中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

祐泉寺(旧中山道を歩く 240)

2011年04月26日 11時37分46秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(祐泉寺)


(石造物)

(太田宿)
木曽川の土手に沿って歩くと、右下に石造物が並んでいる所があり、
秋葉神社、天満大社、御嶽神社、山神、水神様の碑があります。
さらに進むと、稲荷神社、祐泉寺の順で並んでいる。

祐泉寺には、幡隆上人と志賀重昂のお墓があるというので先に入る。
しかしここには坪内逍遥や北原白秋の歌碑、松尾芭蕉の句碑が残るのみで、
肝心の幡隆上人と志賀重昂のお墓は見当たらない。

坪内逍遥の歌碑には、山椿の歌二首が次のようにある。

・やま椿 さけると見れば いにしへを 幼きときを 神の代とおもう
 ・この木の実 ふりにし事の しのばれて 山椿はないと なつかしも


また、北原白秋の歌碑には、

・紅葉堅 秋雨ふれり うちみるや 石灯篭の あお苔のいろ 

さらに松尾芭蕉の句碑には、

・春なれや 名も無き山の 朝かすみ
とある。


(祐泉寺)


(北原白秋の歌碑)


(坪内逍遥の歌碑)


(芭蕉句碑)


(太田稲荷)

祐泉寺の境内を出て、隣の太田稲荷神社に行くと、
神殿の前には、お稲荷さんらしく赤い鳥居が幾重にも立っていて、
その隣に播隆上人と志賀重昂のお墓が並んである。

志賀重昂は地理学者で、
美濃太田から犬山にいたる木曽川の風景を、
ドイツのライン川と重ね合わせ、
「日本ライン」と名づけたことで知られる。
お墓は、東京の高井戸にある宗源寺と、
生まれ故郷の岡崎の世尊寺にある。
岡崎には矢矧川(やはぎがわ)が流れている。
そこで別名 矧川(しせん)魚長とも呼び、戒名にも使われている。

志賀重昂が、この辺りの木曽川を「日本ライン」と命名したご縁で、
この地にも戒名が刻まれた墓石が残っている。
戒名に「章光院矧川(しせん)日浄居士」とあり、
横に故志賀重昂先生の碑とある。

また、播隆上人は越中生まれの念仏僧で、
日本アルプス槍ヶ岳に初登頂した「アルピニスト」である。
しかし、播隆上人は天保十一年(1840)日本アルプスの帰り、
脇本陣(祐泉寺先にある)の林市左衛門宅で亡くなり、ここに埋葬された。
お墓には、暁道播隆大和上とある。


(志賀重昂の供養塔)


(奥に見える無縫塔が播隆上人の墓)

木曽川土手から祐泉寺に入ったが、旧中山道は祐泉寺を通り抜けた北側にあり、
道路へ出るとすぐ左に曲がり、またすぐ右に曲がる枡形である。
左側が「旧小松屋」の休憩所、その向かいが十六銀行太田支店跡で、
昭和58年(1983)までの40年間美濃太田市の発展に貢献してきた
建物で、土蔵造りでその風貌が伺える。

宿場らしい古い町並みが続く。


(枡形)


(枡形)


(小松屋)


(十六銀行の説明)


(十六銀行入口)











太田の渡し(旧中山道を歩く 239)

2011年04月20日 11時08分26秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(太田の渡し)

(伏見宿 2)
「木曽のかけはし、太田の渡し、うすい峠がなくばよい」
と詠まれた「太田の渡し」は中山道の三大難所の一つであった。

対岸の太田にあるので「太田の渡し」というが、
こちら側の現可児市今渡地区にある渡し場は、
「今渡(いまわたり)の渡し」という。

旧中山道の富士浅間神社の前を右折しないで直進する。
すぐ右手に「別格 今渡弘法大師 旧跡」
の石柱と幟旗がはためく参道がある。
この弘法大師は、今渡の渡し横にある大師様である。

さらに進むと、右手に津島神社があるので、その手前を右折する。
道路は木曽川に突き当たり、さらに右折すると石畳の竹薮の間を通る。
やがて竹薮が切れて、木曽川べりに出る。
ここが「今渡の渡し」で対岸に「太田の渡し」が見える。
右上にふれあいの里弘法堂があり、今渡弘法大師様の境内が見られ、
太田橋への近道へ入って行く。


(右に行かないで直進する)


(今渡弘法大師)


(津島神社)


(津島神社手前を右へ)


(木曽川に突き当たリ右へ)


(竹薮の道を抜けると「今渡の渡し」)


(今渡の渡し)


(船の乗り場?)


