人生修行の旅

「笑って、野垂れ死ぬ!!」
そのために、この人生をどう生きて、この命を何に使うか?人生一度きりの生き方を実験中!!

平等院鳳凰堂

2008年01月27日 | Weblog
京都に出張した際、二時間ばかり時間があったので観光した。まずは、平等院鳳凰堂。十円玉でも有名なこの場所に来るのは初めてである。956年前に作られたものが、未だに存在し、人々の心を引き付けている。まだ、ショベルカーもクレーンもない時代にこのようなものができたのかと思うとすごいとしか言いようがない。人間の持つ能力のすごさに圧倒される。過去の遺産を見たときに目をつぶると先人たちの姿が浮かんでくる。

その後、フラフラと歩き、源氏物語ミュージアムへ。日本史や国語で学んではいたが、テスト前に丸暗記をするだけなので、紫式部が書いたのと光源氏が主人公以外は忘れてしまっていた。
壁一面に登場人物の絵とどんな人生をプロフィールが書いてあった。光源氏のすぐ上に紫の上が描かれており、光源氏の寵愛を受けると書いてある。なるほど、光源氏物語とは、この二人の様々な障害を乗り越えつつ愛を成就するピュアな物語と思った。。。
が、他の登場人物を見るとどの女性も光源氏と関係ができている。。。
皆さん、交わりすぎです。私の中で、光源氏物語とは『やりちん物語』なのだと感じた。
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障害者とスポーツ

2008年01月24日 | Weblog
養護学校では、完全を求めるのではなく、一人一人の成長を敏感に感じ取り、そこに大きな賞賛を加える。人間として誕生した以上、誰でも成長することは嬉しいことである。そこを認められること、それは誰にとっても大きな喜びだ。

 そんなことを養護学校で学んだ。

そして、話は戻り、Aさんの介助者の方は28歳。そろそろ転職を考えているという。どうしてか聞くと、給料が安くて食っていけないからだ。以前、トレーナーの方でも福祉の業界から転職された方がいた。その方も理由も、給料は安いからだった。確か、15~16万と言っていて、びっくりしたのを覚えている。
 だから、20代の人と50代以上の人がほとんどだそうだ。間がぽっかり抜けているドーナツ化現象。それも、働く方の従業員環境が保護されていない現状がある。
 そして、運動に関しても、ほとんどフォローはないと言っていた。きっとお金も出ないし、やらないのだろう。
 そのとき、以前養護学校の先生に言われた言葉を思い出した。
「私達はいつも門戸を開いています。困ったときがあったら言ってください。そして、少しでも社会の方々に現状を知らせてください。できることがあったら協力してください。」
 ちょっと昔を思い出した。いつか大きな意味でのフロンティアをしてみたいと思った。
 
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二年ぶりの再会

2008年01月24日 | Weblog
出会いの多い日だった。朝の通勤途中、イスに座っていると隣から匂ってきた。ふと横を見ると私の大好物『地球の歩き方』を読んでいる人がいる。しかも『アフリカ』。思わず、お爺さんに話し掛けた。そうすると気さくに会話に応じてくれ、海外話に話がはずんだ。聞くと、何十回も海外に行っていて、しかも仕事で世界中に。どうやら、医療と健康がメインの医者らしい。もっと話をしたかったが、駅に着き終了。楽しい出会いだった。
そして、午後に私の古巣さいたま市記念総合へ。
仕事が終わり、トレーニングをしようとジムエリアに行くと、一人の方と目が合い、一瞬時間が止まった。
その方は、2年前私がさいたま市にいるときに個別プログラムを組んだAさんだった。Aさんは知的障害があり、介助者の方と来ていた。養護学校の勉強をしていた私は志願して担当した。最初は動作もぎこちなく、介助者の補助がなければうまくできなかった。

今回、トレーニングをしながらAさんの動きを目で追った。バイクに乗り、筋トレをして、またバイクに乗る。誰のフォローもなく、スムーズに適切に実施する。その姿を見て、嬉しく思った。そして、最後にAさんに話し掛け、成長を素直に称賛した。会話はなかったが、仏頂面のAさんの顔が和らいだ。

現在はトレーナーとして成形を立ててはいるが、私の指導の根本は、養護学校の免許を取るために通った夜間の特殊教育で学んだことがベースだ。
介助者の方も二年前と同じ方で、色々話を聞いた。
Aさんは運動が好きになり、週二回のペースで通っていて、介助者はここまで付き添うだけで後は全部自分でやっていること。話をさらに掘り下げ、障害者と運動について聞くと、Aさんは珍しい例で他の方はあまり運動することはないようだ。特にダウン症の方は、動くのが不得手で、動かないという。
私はそれを聞きながら、養護学校で体育を教えたのを思い出した。確か、横転がり(マットに横になり万歳して転がる)をするのに五時間かかった。まずは、マットに座ることができなかった。座るためにアンパンマンの絵を下に置き、そこにお尻をおくように言った。座るために一時間。そして、寝るために一時間。とスモールステップで指導をし、できて誉めると満面の笑みになったのを思い出した。
続く
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結婚式でやっちゃいました

