北川健太郎という人物を、知っていますか?
他にも同姓同名の北川健太郎という人がいるかもしれませんが、その人は別として、
北村健太郎は今日のニュースで知った「北村健太郎」です。
10月25日(金)、曇り。
本日の映像は「中将棋駒」。木地は薩摩ツゲの柾目。やや厚めの、文字は水無瀬形。その彫り駒で、大きさは、通常の将棋駒と比べ全体的にやや小さい中将棋としてのレギュラーサイズです。
実用的な文箱式の駒箱にセットして、盤は碁盤サイズの軽便なフェルト製の布盤が付属。
榧製の盤は、必要であれば、別途用意することになります。
今、考えていることの続。
早速、6人の方からコメントをいただきました。
そのうちの一人は木津川市関連の方で「アジサイホールの土曜日は予約で詰まっていて、月曜日は休刊日」との情報をいただきました。
そうかと言うことで、弊工房で開くしかないと。
しかし工房は狭いので、一度に多勢には対応できませんので、
「土曜日と月曜日。そして当日の12月1日に、時間を限定して、個別にお迎えするようにすれば、良いのでは」でした。
具体的には、次の時間割りでと考えます。
⓵、土曜日の午前中、 9時 ~10時が一人(一組)。
②、 同じく 、10時半~11時半が一人(一組)。
③、日曜日の午前中、 9時 ~10時が一人(一組)。
④、 同じく 、10時半~11時半が一人(一組)。
⑤、月曜日の午前中、 9時 ~10時が一人(一組)。
⑥、 同じく 、10時半~11時半が一人(一組)。
⑦、月曜日の午後 、13時半~14時半が一人(一組)。
以上で、7人(7組)の方々に対応できそうです。
また、近隣者用に上記以外の平日も希望も受け付たいと思います。
但し、日曜日の③、または④は、以前からの予約者がおられて、
既に埋まっている状況なので優先して調整しますのでよろしく。
と言うことで、改めて希望者皆さんの希望時間帯を複数、第1希望、第2希望等をコメントでお寄せ下さい。
今から調整を進めたいと思います。
なおJR利用の時は、1時間に1本のみの時間帯(毎時30分ころ到着)がありますのでご注意願います。
なお、予め希望される「駒の書体」などを事前にお聞きして、一人ひとり用意する駒を数組づつ、準備して対応したいと思っています。
では、ご希望のコメントをお待ちいたします。よろしく。
10月24日(木)、曇り雨。
先程、手持ちの作品を整理していて、12月1日(日)の水無瀬神宮での「水無瀬駒見学会」前後のどちらかの日に、加茂町で「作品展示会」を開くのもいいのかなと。
と言いますのは、「水無瀬駒見学会」には、遠方から来られる人も何人かいらっしゃるわけで、近隣を問わず希望される方には、ついでに我が「加茂町」にも来ていただくのも良いかと考えました。
「作品展示会」は、希望者だけの事前予約制とし、作品も選りすぐりの20~25組程度に絞って、価格はいつもより安価に。
場所は前回展示会会場の「アジサイホール」、若しくは「我が工房」のどちらか。但し「アジサイホール」は、首尾良く空いているかどうか。明日、確かめてみなければいけませんが。
と言うことで、肝心の参加希望者がどれくらいいらっしゃるかどうかですが、不確定でも良いので、現時点での情報としてある程度把握したいので、参加の可能性がお有りの方は、コメントで教えていただければと思います。
10月23日(水)、深夜。
先ほどまで日曜日に録画したNHK将棋を見ていました。
佐藤康九段と豊島九段の将棋ですが、佐藤九段の将棋はいつ見てもドラマチック。本局もそうでした。すごいねと驚くばかり。
今日は寝むりますが、消去せずに、どこかでもう一度観ようと思います。
10月22日(火)、くもり。
朝晩は涼しくなりました。
12月1日の「水無瀬駒見学会」ですが、キャンセル待ちの方も複数人いらっしゃるとのことで、15人だった募集枠を増やすようにするとのことです。
