中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

神流川古戦場跡(旧中山道を歩く 66)

2005年10月12日 22時46分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(神流川古戦場跡の石碑と案内)



(新町宿)
日本橋を出発して13日目。埼玉県は広い、通過するのに8日間かかった。
今日(2005.Jan.7.)、神流川を渡ると群馬県にはいる。昔の呼び名は上野国、上州である。

神流川の橋を渡り始めたら、後ろから自転車を押した、
土地の人と思われる初老の男性が、追い越そうとしたので、
右側に見える山の名を確認しようと
「あの山が赤城山ですか?」と尋ねた。
「そうですよ。どちらからお出でですか?」と
逆に質問に遭った。土地の人なら誰でも知っているはずの
赤城の山の名を聞いたからであろう。
「はい、東京からです」と答えると、
「何時に東京を出ました?」
今日、東京を出発したと勘違いしたらしい。
「いえ、今日は深谷から歩いてきました。」
空は晴れ上がり何処までも青い。風が強く帽子は飛ばされそう。
男性も押している自転車が倒れそうになるほど風が強い。
上州名物の空っ風だ。

そのうちに橋を渡り終えた。
橋を渡り終えたところに、「神流川古戦場跡」の石碑がある。
男性が立ち止まって、
「古戦場は向こう側の下であったようです」
石碑とは反対側の橋の上流の河川敷を指差して教えてくれた。

(古戦場跡の石碑)

古戦場石碑の案内に拠れば
(天正十年(1582)六月十九日、織田信長が本能寺に
倒れた直後、関東管領滝川一益は信長の仇を討たんと
京へ志し、これに対し好機至れりと北条氏は五万の大軍を
神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍
一万六千を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、
滝川軍は戦死三千七百六十級の戦史に稀なる大激戦で
「神流川合戦」と呼んでいる。後世古戦場に石碑を建て、
首塚、胴塚も史跡として残され東(あずま)音頭にもうたわれ、
神流川の清流も今も変わりなく清らかに流れている。)
とある。(新町教育委員会)

川べりを農地にするための開墾時には、
「いたるところで、おびただしい数の白骨が発見されました」と
愛想の良い初老の男性が教えてくれた。
本庄側は神流川が流れ、新町側は、河口に行けば利根川になる
烏川が流れていた。
橋が終わると土手から道は下り坂になる。
好々爺の男性はお別れを言って
下り坂を自転車に乗って、勢いよく降りていった。

坂を下りきったところに、新町側の「見透かし灯篭」と
「見透かし灯篭再建乃記」がある。
ちょうど旧中山道と国道17号線の分かれ道の地点だ。
 見透かし灯篭を前にして右側の旧中山道を行くと
すぐ八坂神社が在る。


(新町側の見透かし灯篭。この右側が旧中山道)