2008年01月16日 | Weblog

 山口3兄弟の次男がついに結婚した。ちなみにできちゃった婚である。 結婚式当日、三男の頭に毛糸が編みこんであり、祖父を中心にとても馬鹿にされている。兄はしっかりしているのに、と小言をいわれている。

 この5時間後に私が下品な一発芸を結婚式で行うとは、この時弟達以外は知る由もない。

 結婚式が始まり、スーツとドレスに身を包んだ新郎・新婦が出てくる。そして、乾杯が終わり余興が始まった。

まずは、いとこのラッキーやぎさんが盛り上げる。サザンやミスチル、その他なんでもものまねがうまい。アマチュアとして、プロとして!?舞台に登場しているかたが。その方ののおかげで、場は暖まっている。

私は、おもむろにスーツを脱ぎ、海パン一丁で腕立てと、腹筋を限界まで行った。

パンプアップだ。

そして、海パン一丁で、約100人の前に現れた。弟におめでとうの言葉を言い、奥さんの名前を間違え、お決まりのヘタこいた~から、芸が始まった。

そして、私の芸にしては思いもよらないほど、ゾーンに突入し、笑いの神が下りてきた。そして、舞台は幕を閉じた。

親からは、結婚式前から、お願いだから何もやらないでくれと言われていた。

そんなの関係ねぇ~やらず悔やむより、やって悔やめ!!

ちなみに、今回色々とプロデュースしてくれた、三男よ、サンキュー。山口三兄弟で、誰が一番あほなのか?親戚一同わかったようだ。

そして、2次会では、「テジナーニャ」と「ホタル」を披露して、大顰蹙を買うのは想像に難くない。

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動画デビュー

2008年01月16日 | Weblog

 仕事が早く終わり、久々にネットで色々見てみると、発見してしまった。

私が、動画でネットに出ている。以前、私はAV男優だという話も多少流れはしたが、今回はフィットネスの指導風景が流れている。

12月末まで、勤務した「ロンド東大和」というフィットネスクラブのデジタルチラシなるものに登場している。緊張すると、早口になってしまうので、ゆっくりとみるとちょっと恥ずかしい。

http://www.rondo-sports.co.jp/sakuragaoka/index.html

 

なにはともあれ、動画バージン!万歳!!

 

 

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ネパールからの微笑み

2008年01月14日 | Weblog
先月、知人の協力を得て、ネパールのストリートチルドレンの施設に柔道着や文房具を送った。そして、それらが届き喜びのメッセージと写真が届いた。やっているときは、本当に届くのか?疑問に思ったが、どうやらちゃんと着いたようだ。ほっとしたと同時に、嬉しく思う。
なぜ、このような行為をするのか?何人かの人に聞かれた。特に、これだという答えを持っていないが、たまたま海外を旅して、訪れた施設で、柔道をしていた。ただそれだけで、同じ柔道家として協力したいと思った。
ボランティアというのは、自発的なという意味があるらしい。ただ、現代社会の解釈では無料で何か活動をすることと捉えられている場合が多い。得てすれば、自分の財産を投げ打ってでも行う場合もある。それが好きならば、いいことだと私は思う。そのような行為をすることにより、少しでも幸せになるならば。
ただ、ほとんどの場合は、やりっぱなしで満足してしまっている。だからこそ、やったことにどういう意味があり、どんな結果だったのか?どう変化したのか?それを知りうえた上で、さらにはそこに少しでも利益が発生しないまでも、損をしないようにすることが大切だと思う。

あえてお金の話をするが、今回ネパールへ物資を送るのにダンボールに色々つめて約8キロ。EMS(飛行機で荷物を送る)で8000円くらいかかった。柔道の本もプレゼントしたので、約10000円。正直、痛いと思わなかったわけでもないが、逆にとらえたら、そんなにかからないともとらえることができる。とてもいい経験ができた。
ネパールの喜びの波動は、さいたま市まで届いてきた。協力してくれた方
方々に届くことを祈ります。
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2008年01月06日 | Weblog
今年はテレビを見る機会が多かった。その中でも特に箱根駅伝とサッカーはよく見た。敗北をして涙を流す選手達。現役を引退してしまっている私にとって、涙は青春を喚起させる。

自分はよく泣くほうだった。小学生の時は、試合中に泣いた。泣くと戦闘力が20くらい上がった。

中学生の時は、試合で負けた後に泣いた。いつもかかっている曲は、「TOMMOROW」涙の数だけ強くなれると信じてた。

高校の時に、同じ高校の後輩に県大会決勝で負けて泣いた。マンガ「HAPPY」で、負けて涙がでない奴は次勝てないとあった。

涙がでるというのは、それだけ本気だったから。それに懸けていたから。

本人にとっては、今はつらくとも、涙は大きな糧になると、テレビの前で思った。
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新年 一回目の挑戦

