A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

ビリー・ホリデイがついた嘘・・・・

2014-02-11 | MY FAVORITE ALBUM
Commodore Recording 1939~1944 / Billie Holiday

耳の聞こえない作曲家佐村河内氏の偽作曲家騒ぎがニュースを賑わしている。
嘘が実しやかに通用する、騙すのは悪くなく騙される方が悪い、人の迷惑よりも自分達の利益を優先する、このような風潮が社会にまかり通る今の時代を象徴するような事件だと思う。

ゴーストライターがこの事実を表に出すと言ったら、「表に出されたら自殺するしかない」というのが彼の言葉だったそうだ。自殺する前にやることがあるだろう、どこまで行っても自分のことしか考えられない人間だ。
明るい話題が少ない今の時代、お涙頂戴の商売ネタの片棒を担ぎ現代のベートーヴェンと持て囃したメディアも同罪だ。自分達の金儲けと視聴者のうけしか考えておらず、メディアの本来の役割を忘れている。

世の中基本はすべて信頼関係で成り立っているはずだが、昨今の一向に減らない振込詐欺事件や、今回の事件をみるに、ついにこの日本も「人を見たら泥棒と思え」という社会になってしまったかと思うと嘆かわしい限りだ。

さて、先日紹介したマリリン・ムーアが師と崇めたのがビリー・ホリデイ。音楽の世界でなくとも、一生の内に一度は「この人に付いていこう」と思える人に巡り会いたいものだ。仮にそのような人に出会えば、多少の欠点や気になることはあっても、何の疑念を持つことも無く全幅の信頼を寄せて後を付いていってしまうであろう。それも信頼関係だ。

ムーアに限らず後のすべてのジャズシンガーにとって何らかの意味で師となり範となったビリー・ホリデイの代表作はというと、やはり「奇妙な果実」であろう。反対に、この奇妙な果実がビリー・ホリデイのイメージを作り上げてしまったといってもいいかもしれない。ビリーの一生は必ずしも幸せな一生をおくったとはいえない。その一生と曲のイメージがダブってしまうのかもしれない。

この「奇妙な果実」は生涯で何度かレコーディングされたが、何といってもコモドア盤のオリジナルが代表作だ。
その昔、評論家の油井正一さんが、ビリー・ホリデイのコモドア録音の全16曲を一枚に収めたアルバムを監修された。それも曲を録音順に配して。これがそのアルバムだ。まだジャズを聴き始めてまもない頃買い求めた。多分高校生の頃だったと思う。

今でこそコンプリートアルバムというのは編集方針のひとつとしては当たり前であったが、一枚のアルバムへの収録時間に制約のあるLP時代は編集とは選別することであり、コンプリートアルバムというのはめずらしく、油井氏も自分の監修方針に鼻高々であった。

その一曲目に「奇妙な果実」が収められている。1939年4月20日録音。ビリー・ホリデイの晩年の活躍、そして麻薬との戦いのスタートとなった節目ともいえる録音だ。
ライナーノーツに油井正一氏の解説が書かれている。この曲を歌うようになった経緯として、詩人ルイス・アランから「奇妙な果実」の詩を見せられた。そしてそこに自分の父親を殺したすべてが歌い尽くされているのを見て、自らこれを歌うことを決心し、自分と当時のビリーの伴奏をしていたピアノのソニー・ホワイトで曲を作った。その結果が、このコモドア盤の「奇妙な果実」の初レコーディングとなったと。

油井氏の解説はさらに続き、この奇妙な果実に続くYesterdaysの名唄は、前の奇妙の果実の余韻があったからこそ起伏にとんだ感情表現が鮮やかだとある。これはいたく同意する。油井氏が言うところの時系列で聴く効能かもしれない。

ビリーは自伝の中でもこの曲は自分で作ったことになっている。
ところが、月日が経ち様々な事実が明らかになる中で、この奇妙な果実に関しては実はビリーは作曲していなかったというのが現在の定説となっている。
今騒ぎになっている偽作曲家事件の話とどうしてもダブるが、この事実が明らかになって果たしてこのビリーの奇妙な果実の価値が下がったのか?レコードが発売禁止になったであろうか?