(今渡弘法様へ上がる道)


(今渡弘法様境内)


(ふれあいの里弘法堂)


(太田橋近道)


(太田橋)

出たところが国道21号線、太田橋である。
渡り終えた右側が、日本ラインの船くだりの乗船場であるが、
以前は立派な建物があったはずであるが、
今はテントだけしか残っていない。
見ると、川べりにいっそうの舟が横付けになっているものの、
乗客は一人もいない。
今日はウイークデイであるからなのか。

岐阜県太田から愛知県犬山あたりまでの木曽川を日本ラインという。
名づけ親は地理学者の志賀重昂(しがしげたか)である。
彼がこの辺りの景観を「ラインの縮図」と呼んだことによる。
志賀重昂のお墓は、この先の祐泉寺にある。


(右手の日本ライン乗船所)

太田橋を渡り終えて、交差点を左側に道をとり、河川敷に入って行く。
「太田の渡し」を見るためである。
飛騨木曽川国定公園の看板を見て、
青い芝生の中の道を行くと、石橋があり、渡り終えると石畳が現れ
「太田の渡し」に着く。
川岸に立って中をのぞくと、綺麗な水が緩やかに流れ、
川底が見えるが底は大きな岩が占めている。相当深そうである。


(国定公園の案内)


(石橋)


(石畳)


(太田の渡し)

浮世絵師 広重は「木曽海道69次之内 太田」をここから描いたと言う。
「木曽のかけはし、太田の渡し、うすい峠がなくばよい」
と俗謡に歌われた木曽川は、この絵を見る限り悠揚迫らぬ眺めである。
浮世絵は木曽山中で伐採された木材を運ぶ筏や、渡し舟が見える。
船着場の岸には、旅人たちがそれぞれ対岸を見やっている。


(広重画浮世絵 木曽海道69次の内「太田」)

現実に戻って旧中山道を歩く、道路は堤防に登り西に向けて進む。
やがて右下に美濃加茂市文化会館の裏手に一里塚跡の標柱が建っている。
「土田の一里塚跡」と案内書の説明にある。

文化会館というだけあり、一里塚跡の脇には奇妙な造形物がある。
これ以外にもこの手前でカブトムシではないだろうが、
虫の形をした造形物があった。

この一里塚跡の標柱の先にお手洗いがあるので、
用のある方はここでの利用をお勧めする。

これから太田宿に入って行く。

(土手の上の中山道)


(一里塚跡の標柱と造形物)


(昆虫の造形物)


(太田橋)










飯盛り女の塚(旧中山道を歩く 238)

2011年04月15日 12時57分13秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(伏見の信号)


(信号脇にある一本松公園)

(伏見宿)
次の交差点右側に一本松公園がある。
そこは街道を歩く人の休憩場所でもあり、
伏見宿の紹介場所でもある。
丁度お昼頃でもあり、包みを開いておにぎりを食べることにした。
見渡すと広い縁側の上に伏見宿の見所が掲げてある。

一つはラクダで、ラクダの飼い主が病気で倒れ、伏見宿で三日ほど寝込んだ。
そのとき近在の人々3000人がラクダ見たさに見物に来た、とある。

ボクは今、板橋宿を過ぎた志村一里塚近くに住んでいるが、
このラクダは、板橋宿の平尾脇本陣にも繋がれたことがある。
将軍家へ献上するためであるが、将軍に断られたので、
板橋宿脇本陣に繋がれていた。
珍しさに近隣から人が押しかけた記録が残っている。
そのラクダである。

二番目は名号碑で、播隆上人は日本アルプスの槍ヶ岳を初登頂した日本人として知られる。
その上人の残した「南無阿弥陀仏」の名号碑が、
宿場西の外れにある。
三つ目は、十返舎一九が書き残した「木曽海道膝栗毛」の中に、
伏見宿の旅籠主人の馬鹿げた話が載っていること。
四つ目、江戸時代に水運が盛んであった新村湊で働く人たちが病気にかかる時など、
平癒の神様として信仰された<小柳様>は,
伊勢湾台風の3年後に倒れたこと。etc.


