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12月24日

2017-12-25 17:57:11 | 日記
「ただ銭(ぜに)は取らない」という言葉がある。「好いものは高い」と「高いけど、それだけの値打ちはある」を足し合わせたような意味がだろうが、昨日の誕生日に娘が買って来てくれた「岡埜榮泉の豆大福」と「今半の牛肉」がそれだった。なんとなく朝の目覚めに腹いっぱいの感じがあった。肉を食べるようにと、病院の医師たちからも言われているが、なかなかそれができないでいる。それでも昨夜の今半モノは100グラムは食べたのではないか。

家族麻雀は家人と娘が1週交代で勝つが、今日は娘のツク番。デイサービスサロンでも金曜日に打つので、週2回(娘が土日連休なら3回)雀卓を囲むことになる。ギリギリ2時間近くまでは腰痛が保つ。家でもサロンでも、うまい具合にその辺の時間になる。

競馬は有馬記念。今年の競馬を愉しくしてくれたキタサンブラックが断然の一番人気で、この馬が3着を外すことはないとみて、3連複を中心に買ったが、期待の12番が凡走。やっとオサエの2・3が入って、配当は31.7倍。数字は私の誕生日で、ついでに2・3・12と入ってくれればなぁと思ってしまうのが、競馬というものだ。

ここ最近、ニュースがおもしろくないと思われている方が多いのではないだろうか。大相撲騒動にも飽きられている方が多いのではないだろうか。それでもテレビ局は(視聴率が獲れるとみて)毎日追いかけている。それにしても、貴乃花という人は空気作りが下手だなぁと思う。たとえば自分を囲む記者達に、「やぁ、ごくろうさま、今日は何もありませんよ」と言うだけで、空気はうんと変わる。空気が和らぐ。山本七平さんの「日本人は空気で物事を決める」という言葉を思い出す。

明日は重田名人の指圧治療がある。次女が散髪に来る。今朝の血圧は118-84。

校歌

2017-12-25 16:58:02 | 日記
「六甲(むこ)の山並み背に負いて ちぬの浦風おだやかに ものみな光る学び舎の 栄えある子らと選ばれぬ 我ら学徒岩園(いわぞの)の名よ陽のごとく昇れかし」。兵庫県芦屋市立岩園小学校の校歌の第一章である。私が岩園の1年生になったのは昭和17年4月6日であって、すなわち戦時中。だから、われら学徒 になっている。現在その部分は、われらが母校 に改められている。なお、東京都理事の小池百合子さんは胃アゾの小学校の出身である。

「筑波の峰の青雲を はるかに望む若き眉」(茨城・常総学院)、「東雲の上野が丘に~阿讃の峰と競うなる~」(徳島・池田高校)、「朝日直射す富岡の丘~東洋一の商港横浜」(神奈川・横浜高校)、「はてしも知らぬ平原に 相模の流れせせらぎて~」(神奈川・東海大相模高校)。春夏の甲子園でおなじみの学校の校歌である。中にひとつ異色なのが、愛媛・済美高校の校歌で、歌詞の中に、「やれば出来るは魔法の合言葉」とある。全国の学校の校歌がいくつあるのかは知らないが、その詞の中に、魔法というフレーズが出て来るのは済美高校だけではあるまい。

慶應義塾には幼稚舎(小学校)から大学院までの教室があるが、それぞれに校歌があるわけではない。たとえば、慶應中等部校歌や慶應大学校歌は存在せず、下から上まですべて塾歌で統一されている。慶應義塾塾歌は、塾で学んで人間以外にはほとんど知られていない(作詞は富田正文さん、作曲は信時潔さん)。その点、早大の校歌『都の西北』はポピュラーである私も唄えるし、昔のことになるが、軍隊酒場で大合唱になったことがある。『都の西北』は、軍歌ではないが酒に合うような勢いがある。ワセダで学んだことがなくても、知っている人は多い。歌詞ペーパーがあれば、たとえば家人が入っている中老女子合唱団でも唄えるのではないか。『都の西北』は1章につき7回ずつワセダ・ワセダを繰り返す。ケイオーの歌は塾歌も応援歌もケイオーケイオーは3回の場合がほとんどだ。

12月23日

2017-12-23 23:40:43 | 日記
昨日、デイサービスサロンで麻雀を打った。90婆はお休みであって、91爺とボランティアの雀士2人が相手で、これがサロンの最強の組み合わせのようだ。私はまだサロンでは(リーチ負けを含めても)一度も振り込んだことがない。金を賭けていないので、興味は、正攻法で打つことに移るから、安上がりと見える相手にも振り込まない。振り込まないから、上手な打ち手に見える。2人のボランティアさんのうち、ツッパリ型の巨体の方がよく振り込む。昨日は90爺がツイていて、巨ボラが何度も打ち込んでいた。ノーテン罰符ルールなので、流局すると全員が持ち牌を開ける。私の手に安全牌と見えるような当たりパイが残っているのを見て「凄いカンですねぇ」と3人が感心する。

