中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

西遊記の玄奘を訪ねて(カンボジアー東南アジア紀行 3)

2010年04月16日 11時05分01秒 | 東南アジア紀行
0013
(夕日にかすむ仏教遺跡アンコールワット)
0005
(巨大な仏頭)

(西遊記の玄奘を訪ねて)

カンボジアに到着して、夕食を摂っていたところ、
壁にイグアナほどもあるような
(本物のイグアナは、映画でしか見たことがないが)、
大きなトカゲようのヤモリが壁の上のほうにへばりついていた。
一匹じゃない二匹、三匹といるのには、驚いた。

次に驚いたのが、カンボジアでは、75%近くが仏教徒で、
結婚式も仏前で行われ、見合い結婚が多く、
殆どが見合い結婚ということである。
恋愛結婚は相手の素性がわからないので危険だから少ないという。

若い女性ガイドさんに

「あなたは、どちらで結婚する方がよいですか?」と聞いたら
「見合い結婚です」と、
即座に答えが返ってきた。

仏教徒が多いと言うことと見合い結婚が多いということに
関連は無いと思われるが、
仏教の話になったらすぐ質問に出会った。
22歳の若いガイドさんから。

「日本の仏教は、小乗仏教ですか、大乗仏教ですか?」

恥ずかしながらボクは以前、
大乗か小乗か読んだ気がしたが、
突然の質問であわてていたので、
どちらがどういう意味があると思い出しもせず、
二者択一の問題だから、軽く考え

「小乗仏教」と答えた。
「ブー、大乗仏教です」という。
0001

仏教に熱心な国のお嬢さんに、
仏教のことを訊かれ、そして教えられて痛く恥を掻いた。

第一、 日本の仏教は一般に布教されるまで、
まだ800年の歴史しかない。
法然の浄土宗で「南無阿弥陀仏」を唱えれば、
極楽往生を遂げることが出来る。(天国へいけるということ)
そこから始まり、親鸞の浄土真宗にいたっては
「南無阿弥陀仏を唱えようとする気持ちがあれば」
すでに南無阿弥陀仏を唱えたようなものであるから、
極楽浄土へいけると、言うことになっている。

つまり日本の仏教では、
何もしなくとも極楽浄土は確保できているので(天国へいけるので)、
改まって仏教を知る必要も無いのだ。
だから、一部を除けば殆どの日本人は、
仏教のことは「南無阿弥陀仏」以外知らない、
といっても過言ではない。
(叱責を買うかもしれないが言い切ろう)
いや「南無阿弥陀仏」さえ知らない人の方が多いかも知れない。
0008
(モナリザ以上に謎の多い微笑み)
0006
(微笑みのアップ)

まして、善人より悪人の方が極楽往生しやすい、などと
「歎異抄」に述べられているから、
もはや誰も仏教を勉強しようとする人は出てこない。
カンボジアで恥を掻いて、一所懸命勉強したから、
少しは、仏教のことがボクも分かるようになった。

最近、葬式や法事にくる坊さんが日本人の仏教知識の無さを嘆いて、
喪主などに、あるいは年配者に向かって
仏教について話をするのであるが、
話を聞く人は、半分わかったような顔をして聞いているが、
本当のところは、早く終わってくれないだろうかとしか思っていない。

そんな時、坊さんも、仏教についてもっと興味がもてるように
わかり易く教えられないだろうかと、思ってしまう。
坊さんは、すぐに信仰について話を持っていくので、
受け答える人たちは、宣伝と勘違いして、
胡散(うさん)臭そうにしているのが普通である。
0016
(美しい夕日、これこそ西方浄土か)

西遊記から始まって、玄奘(三蔵法師のこと)についての話、
孫悟空、猪八戒、沙悟浄の話、
持ち帰ったお経の話、そのお経は何が書いてあり、
どんな意味を持つのか、
そして「大唐西域記」はどんな本であったかなど、
話をしていけば容易に、
仏教について興味を持たせることができるのに...

お坊さんにも、もう少し布教の仕方を勉強させるべきである。
お経を読んで、お布施を貰うだけの金儲け主義では、
誰もありがたいと思って、
お布施なんか出す気にはならない。

(もっとも、まじめなお坊さんも沢山いらっしゃるが...)

ましてや、如何に慈悲深いお釈迦様だって、
人間を極楽へ導くことは、
難しいとお思いになるに違いない。

本当は、お経を読むということは、
皆さんに代わって、極楽へどうぞ行かせてくださいと、
お釈迦様にお願い?の慈悲を仰いでいるのだから、
ありがたいと思うようになるだろうし、
お礼にたくさんお金を包むのも、
当たり前ということになるだろう。

そうすれば(お布施をたくさん包めば)、
お釈迦様もお慈悲で、
極楽(天国)へ皆さんをお導きになるに違いない。

ついでに、お話しておこう。
西遊記に出てくる孫悟空のお師匠様は三蔵法師というが、
この人(玄奘)だけが三蔵法師ではない。
三蔵法師は何処にもいらっしゃる。

三蔵法師の三蔵とは、
1)お釈迦様の教えを理解し
2)その教えに従い自らを律することが出来
3)その教えを広めることが出来る
の三つをさしているとのこと。

また、「歎異抄」では、
(「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
世の人つねに問いていわく、
「悪人なおもて往生をとぐ、いわんや善人をや」)とある。

(「歎異抄」では、
「善人でさえ天国にいけるのに、
どうして悪人が天国に行けないことがあるものか」と親鸞は説いた。
世間の人は不思議がって「悪人でさえ天国にいけるのに、
善人が天国に行けないことがあるものか」の間違いではないかと質問した。
親鸞答えていわく、
悪人は、悪いことをしているから天国へいけないことを知っている。
だから、善人よりも強く極楽へ行かせて欲しいと
阿弥陀様のお慈悲にすがるはずである。
だから、阿弥陀様は善人より悪人の方を極楽へお導きになる、
と言っている。

どうも話が良く判らない。
どんな悪いことをしても、おねだりする心が強ければ、
お釈迦様は言うことを聞いてくれる、
ってことになってしまう。

どこか少しおかしい!!
が、ここで議論しても始まらない。)

いつか、旅の終わりに、17歳にして三蔵と呼ばれた玄奘が、
苦難を乗り越え、天竺へ行き、
そして帰った道のりを「西遊記」さながら旅してみたいものだ。

0031
(夕日に沈む巨大なストゥーパ)