(らくだ)


(播隆上人)


(弥次さん喜多さん道中)


(新村港の柳)

この一本松公園のある信号を左折する。左に学校を見て進むと、
道路は右にカーブする。
その曲がり角に「洞興禅寺」がある。
見ものは、その境内に子安観音と女郎塚があることであろう。

どの宿場もそうですが、
伏見宿にも飯盛り女と呼ばれる女郎が多くいたようである。
身寄りの無いまま病死した彼女らを弔うため、
伏見宿内にある子安観音の一角に女郎塚が作られ、
今もひっそり祀られています。

その昔、彼女らは家が貧しく、
食べるものにも困っていたので、
口減らしのため親が女の子供を売ったのである。
人身売買で、宿場に来て働いた女たちは、
お金を返済できれば自由になれたが、
その返済のために身を売って稼いだ。
多くは借金の返済が出来ずに命を落としていったと言われる。
雇い主から見れば、遊女は商品であるから、
死後の扱いを丁重にして、
生き残りの遊女たちの働きを期待したように思われる。
(ボクが考えるに、返済が出来なかったとは考えられない、
多分、ほとんどは返済完了し、
儲けの途中で命を落としたと思われる。
考えれば考えるほど、惨めな話である。)
品川宿、板橋宿などにも、
こうした遊女の墓が見られる。


(洞興禅寺)


(子安観音像)


(女郎塚)

国道21号に戻って西に向うと上恵土(かみえど)神社がある。
さらに進むと、国道は左にカーブして、その後右に曲がっているが、
歩行者は直進する。
右手に大きな建物があり、これはパチンコ店であるが、
その前の道路わきに一里塚跡の碑がある。
やがて「加茂公設市場」の交叉点に出ると、
道路は直進は自動車道専用道路になり、
信号を右折すると、
市街地へ出る道路と分かれる。
右手に公設市場の大きな建物が見えるところで、
市街地に出る道路に沿って歩道を進むと、
JR太田線の踏み切りがありこれを越える。


(宿場らしい建物)


(上恵土神社)


(ここは迷い易いが、直進する)


(一里塚跡の碑、後ろにパチンコ店が見える)


(加茂公設市場の信号)


(信号右折して市街地に入る道路となる)


(市街地へ入る道)


(市街地への道はJR太田線の踏み切りにすぐ出る)

どんどん市街地に入っていく。
左手に「光峰作」の可児人形店を見て、
歩道橋をくぐり大きな交叉点にでる。
ここを右折したくなるが、先は新太田橋で、
「太田の渡し」がある橋はもっと下流で道なりに進む。

道路を進むと右手にある「今渡神社」の参道を越え、
「今渡公民館南」の信号を渡り、金剛山龍洞寺の門前を過ぎると、
右に「富士浅間神社」の前で道路はY字路になり、
右に折れていくと太田橋で、
「太田の渡し」の無い現代はこの太田橋を渡る。

往時は通称「太田の渡し」で木曽川を渡ったので、
太田橋たもとの船着場に行くことにする。


(可児人形店)


(歩道橋をくぐり)


(今渡神社)


(龍洞寺)


(富士浅間神社)


(浅間神社前の信号、右は太田橋)


(太田橋)

















鬼の首塚(旧中山道を歩く 237)

2011年04月09日 10時15分28秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(鬼の首塚)

(御嵩宿 5)
国道21号線を西に向うと、白い幟旗がひらめく場所に出る。
白い幟旗には、「鬼の首塚」とあり、近づくと「鬼首塚遺跡」の石柱があり、
祠の中には「関ノ太郎 首塚」の石碑がある。
御嵩町の重要文化財に指定されている。

