中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「竹屋の渡し」の常夜灯と山谷掘公園(旧日光・奥州街道の番外記 3)

2013年06月17日 17時12分04秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(常夜灯)


(言問い団子)屋さんを出て、
隅田川の桜橋を渡ろうと、川の南側土手を歩くと、
左手に常夜灯が見える。

常夜灯についての説明板によると、
(かってこの付近には「竹屋の渡し」が設けられていた。
春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島花柳界へと、
遊興客を数多く運んできました。
まだ照明が発達していないこの時代には、
この常夜灯明かりが非常に重要な役割を果たしていました。
また、明治の画家たちは墨堤の桜と、
この常夜灯を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。
当時の向島の恰好のシンボルとして、
その姿を今に伝えています。)(墨田区教育委員会)とある。
(隅田川の竹屋の渡し、今はX字型の桜橋がある)
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(桜橋のオブジェと東京スカイツリー)

X字型をした桜橋を渡ろうと橋の中ほどまで来ると、
三角錐のオブジェがあり、振り返ると東京スカイツリーと一緒に
良い景観であったので写真におさめた。

常夜灯の説明の中に、「遊興客を数多く運んで・・・」の部分があるが、
何処へどのように舟で運んだのか理解できなかったが、
桜橋を渡って土手を降りると、
「今戸橋(いまどばし)」の橋脚が二つ、土中からにょきっと突き出している。
ここは江東区
道路を挟んで向こう側にも「いまどばし」の橋脚が二つある。
道路向こう側に行くと、橋脚のうしろに「山谷掘公園」の案内板がある。
(いまどばしの橋柱)


(道路向こうの今戸橋の橋柱)
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(山谷掘り公園の案内看板)
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説明によると、
(山谷掘がいつ頃掘られたかは、はっきりしないが、
江戸の遊里との関係から見て、おそらく江戸初期にできたものであろう。
都下水道局ポンプ場のところから、
隅田川へと注ぐ約七百メートルにおよぶ山谷掘りは、
北区音無し川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。
当時、この堀は吉原への通路の一つであった。
山谷掘りを通るので吉原通いを、別名、山谷通いとも言った。
猪牙舟(ちょきぶね)などを仕立てて、
このコースを使う遊興はぜいたくとされ、
まさにおだいじん遊びだった。

橋の上流の方から、日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、
山谷掘橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と
九つの橋が架けられていたが、埋め立てに伴い全て取り除かれており、
橋台のみが昔の面影を残している。
現在は、水と緑の憩いの公園として整備されている。)とある。
(山谷掘り公園)
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つまり、「竹屋の渡し」の常夜灯は、
吉原通いのおだいじんの行き来に使われたということだ。
この山谷掘りは当然、吉原大門までつながっている。
説明にあるように、今は堀の上にコンクリートをかぶせ、
当時の土手と思われるところには、緑が植えられ七百メートルに渡って、
山谷掘り公園になっている。

吉原へきて土手は何処にあるのか、ずいぶん気にしてきたが、
小説などに出てくる、
(土手の柳の陰から、懐手をした浪人者が出てきて、
人が通りかかると、刀を抜いて追い剥ぎをしたり、
新しい刀を購入して、その切れ味を試したのは、
この辺りの土手のことを言う)のかと、
ある程度納得できた。
今、吉原大門にある「見返りの柳」も、
この山谷掘りのどこかに生えていたに違いない。

(山谷掘の、昔は土手であったと思われる土手)
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もともと山谷は、吉原が盛んであったのちは、
「ドヤ街」と異名をとった場所で安宿が多く点在したと聞いているが、
それも整理され、今は安いこと、加えて宿が日本的な畳と和トイレなど、
日本風なことが受けて、
外国人のバックパックの旅行者に大変歓迎されて居るという。

山谷掘公園の吉野橋は、旧日光街道と交差しており、
都立浅草高校前の信号がある。
この旧日光街道を「吉野通り」と今は呼んでいる。
言問橋西の信号から斜め左に入った道路が、
この浅草高校前の信号に出てくる。
(吉野通りを挟む吉野橋)
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(山谷掘り公園の看板)
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(道路向こうの山谷掘り公園まだ700m続く)
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(道路向こうの吉野橋柱)
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言問橋からずいぶん寄り道をしたが、
分からなかったことが分かるようになったのは、
大変な収穫であった。

知らなかったことさえ知らなかったことを知るのが勉強であるから、
今回は大変な勉強をしたことになる。
(吉野橋の上の浅草高校前の信号)
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