応募者の多くは、このブログを見ての方のようですが、場合によっては、応募し損なったと諦めている方もいらっしゃるかもしれません。
若し、そのような方がいらっしゃれば、この際、事務局に希望を伝えて申し込まれてはいかがでしょうか。
その時は、併せて当方にもコメントで連絡くだされば、当方も何かの後押しが出来るかもしれません。
「回想記・その11、大局将棋駒・その後のこと」の、再復刻です。
大局将棋は、大阪商業大学・資料展示室オープンの5日前に出来上がり、無事、予定通り納めることができました。
話は前後しますが、駒が出来上がりる真近か、盤も自作して、大きさは縦150センチ余り、横幅140センチ。 材料は9センチ幅の柾目の通った米栂材を横に13枚組み合わせて作ることでした。
気が付いたのは、納入時に使う乗用車には、幅が140センチでは入らない。そこで考えたのは3つに分解できる構造。何事も臨機応変に対応できるのは、自作ならではのことでした。
納入した日、大学の展示室には完成した大局将棋盤と駒を収納する立派な収納展示ケースが入り口付近にどっかりと鎮座。これに感激しつつ、駒を並べるだけで30分ほどかかったことを覚えています。
さて、『トリビア の泉』というテレビ番組を覚えていらっしゃるでしょうか。
20年くらい前の番組です。その 2004年5月19日の朝日テレビ放送で、この駒が使われました。対局は有馬温泉の旅館で、三日間。対局者は伊藤博文六段と安用寺孝功四段(段位は当時)の両氏。総手数はちょっと忘れましたが、確か3800手あまり。あとで対局した両氏から聞いた話では、無理やり三日間で終わらせたそうです。
お疲れさまでした。
映像は、その前後に企画された「世界のチェス・将棋展」のポスター。
2020年8月記事の再復刻です。
回想記・その10、大局将棋駒、出会いと制作
平成9年、国際日本文化センターで将棋学を標榜した「将棋の戦略と日本文化研究」(主宰・尾本恵市教授)がスタートしたのを知った私は、押しかけて参加を許された。メンバーは30人ほど。棋士では木村義徳九段と大学教授に転進されていた飯田弘之七段の二人。その他の人々は将棋好きな大学の先生や研究者の面々で、興福寺駒を発掘した清水康二さんも参加されていた。駒の研究は私一人。400年前の水無瀬駒と将棋馬日記について発表させていただいた。
ある時、出席者の大阪商業大学の谷岡一郎学長から耳打ちがあって「世界最大の将棋の駒を作ってほしい。駒の文字や大きさは任せる」というものでした。
私は、駒数354枚の泰将棋だと思って「分かりました」と答えたものの、話を聞くうちに誤りだとわかった。世界最大のそれは普通の将棋の20倍規模で、駒が804枚の超大型の盤の枡目が36✕36の「大局将棋」。江戸時代初期に考案された将棋で、その存在を示す書付けが、将棋博物館にある大橋家古文書の束の中から発見されていたのでした。
当時、将棋博物館の顧問を仰せつかっていた私は、不覚にもそれを知らずにいて、直ちに確認したのは言うまでもありません。
資料は3種類ほど残っていて、駒804枚の配置図、209種類の駒それぞれの名前と行き方、それに実物大と思われる盤の原図でした。
さて、制作依頼を受けた「大局将棋」の駒はどのような大きさに作るのが良いか、文字はどうするかなどあれこれ考えてイメージしながら2ヵ月ほど過ぎた頃です。
大学では近くアミューズメント産業研究所部門を創設する計画があり、博物展示館も開設して「大局将棋駒」は、その目玉として常設展示する話を漏れ聞いて、ガゼン、私は全力で向き合って駒をオープンに間に合わせようと思った。残されているのは3ヵ月余り。だが、成算はあった。
展示目的の駒だとしても、展示することのみ視野に入れて作ることはしない。駒は実用してこそ価値があるというのが、私の考えです。
