中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

天国への道のり 2(カンボジアの旅ー東南アジア紀行 5)

2010年04月27日 11時08分04秒 | 東南アジア紀行
(釈迦が悟りを得たというインドの寺院、修理中であった。)

(天国への道のり 2)

ボクの故郷には、秀吉が幼少の頃遊んだといわれる、
庄内川がある。
川の流れがゆるやかな、
その庄内川で水遊びをして遊んだ記憶(溺れかかった記憶)がある。
そして秀吉が産湯に使った水を汲んだという井戸は、
我が家の北側の路一本隔てた100メートル先のお寺の中にある。

そしてそのお寺の真向かいに、
加藤清正が生まれたお寺があり、
このお寺は、どういう訳か日蓮宗でM寺といった。
子供の頃は悪童であったボクは、
改心する意味も込めて、そこの若坊主が
(坊主修行のNちゃんと呼んでいた5歳くらい年上の兄ちゃん)
開く日曜学校に、毎週通わされていた。

日曜学校では、特に行動を諌めるようなお説教があったわけでなく、
日蓮宗布教時代の日蓮の苦労を描いた紙芝居を見るか、
ひたすら日蓮宗の法華経を読まされた記憶があり、
今でもその最初の件(くだり)が記憶に残っている。
それがボクの悪行を規制したとは思えないが、
その日曜学校に身柄を預けている間は、
お経を読んでいるから、
他の事(いたずらや近所の子供を泣かした事)を
する暇がなかったことだけは確かである。

秀吉ではないが、いたずらや悪いことが出来るということは、
それなりに頭が回るということには違いが無いと、
今になって自分の都合の良いよう考えている。

夏の暑い時には、
仲間数人でスイカを貰いに行く計画を立てる。
栽培している人に判るように、畑へ行ってスイカを盗ろうとする。
泥棒未遂でみんなは逃げるが、一人犠牲になって捕まる。
初めから仕組んだ計画だ。
そして捕まった犯人は栽培している人に散々叱られて、
「そんなに欲しければ一個あげるから、
こんなことは二度としてはいけないし、
良く熟れていないスイカは盗ってはいけない。」
とお説教をきいて、よく熟れたスイカ一個をせしめ、
なおかつ、スイカの熟れ具合を知る方法を覚える。

そのスイカを川の日陰に浮かせておき、
水遊びをした後に、硬い石の上にトンと落とすと、
はじけるような音がして、スイカにひびが入る。
それを皆で割って食べるが、水遊びで汗を流したあとであり、
喉が渇いているから、スイカをこれほど美味しいと思ったことはない。
決して冷えているわけでもないのに、
美味しいと感じたのは、悪い計画を立てて、
計画通りスイカをせしめた、
戦利品であったからかもしれない。
考えてみれば、今都会で行われる万引きとなんら変わりない。

育ち盛りの子供が、
戦時中の食糧難の空腹を癒す方法でもあったが、
やってはいけないことである。

これは一事であり、万事がこんなことで、
日曜学校行きとなった。
これがボクの仏教とのかかわりの最初であった。
次の仏教との関わりは、弟の死であったが、
その話は以前書いた。

そして仏教について、最近勉強をして、
経典が天国への道順を書いたものであることを知った。
お釈迦様は沢山の「天国への道しるべ」となる経典を書き残したが、
万一、戦乱火災で、後世に一巻も伝わらない場合を考え、
道しるべを書き残さない極楽への行き方を残した。

それが禅宗である。

その一は、永平寺を総本山とする曹洞宗の道元禅師であり、
もう一つは、建仁寺を総本山とする臨済宗の栄西禅師である。
修行を通じ、自ら仏として悟り、極楽への道を開く方法である。
心身解脱して悟りを得れば、仏として極楽往生できる。

