富岡製糸場世界遺産伝道師協会 世界遺産情報

「富岡製糸場と絹産業遺産群」は日本で初めての近代産業遺産として2014年6月25日付でユネスコ世界遺産に登録されました。

日本最初の製糸教婦「西塚梅」の墓を訪ねる

2023年02月02日 11時05分30秒 | 世界遺産伝道師協会

日本最初の製糸教婦「西塚梅」の墓を訪ねる

久しぶりに冬日和となった1月24日、かねてより聞いていた前橋藩主の位牌寺である森厳寺(前橋市昭和町)にある日本最初の製糸教婦と言われる「西塚梅」の墓を訪ねてきました。

近代建築の森厳寺本堂

梅は、文政8年(1825)に川越藩士速水仲助政信の長女として生れ、実弟には初代研業社社長の桑嶋新平と藩営前橋製糸所の開設や富岡製糸場の場長を2度も務めた速水堅曹がいます。

17歳の時に川越藩士遠藤鐘平に嫁ぎ4男2女を生むも安政6年(1859)に夫と死別、慶応3年(1868)4月に藩の移転に伴い、川越から前橋に転居しました。翌年、前橋藩家老の下川又左衛門の勧めにより、前橋藩士の西塚清造と再婚しました。

弟の速水堅曹は、器械製糸技術者であるスイス人のミュラーの雇い入れを決定し、藩の製糸取締役(製糸所の運営責任者)を命じられました。明治3年(1870)6月に前橋藩小参事の深澤雄象とともに日本初の器械製糸所である「藩営前橋製糸所」を設立し、操業を始めました。

 梅は堅曹とともに器械製糸技術をミュラ―から修得し、多忙な堅曹を補佐するとともに、師婦として器械製糸に従事する工女や全国から集まってくる伝習者の指導に当たりました。これは明治時代初期における器械製糸所の工女指導者である最初の「教婦」と言われています。

 その後、明治8年(1875)に前橋藩士時代の速水堅曹の上司であった深澤雄象が士族授産施設として研業社(関根製糸所)を開業した際には、梅は夫の西塚清造とともに参画し、兄の桑新平社長の下で教婦兼工女取締として多くの工女に対して技術指導を行い、器械製糸の普及に貢献しました。

こうした功績により、群馬県から2度にわたり表彰を受けましたが、明治21年(1888)に64歳で死去し東福寺(前橋市三河町)に葬られ、その後、菩提寺の森厳寺に移されて改葬されました。

     西塚家の墓(左:西塚梅の墓石)

西塚家の墓地は森厳寺の奥まった一角にあり、大きい2つの墓石のうち左側が梅の墓石で、側面に梅の履歴が刻字され、裏面には速水堅曹(書)の追悼歌(和歌)である「世の人乃めでし色香能 をふれども ちりても匂う 梅の乃木のもと」と刻されてありました。

もう一方の西塚家代々の墓石の前には一対の灯篭があり、遠藤鏘平と彫られてありますが、これは梅が西塚清造と再婚する前の遠藤鐘平・梅夫妻の次男が寄進したものです。

遠藤鏘平(前橋藩士で役職は書記頭取)は、当時、横浜に赴任していた初代全権駐日イタリア公使のラ・トゥール伯爵が、良質な蚕種を大量に輸出している島村の訪問を経て、良質な提糸 (生糸)「マイバシ」の生産地として知られる上州前橋を視察のため訪れた際、藩の護衛兵80人を率いて駒形(現前橋市駒形町)郊外の藩境に公使一行を出迎え、前橋城まで護衛の指揮を執りました。この時の模様は「イタリア公使のラ・トゥール一行の上州視察錦絵」に描かれています。

 因みに現在、西塚梅の子孫としては、当協会の会員であるN塚晶彦氏(埼玉県東松山市在住)とK林春樹氏(埼玉県久喜市在住)の二人が伝道師として活動しています。

            (町田 睦 記)

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