大きさは幾分小ぶりでも小さすぎない。厚みは存在感を考えて少し分厚めに。400年前の端正で重厚感ある水無瀬駒をイメージして本物を目指した木地づくりに着手。一番大きい「玉将」から一番小さな「歩兵」まで。盤上に並べたときの微妙な大きさの違いでバランスをとり、例えば「香車」は細く縦長く、「仲人」はやや小さくズングリむっくりと少しずつ大きさを変えながら作る。必要な駒は804枚。でも、倍以上の材料を成型して、その中から色合いなどを揃える。使ったのは薩摩ツゲの古材でした。
駒の文字は表裏で209通り、一見しただけで表裏の違いが分かるよう、表の文字は楷書でやや太め。裏は行書でやや細く。それを直接、肉筆そのままの漆で書き上げて作る。書き駒なら手早く作れるし、古将棋の雰囲気が出る。
ここで断っておきたいのは、一般的に書き駒は安物というイメージ。それが世の中に定着してしまったのは、過去大量に彼の町で作られてきた書き駒しか知らない人であり、水無瀬神宮に遺された400年前の水無瀬駒をご存じない人のイメージに過ぎないということ。書き駒にもピンキリある。江戸時代以前のいにしえの能筆家の書いた駒の文字の美しさを見れば、誤りに気付くだろう。
かねてから私は、水無瀬神宮で水無瀬兼成筆の水無瀬駒に出会って以来、普通の駒づくりとは別に、練習を続けてきたのが自筆での書き駒でした。それを20年以上積み上げてきて、ようやくこのほど「大局将棋駒」作りに試す時が来た。「ヨシ、今度の大局将棋駒は、自筆の書き駒で作る」と決めたのでした。
書き駒は、下地が何も無い五角形のツゲ木地に、一発勝負の漆で文字を書く。その前提として、モデルとなる「雛型」作りは大切で、それを五角形を描いた紙に墨で書くところから始めました。
紙に書いたそれぞれの駒文字は、ハサミで切りだして駒木地に貼り付けて雛型とする。一段目、二段目、三段目ごとにバラけないようにまとめて、これを12段分、200枚近く作る。こうして出来上がったのが次の映像。この雛形は、今でも工房においてあるので、ご覧いただくことができます。
準備作業はこれで終わり。あとはそれぞれ804枚の木地表裏に文字を書くだけ。残された時間は、ふた月を切っていました。
映像は、完成した間際に撮影した「大局将棋」です。
10月21日(月)、深夜。
先ほどまで、NHKテレビ「アナザーストーリイ」を見ていました。
今日の主人公は、数日前に亡くなった西田敏行さん。
「アナザーストーリィ」という番組の存在は知ってはいましたが、他人のルーツを知っても何のプラスにはなりませんので、これまで見ることは全くありませんでした。
しかし今回は、西田敏行さんということで、興味を持って観ることにしました。
生まれたのが今井家。そして5歳の時に幼い息子を養子に出した生母のこと。養子に入った西田家の養母は、生母の姉でもありました。
西田家では、大切に育てられました。
そのことがあったのでしょう。
幼いころから身についた周りへの気遣い。
そして、人気者の俳優になりたいと決めたのが、中学、高校のころ。
後に「青年座」に入り、長い鳴かず飛ばずの時期を経て、中年を過ぎてから人気者へと昇り詰めてゆく人生のドラマチックストーリィ。
およそ1時間でしたが、最後まで見おわって、西田敏行さんが、より身近になったような気になりました。
10月18日(金)、雨が降ったり止んだり。
今日は、木津川市役所に行ってきました。
チョッと確認したいことがあって行ったのですが、折から国政選挙の期日前投票所が開設されており、聞けば、投票券を持っていなくても、本人確認が出来れば投票出来るとのことで、この際にと、投票することにしました。
小選挙区投票と比例区投票、それに最高裁判所判事の信任投票と、その3つ。
イチ押しの候補者も分からないまま、ラジオで何回も聞いた政見放送を参考に、この党(人)が一番マシだろうとの思いで投票を済ませました。
投票が終ってヤレヤレで、最高裁判所判事は全く判断のしようが無かったのですが、最近の最高裁判決は妥当で肯定的な事例が多かったことで、誰にも「x(罰点)」をつける理由はありませんでした。
皆さん。投票は済まされましたか?
