした彫埋めではなく、盛り上げ駒に近い感覚。そして指しやすいところだと思います。
展示品の全貌は、近々アップします。
そして非売品もいくつか。その一部の映像です。
これらは、いつも工房で陳列しているものですが、今日明日は会場へ持ち出しました。