休憩時間になったら、施設長のIさんが「今月のお誕生日は…」と言って、私ともう一人の老婦人に花束を渡してくれて、祝文を読み上げてくれた。私は誰かから花をもらった経験がない。そういう記憶がない。もちろん、目の前で祝辞をいただいたこともない。私のバースデーにおける頂戴物は、酒、酒、酒である。今日も長女からウィスキーの「竹鶴」をもらった。25日には次女が来るが、これも「山崎」か「オールド」を持って来るだろう。

今朝は妹から祝いの電話をもらった。脚に痺れがあるとかで不自由そうだったが、声に元気があるので安心した。体調のバロメーターは、声である。喋り方である。妹はテニス好きである。腕のほどは知らないが。小さい頃から練習を積んでいるから、ちょっとしたものではあるのだろう。マリア・シャラポワはガッチリとした体形だが、妹は痩身である。体質なのか、肥るのを避けているのかはわからない。脚の痺れに有効なものは何か?なんとなく赤ワインとチョコレートの感じがするが、根拠はない。

今日で満82歳になった。家人と娘に助けられて生きている。生き過ぎである。それを言うと、誰もが笑う。笑いの意味は、なぁにもっと行きたいくせに…だ。しかし、本人は別の思いだ。8年前の胸部大動脈瘤破裂が寿命だったと思っている。お迎えのクルマが、私が片足を乗せたのを全身が乗ったと勘違いして、帰って行ったのだと思っている。

男がいて、女がいて

2017-12-21 09:36:54 | 日記
老醜という言葉がある。私は、30,40代の頃にそれをイヤというほど見た。場所は同人誌だった。同人誌Pには老若男女が100人余りいた。年齢的には60歳以上の人たちが多かった。その老人たちの容姿が醜かったのではない。醜いのは嫉妬心だった。誌には同人同士の作品を批評するというか、感想を述べあうページがあった。たとえば、私がその欄でA子さんの作品を2,3度続けて褒めたとする。もちろんお世辞でもなんでもない、正直な感想である。すると、私とA子さんが怪しい仲なのではないかというような話が、いつの間にか広がったりした。そういう噂をB子とC子が立て、D助やE平がのるといったこともあった。みなさん老人である。老人の嫉妬である。私が思ったのは、この老人たちは異性にモテたことがないのだなぁということだった。

圧倒的に男性の多い会社に勤めていた。現場の製造ラインにはアルバイトの近所のおばちゃんたちもいたが、事務所系には男子10人に女子が1人か2人の割合だった。西部劇の世界における男女比率と同じである。当然に女子社員はモテることになる。たいていが20代の前半の年齢だったから、F男とG子、H男とJ子というように、公認カップルが何組かができる。後から見てみると、その公認組はすべて社内結婚している。会社のOBOG会を開くと夫婦そろって出席する。片方が病死した例はあるが、離婚は1組もない。綾小路きみまろさんの名セリフを借用すれば、あれから40年どころか、あれから50年になる。私は、仲の好い夫婦を見るのが好きだ。

25歳で結婚して以来、私は、男性と暮らしたことがない。家人と2人での生活がスタートし、生まれた子供は2人とも女の子だった。私はうんと得をしたと思っている。その第一は、清潔である。女性は清潔であって、男はだらしがなく、薄汚いというのが私の認識なのだ。家人や娘は特別にキレイ好きではない。ごく普通に生活していても、女性は男性よりスッキリしている。そうそう、猫のViViも女の子である。毎朝、娘のブラッシングを受けて清潔である。

友人

2017-12-20 08:50:30 | 日記
25歳のときに自動車部品製造の中企業に就職した。社長が東北出身だったこともあって、岩手、山形の高校を出た社員が多かった。中でも岩手のA工業高校出の若者が生産管理、技術、品質管理といった部課に目立った。少し経ってから気づいたのが、A工高の連中が必ずしも仲が好くないということである。私は茨城の高校に1年間だけ学んだことがあるが、仮にそこに3年までいて卒業し、そして東京の同じ会社に入ったとしたら、と考えてみると、たぶんひとつのグループを作るというか、少なくとも会社帰りに高校仲間同士で酒を呑むとか、麻雀を打つといったことはしただろうと思った。東北人はそうはならないのかと不思議だった。仕事上のことだって、仲間意識がある方が何かと便利なのではあるまいか。同じA工の出身といってもすべてが同年ではない。1年差であれ2年差であれ、先輩後輩の関係も生じているわけで、月に一度ぐら先輩が酒の1杯もごちそうしたっていいではないか。また少し経ってその中の1人と帰り道が一緒になって、焼き鳥屋へ行き、その話をしてみたら、同じ学校を出たといってもあんなものだと答えた。

女同士の付き合いは男のそれよりも長いということを、私は若いときに何かで読んで不思議に思った。男には酒があると思った。酒友というのは永続性があるはずだと思った。アイツと呑みたいなぁというのは、60歳、70歳になっても不変なのではないかと思った。しかし、私の場合は違った。家人には60年の友が何人かいる。団地時代の友人も50年になるのが数人いる。時々電話で話して、どこかへ食事に出かけたりしている。私にも50年来の酒友は存在するが、一緒に酒場へ行くことはない。女性の方が行動的なのだ。身体が軽いのである。私は金曜日になるとデイサービスサロンへ行って、90老たちと麻雀を打つようになった。もちろん、サロンに酒は無い。