新丸子に住んでいた頃は近所の床屋で散髪していた。 50がらみのマスターと若い娘さんが5,6人いて、それが全員親戚関係という家庭的な店だった。 ある夕方、店の入口のところで、真っ赤に日焼けし、ガッチリとした体型の青年(少年に近い)と一緒になり、青年は私に席を譲ってくれた。 当時の私は180センチで75キログラムあったが、青年は、鍛えられたという点で私よりおおきく見えた。 彼が髭剃りだけで帰ったあと、マスターが「彼が、ハンノウのマツバラです」と教えてくれた。埼玉飯能高校から大洋ホエールズに入団(今ならドラフト3位ぐらいか)した松原誠は、やがてホエールズで4番を打ち、後に巨人に移ってからはセ・リーグの選手会長を務めることになるが、やはり私に先を譲ってくれたように、人望があったのだろう。 蒲田工場に勤めているころ利用していた近くの床屋に、抜群の女性理容師がいた。 私の髪型は、慎太郎刈りとオカッパをあわせたようなもので、決して簡単ではないが、彼女だけはそこのところを見事に消化して整えてくれた。私より10歳ほど上に見えたから、もう引退しているだろうが、生涯で出会った随一の名手だった。 平成6年に脳梗塞を患ってから、床屋に行っていない。 次女の器用な手先を頼って、月に2回、家の台所で刈ってもらっている。初めの頃はタイガーカット(という英語があるのかは知らぬが)もあったが、3カ月も経つと、床屋さんレベルになった。先日、次女が足を骨折したとき、家人が、「私が刈ってあげるわよ」と言い、たしかに家人も手先は器用だが、次女のときの経験から、タイガーは確実だろう。 外出の機会もほとんどないから、どうでもいいのかもしれぬが、やはり気分ということがあり、次女の足が治ったときはほっとした。
物心ついたころの私には3人の兄(正確には叔父。父の弟達と1人の姉=叔母)がいた。 1番上のA雄は16歳年上。東京の第一師範を出て、茨城の小学校の先生をしていたが、太平洋戦争が始まる前年に、甲種合格で海軍に召集され、開戦翌年の6月のミッドウェー海戦で空母青竜とともに海に沈む。次のB雄は14歳上。慶應義塾大学を繰り上げ卒業(従軍のため)して海軍に入り、台湾で終戦を迎え、21年に帰還するが、7年後に肺結核の手術の際の輸血失敗で世を去った。 3番目のC雄も同志社大学からの学徒出陣組で、伊豆大島で終戦、帰還するが、26年に病死する。 私とはちょうど一回り違いの亥年。 私はB雄もC雄も間接的には戦死だと思っている。戦時中の過労と栄養不足が病気に勝てなかったのだと思っている。 叔母は芦屋高女から女子挺身隊として縫製工場で働いていた。 渡しより8ツ上で健在である。 これが私の、兄と姉に関する太平洋戦争であって、叔母と私が生命を永らえているのは、少し遅れて生まれたからというだけなのだ。 今朝の新聞に、太平洋戦争の映像(DVD)の大きな広告が入っていた。 戦争の悲惨さ、虚しさを語り継ごうという意味は充分にわかる。しかし、私の中では、もう孫達も聞く耳を持たないだろう・・・娘達だって・・・という思いが先立つ。 食卓で、私と家人が戦中戦後の食糧難のこと(たとえば、豆カス、サツマイモの葉まで食べたことなど)を話すと娘が大笑いするが、戦争の話は、その辺まででいいのではないかと思ったりする。 時々、ミッドウェーの海に眠るA雄のことを思い出す。 硬派であり、優しく、そして我が家系ナンバー1の、心の広いアニキだった。