(志村の一里塚、左右一対の一里塚①番目)
(左右一対の一里塚)
徳川幕府は、五街道を制定すると、その街道の一里ごとに塚を造らせた。
街道の両側に造った一里塚は、中山道69次の中でも、
現在(2012.4.24.)一対で残っているのは、僅かに15個しかない。
全部で135個在ったうちの15個である。
左右の開きでは、地形の関係で道幅が異なり千差万別であるが、
左右で前後にずれているもので、16mもずれているものがある。
国の指定史跡になっているのは、中山道上では二つあるが、
一つは板橋区の志村の一里塚であり、もう一つは垂井の一里塚である。
しかし、道路左右に残っているのは「志村の一里塚」で、
ほぼ原形をとどめており、頂上に榎が植えられている。
当初一里塚が造られた時、「植える木は余の木にせよ」、
あるいは「ええ木にせよ」と、名古屋弁で「良い木にせよ」と家康が言ったらしいが、
良く聞こえなくて、聞きなおすのもはばかられ、
榎の木ということにした。
榎も初代のものでは無さそうであるが、現在残っている木は、
しだれ桜、松、ケヤキだったりする。
明治になって伝馬制度がなくなり、参勤交代もなくなり、
鉄道が敷かれてからは、まさに無用になった。
(平出の一里塚、松の木が植えられている)
勿論、本陣も脇本陣も無用になり、
不要になった大きな建物は、郵便局や警察署、学校に当てられた。
もともと本業で酒造業であった所はそのまま酒造を続けたが、
旅館業に変ったものもある。
ボクの記憶に新しいのが、新宿にあった「ホテル本陣」。
もう50年も昔の話で、今はどうなったか知らない。
木曾の「細久手宿」では、今でも旅館業を営んでいる。
もっとも本来の本陣でなく、尾張藩領指定の本陣であったらしいが。
尾張藩領と言えば、木曾福島も尾張藩であったらしいが、
尾張徳川家が中山道の長い道のり(名古屋から木曾福島にいたる)を、
管理していたのは、徳川家康が敵の攻撃を事前に察知するためであったに違いない。
碓氷峠の関所も信用できる家来に守らせている。
(馬籠本陣跡の門、藤村記念館になっている)
(「夜明け前」に出てくる馬籠本陣裏手の土蔵の隠居所)
本陣を紹介した本が島崎藤村の小説にある。
「夜明け前」である。
ここで本陣の条件なるものが述べられていたが、
その中でボクにとって衝撃的であったのは、
緊急の場合逃げ延びる事ができる裏口が必須条件であったことだ。
本陣とは、武士たちにとっては戦場の中の本部であり、
敵に襲われた場合に、逃げ出す事が出来る街道につながる裏口が
必要条件である事だ。
このときすぐに思い出したのが、桶狭間の合戦である。
信長は、休憩中の今川義元の本陣へ攻撃をかけ、
見事これを討ち取るが、
このときとっさに逃れる事が出来る裏口があったら、
今川義元は逃げおおせたに相違ない。
すると歴史は変わってくる。
これは偽らぬボクの気持ちだ。そうすると秀吉もなく、
家康もなかったかもしれない。
家康が無ければ、中山道もなく、
ボクのこの一文も無かったであろうに・・・。
と考えると、歴史はとても面白い。
(下諏訪宿本陣・岩波家の門構えと、左に見える明治天皇の石碑)