10月16日(水)、曇りがち。
先程、南西の空を見上げましたが、うっすらと雲。
星は見つかりませんでした。
本日の映像は、今日届いたハガキ。
奈良の塗師、樽井さんからです。
11月に、奈良市の旧知事公舎の隣にある吉城園で、親子作品展を開くとのこと。その案内ハガキです。
見ごたえはかなりのモノでしょうが、入場無料。
奈良の伝統漆器に関心と時間がある方は、訪ねてはいかがでしょうか。
勿論、私も出かけるつもりです。
10月15日(火)、一時雨の曇りがち。
今、彗星が地球に近づいているとか。
晴れた日の夕方の西の空に見えるというので、昨日は夕方の6時から、ときおり西の空を肉眼で眺めて、それらしい星を捜しました。
しかしソレと言えそうな星は、見当たりません。
しかし、西の南の方、つまり南西の方角に、明るい星が一つだけ輝いていました。
「思ったより明るい(明るすぎる)し、西ではないので、これではないのだろう」と心でつぶやきながら目を凝らすと、一番輝いている星に続いて、小さな星々の点が竪に固まって伸びているようにみえました。
「ひょっとすると、これが探している彗星かな」。
しかし様子思っていたいたのとチョッと違います。
それは、新聞で見た写真のように「ほうき」のような感じではなく、小さな星の点々が竪に固まっているように見えるのです。
何度も見ましたが、肉眼ではそこまで。
やがて、1時間ほどで、星は地平線(山際)のかなたに沈んで、なくなってゆきました。
それで今日、夕刻を待って、もう一度、確かめてみようと西の空を見ているのですが、あいにくの雲、雲の層。今日はダメ。
と言うことで、もう一度、明日の星を待つことにします。
果たして、あの星が目指す「彗星」だったのかな?
疑問が続いております。
14年前の2020年8月に書いた1ページですが、
アーカイブとして、ここに移しておきます。
(この時期の回想録はこのほかにもありますので、宜しければご覧ください)
回想記・その5、水無瀬神宮の歴史史料と水無瀬駒
大阪府北部の水無瀬神宮を訪ねたのは、駒づくりを始めて2~3年経った頃でした。
安土桃山時代に作られた「水無瀬駒」が遺されているのを知り、是非見せてほしいと手紙を出したのですが、直ぐには叶わず、どうしたものかと思っていたところ、ラッキーなことに、上司の親戚筋が地元、島本町の町会議長だと知って、そのツテを頼りに訪問を許されました。
客殿に通されて畏まっていると、水無瀬忠政宮司は「ここには学者や大学の先生が歴史調査でよく来られるが、駒については貴方が初めて・・」と言いながら、テーブルに出されたのは紫檀の箱に入ったツゲ駒でした。
400年ほど前に作られたものだが、五角形の駒形はあくまで端正。文字は存在感たっぷりで気品ある漆書き。生半可なモノではなく、相当な人が書いた駒だと直感したのです。
この古い水無瀬駒との出会いが、私の駒づくり人生を確定的にした次第。
拾い読みしてゆくと、公家や武将と思われる名前が並んでいて、知られた武将の名もあって、さらにめくると、家康の名も繰り返し書かれている。
全部で60数ページ。どうやらこれは400年近く前の水無瀬駒の納入記録であり、思いもしなかったすごい史料が出現したことに心が震えたことを覚えている。
すべてを写真に撮って、解読するにはひと月を要したが、それを余さず季刊誌「将棋賛歌・枻」で「水無瀬特集」として発表できたのは、幸運なめぐりあわせでした。
以来、水無瀬神宮には、マスコミ関係者や将棋文化に興味ある方々を、ことあるごとにお連れしたりで、それは今でも続けていることの一つです。
10月12日(土)、晴。
本日の映像は、愛用の漆筆(蒔絵筆)。
漆の盛り上げに使う極細の筆です。
穂先は、白い飼い猫の首周りの産毛を直径1ミリ程度に束ねたもの。
(首周りの毛は、他の部位とは違って擦れておらず、毛先の透明の細い水毛が、産毛そのままに残っていて、これが貴重)
もう20年くらい前に、作者が材料不足と老齢により廃業するというのを聴いて、一生分として20数本をまとめて買い入れました。
映像の右端が今回下ろした1本で、穂先に黒い漆がついています。
左の白軸と黒軸3本は、使用前の筆の姿。
これらを大切に使っているのですが、今回はそのうちの1本を、筆おろし(?)しました。
盛り上げの文字書きですが、実際に使うのは、穂先の本の先っぽのホンの1ミリくらいだけのところなのですが、漆の粘っこさに負けない筆全体の腰のネバリ強さと、穂先の水毛が命。
七
この筆のラベルは小判型の大阪「角岡嘉七製」で、今では、この筆のような上等品は入手できないので、貴重品ではあります。
ただし近年、これとは全く別の角型ラベルの「角岡製」もあって、一段も二段も劣った品質の別人の手による紛らわしい筆も出回っていて、充分な注意が必要です。