さて、この心身解脱というのがよくわからない。
身も心も人間から脱却して、
魂だけになる(仏になる)ことらしい。

らしいということは、ボクにも判らないということである。

しかし、武家社会の台頭の時期に、
自らの手で極楽への道を探し出すという禅宗の考え方が、
武士の精神に合って、
武士の間に広まっていったことは間違いない。

家の宗教が曹洞宗や臨済宗の禅宗の方は、元武士であったか、
この階級社会に近い一族であった可能性が高いと思われる。

一般庶民は、もっとも楽な教えの親鸞上人の
浄土真宗を選んだようである。

ちなみに、ボクの母方の宗教は浄土真宗東本願寺派であり、
父方の宗教は神道である。

余談であるが、父方の長兄が90歳で亡くなったとき、
神道の葬式は笙、ひちりき、笛、太鼓で行われ、
初めての経験とはいえ、
なにやらお祭り騒ぎのようで可笑しかった記憶がある。

この時は仏教の焼香の代わりに、榊を祭壇に供え、
拍手を打って手を合わせ、故人の冥福を祈るのであるが、
ボクはいつもの通り、中学校で暗記させられた,
キリスト教の英語の「主の祈り」を心の中でつぶやいて、
故人が安らかに天国への道を行けるように
お祈りをした。
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(タイのアユタヤ遺跡にある釈迦のストゥーパ)








ノーベル賞

2010年04月27日 10時26分14秒 | 終わりに
10月はノーベル賞の発表月、賞としては世界最高賞と言える。

受賞者には誠におめでとうございます。


ボクはその後の、授賞式で受賞者がどんなコメントを残すのかに興味津々。

その後、開かれる晩さん会の料理、「さぞ美味しかろうなぁ」と思うだけでよだれが出そう。


その晩さん会の料理を再現して貰って、

晩さん会で料理を出したスエ―デンのストックホルム市庁舎の地下にある、

レストラン「StadshusKallaren」(スタッツヒュースシェラレン)で、

ノーベル賞授賞記念晩餐会と同じ料理を食べるチャンスに恵まれた。



1994年に大江健三郎が文学賞を得た時の料理である。

何と、北欧のヨーロッパの片隅にある国、スエ―デンのストックホルムまで出かけて、

世界の国々からボクのようなもの好きが、

この料理を、食べに来る人の多いことに驚かされた。

メニュウには13,957人目のお客様として、と日本語で書かれている。

(メニュウ)


シャンパンもワインもデザートワインも一流のもの。

もちろん器もそれなりに高価なものである。

シャンパングラスで「乾杯」なんて、グラスをカチンと合わせる行為はやめて下さい、

案内の人が言うくらい高価なグラスらしい。



ボクは赤ワインで、料理を頂いたが、

ワインを一口飲むごとにウエイターがつぎ足す、

つまり、飲み放題。

そろそろ料理も終盤に来て、ワインはもう要らなくなった。

ワインを止めたい時はどうすれば良いか、

ウエイターがワインを注ごうとする前に、

ワイングラスの端に二本(中指と人差し指)の指をそっと置く、それだけで良い。

ディナーを楽しくいただいている最中に、

「もう結構です」なんて、声を出して言わない。

それがルール。

(料理を運ぶウエイター右隣がボクで左がカミさん1998年写)


(お馴染みの花火と共に供応されるデザート)


20年も前(1998年)の写真で、このころデジタルカメラは無かったので、

フィルムで撮った写真をアルバムから転写する。


さて、ノーベル賞の記念講演はどんな舞台で行われるのか、

1階の実際に晩さん会の行われる広間へ行ってみた。

正面右手の舞台、それは日本で見る劇場の舞台の、

その五分の一にも満たない狭い舞台であった。


(その舞台に立ってみた)


世界的な偉業を成し遂げた人の講演をする場にしては少し貧弱に思えた。

しかしそうだからこそ品格が保たれると言うもの、

そう感じたのはボクだけだったろうか。

ノーベル賞授賞晩餐会と同じ食事をしながら、

受賞者の気分をほんの一部を味わうことが出来た。