2008年01月02日 | Weblog

 年も空け、2008年。新たな年が始まった。起床後、凛と晴れ渡った青空の下散歩をすることにした。目的は瞑想をすること。瞑想をするには、家にいると漫画を読んでしまう。部屋にいると寝てしまう。 軽いノリで、私が高校時代に通った國學院栃木高校の裏にある大平山神社に行くことにした。高校時代は、自転車20分→電車20分→自転車15分と約1時間かかった。道のりだ。距離を、ネットのサイトにある「キョリ測」で調べると、直線距離で約18キロ・・・道なら20から25キロくらいはあるのだろうか。正直、びびってしまった。走るのは得意にしても、過去に走ったことのある最高の距離は、約20キロ。さらに、ここ2年は5キロ以上のキョリをほとんど走っていない。それをいきなり約45キロとは・・・。考えるだけ、不安が増す。よって、ネガティブを振り払うには、勢いである。スパッツに履き替え、ひょいっと太平山に晴れきっていぬ。テンションが上がってきた。  がしかし、走って10分後に腹痛が起きる。そんなところに、リバーサイドパークの素敵なトイレが。助かった・・・ぼっとん便所のトイレに、うんを落とし、運は落とさないように気をつけ、走った。  走り始めて、1時間・・・まだ半分も来ていないことにショックを受ける。と、そんな時、細胞が騒ぎ出した。普段使っていない細胞達が目覚め、頑張れと励ましてくる。時速8~9キロくらいのペースで走り続けた。そして、栃木市に入るとわくわくしてきた。自分が、青春時代を過ごした3年間。柔道に明け暮れた地。ALL FOR JUDO JUDO FOR ALL その反動のせいか、青年海外協力隊の柔道の試験では、試験終了5分前に答案用紙を持って、試験会場を飛び出した。柔道をやっていたとき、私は自由に餓えていた。そして、「道」を捨て、自由を選択した。  栃木街道のマックを曲がり、太平山へ向かう坂が始まった。久々の訪山。以前は、すいすい上っていたのが、今ではひどく急に見える。感傷にふけりたいが、人も多い。参拝客に混じり、約1200段の階段を登り始めた。高校時代、私は週5のペースで朝に太平山に登った。太平山神社にはかの有名な「超神水」があるのだ。飲めば、強くなれる。ひたすらそれを信じ、ひたすら登った。おかげで、苦しいことが好きになった。ただ、たまに練習中にうまくいかなくて、練習後に山の太平山を何度か登ったが、電灯等はなく、感覚だけで暗闇の中登った。一度、神社で子供たちが夜に騒いでいる声が聞こえた。ダッシュして登ると、そこには子供はおろか一人も見当たらなかった。それ以来、暗闇の中、太平山を登ることはやめた。興味がある人はwww.ohirasanjinja.rpr.jpを参照してみて欲しい。また、パワースポットしても、いいパワーがあるという。確かに、私はここで山の神が味方についた気がしている。授業中、毎時間毎時間寝ている私に、先生は味方がつかなかったが。  頂の神社で、2礼2拍手1礼で、感謝の意を表し、大好きなおみくじで「中吉」を出し、帰った。  帰り道、足が想像以上に疲弊している。すぐに歩いてしまった。こんな感じで、残りの20キロを走れるのだろうか。不安は、不安に対する不安だ。プラスに考え、瞑想に入ることにした。走りながら、瞑想する。心を解き放ち、何も考えない。途中、足が痛くなってきた。猛烈に痛い。しかし、ここで止まったら負けだ。私は、足の痛みの意識を消した。すると自然なことに、どんどんと走ることができる。意識の持ちようで、人は痛みも消すことが出来るのだ。  残すこと後、10キロ。。。消えていた痛みが蘇った。意識のシフトチェンジを試みるが、今回の痛みには変えられなかった。よって、ある程度の痛みには、意識のチェンジで痛みをけすことが出来るが、限界以上になると、それはできないということが分かった。歩いては、止まり、足をほぐしを繰り返した。 痛みを快感に変えようとした。一歩歩くたびの、ズキ-ンという痛みが、快感に変わった。やった、痛いのが快感になった!!なんてはずもなく、やはり痛いものは痛いのだ。こうなれば、根性と我慢である。100キロマラソンに挑戦した芸能人の気持ちが痛いほど分かった。引きずりながら、足を前に出した。  そして、夕暮れまで後わずかで到着。唇がしょっぱく、体がヌメヌメシテイテ、私の中の悪い液体がすべて吐き出されていた。  限界を超え、自分の可能性がさらに広がった。  ちなみに、階段を登るとき、今は手をついて這っている。まさに、原点回帰。 今年も挑戦あるのみ!!

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