この曲を書いたのは、作詞と同じルイス・アラン。これはペンネームで本名はエイベル・ミーアポールという高校教師であった。共産党員だったということもあり、反体制派というスタンスでこの曲を作ったのであった。最初ビリーのところに持ち込まれたとき、ビリーはあまり関心を示さなかったという。
ところがある小さなパーティーで歌った時ある客が感動しその薦めもあってクラブでも歌うようになった。そのクラブも「カフェ・ソサエティー」という上流階級向けでもなく、かといってギャクを売りにするエンターテイメントを行う場でもなかった。進歩的な左派や自由主義者が集まる場であり黒人も入ることができた場所であったというのも、この曲が受け入れられた要因であったにかもしれない。

クラブで歌われるにようになって曲にも手が入れられたという。伴奏用のアレンジも施された。そして、歌われるシーンもラストセットのクロージングの曲として決まっていった。意図的に演出した訳でもないと思うが、必然的にこの歌の位置づけは決まっていった。そして曲自体も彼女が歌い込んだ結果、最初にアランから持ち込まれた時から深く熟成していったのだろう。

当然、レコーディングの話が持ち上がる。その時彼女が契約していたコロンビアは歌の内容から客の反発を恐れて辞退した。その結果、この曲はマイナーなレーベルであるコモドアから発売されることになった。これも、この曲の運命であったのだろう。

そして、この録音が行われることになる。彼女が曲を紹介されてからそれほど長い期間は経っていなかったかもしれないが、録音に至るにはこのような長い複雑な経緯があった。それゆえ、短いながらこれだけ情感豊かな歌に仕上がったのだろう。

やっとレコードとして陽の目をみた「奇妙な果実」であったが、マイナーレーベルということもあり爆発的にヒットした訳ではなかった。それでもじわじわと世に広まったのは、一緒に録音されたファイン・アンド・メローがあったからという話もある。

いずれにして、このようにして世に出た「奇妙な果実」は単に出来上がり譜面をビリーが一丁上がりで歌った代物でないのは明らかだ。このビリーの歌は、アランがビリーに持ち込む前に歌われていた曲とは明らかに異質な物になったという話もあるように、アランがオリジナルを書いたのは事実としても、この録音された歌に曲に仕上げたのはビリーといっても間違いはない。

この曲の原作はビリー・ホリデイではなかったとしても、今話題の偽作曲家事件とは本質が違うように思う。
もし、彼女は今生きていて、「奇妙な果実」は誰がつくったのか?と聴いても、「それは私」と言うと思う。
なぜならばアランの元歌を誰がが歌っても、きっとこのビリーのようには歌えなかったと思うので。ビリーによって新しい曲に生まれ変わったということでよいのではなかろうか。

Strange Fruit 1939



Fine And Mellow 1957 




1. Strange Fruit
2. Yesterdays
3. Fine And Mellow
4. I Gotta A Right To Sing The Blues
5. How Am I To Know
6. My Old Flame
7. I'ii Get By (As Long As I Have You)
8. I Cover The Waterfront
9. I'ii Be Seeing You
10, I'm Yours
11. Embraceable You
12. As Time Goes By
13. (I've Got A Man, Crazy For Me) He's Funny That Way
14. Lover, Come Bsck To Me
15. I Love My Mon (Billie's Blues)
16, On The Sunny Side Of The Street

Billie Holiday (vol)

1~4
Frank Newton and his Café Society Orchestra
Recorded at New York City, 711 Fifth Avenue, World Broadcasting Studio
On April 20, 1939
5~16
Eddie Heywood and his Orchestra
Recorded at New York City, 1440 Broadway, WOR Recording Studios
On March 25, April 1,8,1944

奇妙な果実
Billie Holiday
ユニバーサル ミュージック クラシック
コメント (2)
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