6月に2週間、8月から9月にかけて3週間の入院生活を送った。前者は個室だったので自分で室温を調整したが、昼間は25.5度、夕方から朝までは26.5度に設定した。後者は終わりの11日間、4人部屋にいた。看護婦さんが1日に2,3回、室温について訊きに来たが、私が注文することはなく、他の3人の意見のままにしていた。私が遠慮したのは、自分がいちばん健康だったからである。妙な言い方だが、病気(あるいは手術)の大きさから言えば、私が最も重い患者であった(とにかく死の何センチか前まで行ったのだから)。しかし、回復(退院)がいちばん早いのが自分であることが(毎日の回診の様子からみて)わかっていたからだ。 今夏は猛暑であったようだが、室温は26度前後に保たれている日が多かったと思う。 もう30年も前、正月に家族旅行にでかけ、宿泊先のホテルで一晩中ヒーターがまわっていて、翌日目覚めると唇がカサカサに乾いていて、粘膜が剥がれ、ヒドイ目に遭った経験があるので、以後、夜の暖房は一切使わないことにしている。いま、ヒーターをつけるのは私が1回目に目覚めだときで、だいたいは5時過ぎ。次の目覚めは7時近くだが、充分に暖まっている。 これまた設定は26度。 冷房の26度と暖房の26度の涼しさと暖かさがなぜこれほど異なるのかについて、誰かに説明してもらった記憶があるが、よくわからなかった(水のことで考えれば、26度の温水と26度の冷水があるのか)。私は、一度訊いてわからなかったことは、二度訊いてもわからない頭脳構造なので、このことは、永遠の謎という袋の中に入るが、私の中にあるその袋は、かなり膨らんできている。
「久しぶりですね」「はい、2日間オヤスミをいただいて、今日は5日ぶりです」「何か、懐かしいですね」「ありがとうございます」・・・入院していたときの、私と看護婦のAさんとの会話である。懐かしいと言ったのはお世辞ではなく実感だった。Aさんは30歳前後、明るく元気で雑談も巧く、白衣姿に適材適所の印象があった。 懐かしいとは、久々に出会った人、場所、物、風景、音など、多くの対象に用いられるだろうと思うし、5日ぶりは決して久しぶりではないのだが、それをそう感じるのはAさんの人柄と病人の私の気の弱さであっただろう。 退院してから3度、アフターケアのために通院したが、入院中にお世話になったドクターに外来であたったのは1度だけで、そのときはやはり懐かしかった。 Aさんを含め、懐かしい看護婦さんには1人も会っていない。病室の階に行って挨拶をしたいのだが、昔の母校を訪ねるのとは違って、多忙の病院の中、そんなことはできない。 もう1ツの懐かしい風景が、病院のまん前にある明るいアズキ色の屋根の家で、家人が駐車場から車をまわしてくるまでの7,8分間、玄関の待合ホールからずっとその家を眺めている。 事情(入院中、ずっと貴宅の屋根を見ながら、あれこれ考えていた)を話して、家の中を見せてもらえないだろうかなどと、バカなことを考えたりする。病気をすると、懐かしいことが増えるというのは確かなようだ。
「みんなが少食になった」というのが朝の食卓の話題で、「パパとAちゃんとBちゃんはアルコールのカロリーで生きているようなもの」と娘が言い出し、「でも、もう好きにした方がいいよ」と付け加えた。これは、私の胸部大動脈瘤とAの食道がんを指していて、いつ何が起きるかわからないという意味(Aは家人の弟、Bは家人の妹で、いずれも呑ん平である)。 週間ニュースに、今年亡くなった人を偲ぶコーナーがあって、中の、池内淳子さん76歳・・・が「?」だった。前に少し書いたことがあるが、私は17歳から25歳まで世田谷の若林に住んでいて、高校時代は自転車で近所を遊走したりしたが、そのコース内に池内さんと柳沢真一さん(名ドラマー)の新婚の家があった。 池内さんが私より2ツ上だとすると、彼女は19歳で結婚したことになるが、どこかに私の錯覚があるのかもしれぬ。家人の姪が懐妊したという、すばらしいニュースが入った。 私の大病など、ロクな話題のなかった年の、その終わりかけに、こういうめでたい話があるのは、佳き年が来ることを予感させる。 競馬は朝日杯で、大穴になる予感があって、3,000円の投資を100円玉1~3個のバラ買いしたが、すべて見物料になった。 先々週は海老蔵に飽きたが、先週は小沢に飽きた。 年をとると飽きる(面倒臭くなる)のが早くなるが、それにしてもくだらないことばかりだ。 次女が来るので家人がアレコレの家庭料理を作るが、私がありがたいのがイナリズシ。 前述のように、少食(胃袋が小さくなったのだろう)ではあるが、これだと3個は食べられる。 おいしいおかずがあってもゴハンを1碗というのはムリだが、イナリ&だしまき玉子はすいすいと食道を通って行く。
台所用具でいちばん便利なのは電子レンジだと家人が言うが、その通りだと思う。 特に忙しい朝の活躍ぶりは見事で、ごはんとスープ、煮物を温め、半熟目玉を1分で作ってしまう。 もちろんコーヒー、お茶の類も待たせるということがない。これがなかった頃はどうしていたかと考えるとありがたいことだ。 このブログは私が汚い字で書いたものを娘がパソコンで発信してくれている。雑文を書くのはボケ防止のひとつの方法だと思っているが、それを読んでくださる方がいるから愉しく、しかも手紙と違って、多くの方に読んでいただけるのは、やはりパソコン発信の力である。 その日、競馬場(あるいは場外売場)に行く知人に馬券購入を依頼することは可能であるが、その場合、100円玉1ツ2ツを使っての大穴ネライを10種類も頼むことはできない。 また私に腰痛がなく、自分で場外売場に行くとすると、最も近いところで横浜だから、タクシー代と電車賃だけで5千円かかるが、5千円は私の1日の馬券購入額と同じである。 いま私がいちばん感謝しているのは、電話で馬券が買える仕組みであって、その仕組みもまた科学技術なのだろう。050-3161-7777のボタンを押すと、「はい、こちらはJRAです。加入者番号と暗証番号をどうぞ」という女性の声がでてくる。いや、ありがたい、ありがたい。こういうことは世界の何処の国でも可能なのだろうか。 それともレンホウ大臣が、2位じゃだめですか?と叫んだ日本の科学技術は抜群に進んでいるのだろうか。いやぁ、テーマの割りに程度の低い話になりました。
菅直人首相の仮免発言が話題になっているが、これに限らず、首相は言葉が巧くない。私は無免許人間なので家人に訊いてみると、教習所である程度の技術を身につけ、仮免許を得て、所外(公道)へ出るのだが、必ず教官の同行が要るとのことだった。この同行する教官に当たるのが仙谷由人官房長官なのかどうかわからぬが、その人の役目の第一は、車をぶつけたりさせないことであるだろうし、小泉氏には飯島勲氏が横でアクセルとブレーキを操作していたのだと思う。 私は酒と麻雀に免許を持っている。酒はまず先輩に教わり、次に自分の金で呑むあたりが仮免だろう。本免許はツケのきく呑み屋が出来てからというのが相場だろう。 麻雀は学校や職場のいわゆる仲間内で打っている間は仮免であって、町の麻雀で初対面の連と打てるようになれば本免許だろう。 株と競馬をうんと勉強して、せめて仮免ぐらいはほしいと思ったりするが、年齢的にもう無理だ。 この2ツは麻雀と異なって敵が見えないので難しく、仮に学生時代から教習所へ通ったとしても、仮免まではいけなかったと思う。