御嵩町の説明によれば、
(伝説によると、鎌倉時代の建久・正治の頃(1190~1200)、
すこぶる凶悪で悪業三昧の男が鬼岩の岩窟に住み着き、
乱暴狼藉を極め住民を大いに悩ませた。
この者は西美濃不破の関の生まれであったため、
住民はこれを「関の太郎」とか「鬼の太郎」と呼び恐れていました。
そこで正治元年(1199)、
人々はこの地の地頭 交告(こうけつ)源吾盛康にこの惨状を討え、
退治してもらうことにしましたが盛康は京の地にあり、
おいそれと帰ることが出来ませんでした。
そこで家臣四名に太郎の退治を頼み、御嵩の地に帰しました。
ところが、なかなか太郎を討つことが出来なかったため、
蟹薬師(願興寺)に祈願した所、
太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、
そのお告げの通り四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、
それを捕え首を切ることが出来ました。
四人の者は太郎の首を首桶に入れ、
検分のため都へ運ぼうとしましたが、
急に首桶が重くなり一歩も進むことが出来なくなりました。
すると首桶を縛っていた縄が切れ、中から首が転げ落ち、
落ちた首も動かすことが出来なくなったため、
それをこの地に埋めました。
これが「鬼の首塚」の由来と言われています。
首塚のある辺りを「桶縄手」と呼び、
木曽海道膝栗毛の十返舎一九も、
この地のことを詠んだ歌を残しています。

・桶縄手 今もその名を 朽ちさりき
           塩漬けにせし 鬼の首かも)
(御嵩町・御嵩町観光協会)とある。

つまり、ここは関の太郎のお墓であった。
この首塚の横に 子規が呼んだ歌碑が建てられている。

・草枕 むすぶまもなき うたたねの
          ゆめおどろかす 野路の夕立   (子規)


(子規の歌碑)

次の信号は県道83号線と交差する場所で、
信号角に御嵩神社がある。
信号を渡った先で、右の脇道に入るが、
脇道に入ってすぐ中山道の案内看板がり旧中山道であることが判る。
(右伏見宿、左御嵩宿)とあるので安心して進むが、
すぐに国道21号線に合流する。

しばらく国道21号線に沿って進む。
右手に「郷社 八幡神社」の石塔を見て、
また、左にある川の中にいる川鵜や鷺が、
のんびりえさを求める姿を見て前に進む。
のどかな気分である。


(県道83号線との交差点)


(信号かどの御嵩神社)


(その先の右に入る道)


(右脇道に入った所にある案内)


(八幡神社の石塔)


(川の鷺や川鵜)

間もなく左に入る道路の角に「比衣の一里塚」の石柱を見たら右の脇道に入る。
少しすると高速道路下をくぐるが、これは東海環状自動車道である。
のどかな田舎道を進むと、突き当たるが中山道の案内があり左へ行く。
また、国道に合流するので、国道の歩道を歩く。


(一里塚跡の碑)


(高速自動車道をくぐる)


(国道21号線に合流)

しばらく歩くと、右手に駐在所の交番があるので、この前を右に入る。
少し登り坂になるが、もう一度国道に合流すると、
左側が「御嵩町伏見公民館」の建物があり、
その庭先に二つの石碑がある。
一つは「伏見宿 本陣の跡」もう一つは「是より東 尾州領」である。

伏見宿には宿場らしきものが見られない。

次の交差点右側の(一本松公園)に伏見宿らしい面影が見える程度であろう。


(駐在所の前を右脇道に入る)


(国道21号線に合流した左手にある公民館)


(道路わきにある伏見宿本陣跡の碑)


(本陣跡の碑の右隣にある「是より東 尾州領」の石碑)


(伏見宿 一本松公園)















願興寺と愚渓寺(旧中山道を歩く 236)

2011年04月03日 11時29分45秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2
2011/3・11の東日本大震災で被災された方々にとって、
春はまだ遠いかもしれません。
避難生活をされている方々に、
 少しでもお役立てたらという願いを込めてお届けします。





(商家竹屋)


(本陣跡)


(中山道みたけ館)


(願興寺)

