gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

衣食住

2012-04-17 23:01:03 | 日記
昭和20年8月上旬、我が家のあった兵庫県芦屋市はB29から投下された焼夷弾によって多くの家が焼失したが、我が家は奇跡的に焼け残り、翌日になって、焼け出された近所の家の人達が(たしか8人ほど)避難してきた。 1人のおじいさんを除いて、あとはオバチャンと子供だった。家には3室の離れ座敷があり、また客用の蒲団も残っていたから、その点は充分だった(蚊帳も足りていたような記憶がある)。 水は出たが、火は明け後から拾ってきた材木などを七輪(芦屋ではカンテキと言う)で燃やして作り、持ち寄った麦、ジャガイモを玄米でつないで、とにかく飢えをしのいだ。これでおわかりのように焼け出された人達も最後に食料だけは抱えたのだ。オバチャン達は、昼間針仕事をしていた。 布は祖母が提供した敷布(シーツ)や古い浴衣だったという、8歳上の叔母の証言がある。縫っていたのは子供用のパンツだったそうだ。 そのゴタゴタ生活は終戦(8月15日)の記憶がないから、たぶん5,6日間のものだっただろう。 その年の12月、我が家は食料疎開の形で茨城に転居する。翌年の5年生の教科書(だったと思う)に、「私達の生活の基本は衣食住」という1行があって、私はすぐに、あの日々を思い返した。 麦とジャガイモ、シーツで作るパンツ、焼け出された人達を思い返した。衣も食も住もなかった戦争時代、それでもどこか懐かしい気がする。