Jazz Men Detroit
ペッパーアダムスは1930年デトロイト近郊のグロスポイントビレッジで生まれた。ダウンタウンから10数マイルのところなので、東京やロスの感覚であればデトロイト生まれといっても不思議ではない。ところが、アダムスをデトロイト出身のミュージシャンとして紹介する場合としない場合がある。それには多分2つの理由があるのではないだろうか。ひとつは、厳密にはデトロイトではないという点。であれば、デトロイトよりもっと遠いポンティアック出身のジョーンズ兄弟もデトロイト出身ではなくなるが。もうひとつは、生まれてまもなく親の仕事の都合でニューヨークに移り住む。デトロイトに戻ってきたのは17歳の時。その点でもデトロイト育ちではない。
そして、デトロイトに戻ったその時初めてバリトンサックスを手にする。翌年、新しいセルマーの楽器に代えたが、その楽器は1978年まで使い続けたそうだ。あの使い古した感じのバリトンはその時がスタートだった。それ以降トミーフラナガンやサドジョーンズなど地元中心にデトロイト出身のミュージシャンとプレーを繰り広げた。したがって、ジャズプレーヤーとしての経歴は正真正銘デトロイト出身のミュージシャンの一員であることは間違いない。その後朝鮮戦争の時には軍に徴兵され朝鮮に渡ったが、途中で日本にも立ち寄ったそうだ。
その後デトロイトに戻った後は、地元のクラブの音楽ディレクターを務め、1955年までジ地元で活躍する。
次の大きな転機は、1956年新年早々再びニューヨークにアパートを借り、活動拠点をニューヨークに移した26歳の時だった。そこではケニークラークやオスカーペティフォードなどとの接触があり、そのペティフォードの推薦でスタンケントンオーケストラに加わることになる。5月25日にはバンドのメンバーの一員として全米のツアーに住み始めたばかりのニューヨークを後にした。その出発直前の4月30日、5月9日の2日間、ケニークラークの音頭取りでデトロイト出身のミュージシャンが、おなじみルディバンゲルダーのスタジオに集った。
ピアノのトミーフラナガン、ギターのケニーバレル、そしてベースはポールチェンバース。色々なセッションで引っ張り凧になっていたメンバーだが、そこにペッパーアダムスがワンホーンで加わった。レコーディングでは初録音に近い新人だが、一緒に演奏するメンバーはデトロイトでの仲間同士。気軽なセッションになったが、アダムスのプレーはこの時すでに溌剌とした吹きっぷりだ。初のリーダーアルバムより1年以上前、コルトレーントンとのセッションの丁度一年前の演奏。
サドジョーンズのアルバムは同窓会的な雰囲気であったが、このセッションはまさに卒業記念のようなものだ。そして、遠くへ旅立つペッパーアダムスの餞別にもなった。音頭とりのクラークも、MJQを辞めて前年から積極的に色々なセッションに加わっていたが、このアルバムを最後にヨーロッパに渡る。本当の置き土産だ。卒業アルバムも各人各様の意味合いと思い出があったようだ。せっかくの卒業アルバムなのに、ジャケットには4人だけ、ケニークラークがいないのが気になる。普通なら先生も一緒に卒業アルバムには載せるのだが。
1. Afternoon in Paris Lewis 5:52
2. You Turned the Tables on Me Alter, Mitchell 4:41
3. Apothegm Adams 5:23
4. Your Host Burrell 5:17
5. Cotton Tail Ellington 5:32
6. Tom's Thumb Burrell 6:37
Pepper Adams (bs)
Kenny Burrell (g)
Tommy Flanagan (p)
Paul Chambers (b)
Kenny Clarke (ds)
Ozzie Cadena Producer, Supervisor
Rudy Van Gelder Engineer
Recorded at Van Gelder Studio on April 30 & May 9,1956
ペッパーアダムスは1930年デトロイト近郊のグロスポイントビレッジで生まれた。ダウンタウンから10数マイルのところなので、東京やロスの感覚であればデトロイト生まれといっても不思議ではない。ところが、アダムスをデトロイト出身のミュージシャンとして紹介する場合としない場合がある。それには多分2つの理由があるのではないだろうか。ひとつは、厳密にはデトロイトではないという点。であれば、デトロイトよりもっと遠いポンティアック出身のジョーンズ兄弟もデトロイト出身ではなくなるが。もうひとつは、生まれてまもなく親の仕事の都合でニューヨークに移り住む。デトロイトに戻ってきたのは17歳の時。その点でもデトロイト育ちではない。
そして、デトロイトに戻ったその時初めてバリトンサックスを手にする。翌年、新しいセルマーの楽器に代えたが、その楽器は1978年まで使い続けたそうだ。あの使い古した感じのバリトンはその時がスタートだった。それ以降トミーフラナガンやサドジョーンズなど地元中心にデトロイト出身のミュージシャンとプレーを繰り広げた。したがって、ジャズプレーヤーとしての経歴は正真正銘デトロイト出身のミュージシャンの一員であることは間違いない。その後朝鮮戦争の時には軍に徴兵され朝鮮に渡ったが、途中で日本にも立ち寄ったそうだ。
その後デトロイトに戻った後は、地元のクラブの音楽ディレクターを務め、1955年までジ地元で活躍する。
次の大きな転機は、1956年新年早々再びニューヨークにアパートを借り、活動拠点をニューヨークに移した26歳の時だった。そこではケニークラークやオスカーペティフォードなどとの接触があり、そのペティフォードの推薦でスタンケントンオーケストラに加わることになる。5月25日にはバンドのメンバーの一員として全米のツアーに住み始めたばかりのニューヨークを後にした。その出発直前の4月30日、5月9日の2日間、ケニークラークの音頭取りでデトロイト出身のミュージシャンが、おなじみルディバンゲルダーのスタジオに集った。
ピアノのトミーフラナガン、ギターのケニーバレル、そしてベースはポールチェンバース。色々なセッションで引っ張り凧になっていたメンバーだが、そこにペッパーアダムスがワンホーンで加わった。レコーディングでは初録音に近い新人だが、一緒に演奏するメンバーはデトロイトでの仲間同士。気軽なセッションになったが、アダムスのプレーはこの時すでに溌剌とした吹きっぷりだ。初のリーダーアルバムより1年以上前、コルトレーントンとのセッションの丁度一年前の演奏。
サドジョーンズのアルバムは同窓会的な雰囲気であったが、このセッションはまさに卒業記念のようなものだ。そして、遠くへ旅立つペッパーアダムスの餞別にもなった。音頭とりのクラークも、MJQを辞めて前年から積極的に色々なセッションに加わっていたが、このアルバムを最後にヨーロッパに渡る。本当の置き土産だ。卒業アルバムも各人各様の意味合いと思い出があったようだ。せっかくの卒業アルバムなのに、ジャケットには4人だけ、ケニークラークがいないのが気になる。普通なら先生も一緒に卒業アルバムには載せるのだが。
1. Afternoon in Paris Lewis 5:52
2. You Turned the Tables on Me Alter, Mitchell 4:41
3. Apothegm Adams 5:23
4. Your Host Burrell 5:17
5. Cotton Tail Ellington 5:32
6. Tom's Thumb Burrell 6:37
Pepper Adams (bs)
Kenny Burrell (g)
Tommy Flanagan (p)
Paul Chambers (b)
Kenny Clarke (ds)
Ozzie Cadena Producer, Supervisor
Rudy Van Gelder Engineer
Recorded at Van Gelder Studio on April 30 & May 9,1956
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