中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

明治天皇行在所と於菊稲荷(旧中山道を歩く 68)

2005年10月19日 22時52分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(高札場跡の標柱)



(新町宿3)
しばらく中山道に沿って町なかを歩く。
右手の個人宅敷地内に高札場跡の碑が建っている。
ここまでを笛木新宿、そしてこの先が落合新宿となる。
もともと新町宿は、この二つの宿を合わせて新しい宿と
云うので新町宿と呼ばれたそうだ。

そこから少し先に、行在所公園が右手にあり、公園のおくに
「明治天皇新町行在所」の石柱がある。
説明によれば、
(明治天皇は明治11年北陸・東海地域の御巡幸(視察)を
行いました。その途中新町に宿泊されたのが、この行在所です。
当時は木造瓦葺平屋建ての本屋と付属家の二棟で、
旧中山道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、
庭には数株の若松を植えてありました。)とある。

(明治天皇行在所)

この行在所公園を左に見て進むと、右側に稲荷神社の
赤い旗竿が、はたはたひらめいているのが見える。

(お菊稲荷1)

(お菊稲荷2)

「於菊稲荷」である。
新町で評判の飯盛り女の「於菊」が、動けなくなってしまった。
日頃からお稲荷さんを信仰していたので、小屋を建てて
養生させたところ元気になった。との言い伝えを持っている。

飯盛り女は、当時、春をひさぐ女であった。
具合が悪くなったので「小屋を建てて養生させた」とあるが、
思うに、厄介払いをして「隔離した」ととるのが正しそうだ。
各宿場の遊女たちの雇い主が、お墓を建てて丁重に弔っている痕が、
各宿場のあちらこちらに残っているが、まだましなほうで、
実際には稼げなくなった年寄りの遊女たちの扱いは
どんなであったか想像が出来ない。

しかし、この稲荷神社にある水屋は新町文化財に
指定されているので、見ておきたい。
説明によれば、
「この水屋は文政六年(1820)新町の人々の浄財により
創建された。とくに、水屋の彫刻は、精巧を極め、
水鉢の冰香(ひょうこう)の筆跡は寛政の四大詩人
大窪詩仏(おおくぼしぶつ)によるものである。
同時代に生きた蜀山人の狂歌に
『詩は詩仏・絵は文兆・芸者は小万に狂歌こそ我』
と詠まれていることから、詩仏の高名さが判る。」
(新町教育委員会)

(水屋)

 ・大窪詩仏は明の古文辞格調派の影響を受けた詩風から、
  詩人の個性を尊重する新しい詩風を定着させた。
  詩仏はさかんに各地を遊歴し、漢詩の日本化、大衆化を進めた。

話が中山道からそれてしまった。
中山道に戻って進むと、JR新町駅入り口交差点があるので、
左折し駅に向かう。
駅前のロータリー脇に、新町の史跡の案内看板があるので、
参考にして今度は歩こうと思う。

(新町駅前の案内看板)

看板の下の方に下の方に胴塚稲荷と首塚八幡宮が見えるので訪ねようと思う。