(本庄側の見透かし灯篭)
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(本庄宿9)
中山道を進むと、右側に阿弥陀堂と一里塚跡の碑がある。
すぐ先で国道17号に合流する。
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(阿弥陀堂)
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(阿弥陀堂脇の一里塚の碑)
しばらくは17号沿いに歩くが、
神流川(かんながわ)の手前の信号を左折し、
高崎線のガードをくぐると、右側に大光寺がある。
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(大光寺)
本堂への参道を行くと、左手に鐘楼があり、その先には、
文化12年(1815)本庄宿の商人 戸谷半兵衛が、
街道を往来する人々の寄付を募って、
神流川を越す旅人のために建立した
常夜灯が移築されている。
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(見透かし灯篭)
神流川は洪水のたびに、橋の位置や川の瀬が変わるので、
薄暗くなれば常夜灯が必要であった。
署名が入っていないので、英泉の作品と推定される
「支蘇路ノ駅(きそじのえき) 本庄宿 神流川渡場」によれば、
川の中州までは橋があり、その先は舟で渡った。
画面右手には、石灯篭が描かれている。
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(蕨宿の歩道上にあったタイルの「支蘇路ノ駅 本庄宿 神流川渡場」に見える見透かし灯篭)
江戸幕府は防衛上の理由で、橋を架けさせなかったが、
「常には 仮はし有」であったらしい。
神流川は本庄宿を越え、新町宿に近いところを流れ、
一般には武蔵国と上野国との国境に認識されていた。
常夜灯は神流川挟んで、本庄宿と新町宿の両側にあり、
「見透かし灯篭」と呼ばれた。
大光寺にある灯篭は本庄側の灯篭であり、
橋を渡り終えたところに、新町宿側の常夜灯は
残っている。
また、大光寺は、臨済宗円覚寺派の寺で、山号を勅使山という。
建保三年(12159に武蔵七党の一党である丹党の、
勅使河原権三郎有直が創建したもので、勧進開山は禅宗を
伝えた栄西禅師である。― 中略 ―
当寺には栄西禅師直筆の扁額と総門、忠臣直重父子の冥福を祈った
不背碑(親子地蔵)六角のガン部を持った石憧、神流川の渡しの
安全を祈った見透かし灯篭が現存し貴重な文化財として知られる。
(埼玉県・上里町 両教育委員会)
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(臨済宗の創始者栄西禅師直筆の扁額)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/f2/582fa9c71aad70c9539a7f0d353d9eec.jpg)
(直重父子の不背碑)
中山道に戻り神流川をわたる。橋の親柱代わりに
「見透かし灯篭」のレプリカが置いてある。
その台座に「見透かし灯篭」のいわれが書いてある。
もう新町宿であるし、ここからは上州(群馬県)に入る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/5e/25dbfb81112d90250523572dbf8ec277.jpg)
(見透かし灯篭のレプリカ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/a9/c4461f3a5b9c908bf29c97d18bcd38df.jpg)
(見透かし灯篭のいわれ)
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