(御嵩宿 4)
2010/11月30日 ホテルを出て快晴の秋空のもと、
今日も一日絶好のハイキングの日である。
名古屋鉄道(通称 名鉄)「御嵩駅」を降りる。

道路を挟んで目の前が願興寺である。
お寺の向こう側が「中山道みたけ館」その隣が「御嵩宿本陣跡」。
そしてその横に「御嵩宿商家竹屋」がある。

残念ながら本日定休日の看板が掛かっている。
朝が早い所為だろうか? もう9時になっているのに・・・
そうだとすれば、昨日入っておくべきであった、と悔やまれる。

やむを得ず「大寺山 願興寺」に入る。
朝早いせいであろう、お寺はがらんとしている。

願興寺によれば、
(815年伝教大師(最澄)によって創建されたという天台宗の古刹である。
二度にわたる兵火により本堂等は消失。
幸いにも本尊・薬師如来像をはじめ諸仏像は焼失を免れた。
本堂も地頭・纐纈源吾盛康(こうけつげんごもりやす)によって再興され、
二度目の焼失後も近在の農民・玉置与次郎と市場左衛門太郎らの発願により、
素朴な造りであるものの、
板一枚、柱一本を持ち寄って見事再建される。
この辺りでは通称「蟹薬師」で呼ばれている。)(大寺山願興寺)

そのいわれは、その昔一条天皇の皇女である行智尼(ぎょうちに)が、
ここに庵を結んで間もなく庵の西南にある大池から、
蟹の背に乗った金色の薬師如来仏が池の面に浮かばれた。
これを薬師如来像の胎内に納めて、
本尊蟹薬師として願興寺を建立した、と言う。

願興寺には本堂を取り巻くように広い回廊があるが、
東山道を旅する人々に夜露をしのげる場所を与えたであろうと推定されている。
本堂は国の重要文化財に指定されており、
古刹とは言うものの、回廊は床が抜けそうに感じた。
また、鐘楼門は県の重要文化財に指定されていて、
周りの紅葉に囲まれて、見るからに荘重な鐘楼門であった。


(願興寺本堂の回廊)


(本堂の回廊2)


(本堂の回廊3)


(本堂の回廊4)


(紅葉に包まれた鐘楼門)

中山道は、願興寺が枡形の角になり、
道路は右にそしてすぐ左へと曲がる。
辺りは宿場らしい古式豊かな家が点在して、
すこし進むと突き当たる形となり右折する。
道路を郵便局があるところまで入ったら、
行き過ぎになるので引き返すこと。

ここが第二の枡形で、
次の信号で国道21号線を左折するのが旧中山道である。
しかし、京都の龍安寺の石庭のもととなった庭で知られる愚渓寺を訪ねるので、
この信号を右折する。


(願興寺の枡形)


(宿場らしい古い家)


(次の枡形)


(国道21号線の信号に出る手前右側に常夜灯がある)


(国道21号線を右折した最初の信号愚渓寺の案内が小学校の看板の下のほうに見える)

右折後最初の信号の角に、「御嵩小学校」の看板があり、
その下に小さく「大智山 愚渓寺」の案内があるので、
左折し急な坂を登ると、右手中腹に愚渓寺が見える。

石柱に「大智山 愚渓寺」と大書してある。
東海地方では名だたる名刹であるという。
この石柱の反対側には、大きな石灯籠があり威圧感を感じる入口である。
愚渓寺は大変美しいお寺で、手入れが行き届いていて、
沢山の参拝客があるらしく、
門前には駐車場があり、
その先に御嵩町が見渡せる。


(愚渓寺の入口)


(門前の駐車場から見た御嵩宿)

入口となる門の前にも二基の灯籠が控えている。
門の内側には、観音立像が手招きしているように待っている。
中に入ると、龍安寺の石庭の原形となった庭園(枯山水)が、
観るものの気を引き締める。
掃き清められた白い砂の中に、
九個の臥龍石が残されている。

この庭は一体何を表わしているのだろうか?
心が求める真理を表わしているのだろうか?
心を慰める豊かさを表わしているのだろうか?
あるいは極楽浄土を表わしているのだろうか?

石庭の横の庭に、菩提樹の木が植えられていたが、
お釈迦様が悟りを開いた菩提樹を意味するものであろう。
健康と安寧をお祈りして退出した。


(愚渓寺の山門)


(観音立像)

0060
(愚渓寺の臥龍石庭)

(菩提樹)

愚渓寺を出て、国道21号線をひたすら西に急ぐと、
右手に幟旗がひらめく場所に出る。

「鬼の首塚」である。


(鬼の首塚)