とんぼちゃん
ひとつめくり忘れた暦が 寒そうにふるえ
柱にはりついている
冬の間君からの 手紙が何故か来ないままで
季節はめぐるよ
去年までの二人は 今頃
同じこたつを囲んで話したものさ
二年たったら二人で暮らそうなんて
そんな事を夜更けになるまで
※ひと足遅れの春の匂いが
いつかこの街にも届いたけれど
君との暮らしを失くした僕は
凍るような風の中※
君と離れて暮らす月日が
いつか二人の心をへだててしまう
手紙一つ書き終える その度毎に
君は遠くなっていたのです
(※くり返し×3)
ひと足遅れの春の匂いが
いつかこの街にも届いたけれど…
春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 ( 枕草子)
(現代語訳)
春は曙がいい。次第に白んでいくと、山際の空が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのがいい。
ひとつめくり忘れた暦が
寒そうにふるえ 柱に張りついている
子どもの頃、「暦の上では、もう春になりました…」なんて、ラジオのアナウンサーのおじさんの声がすると、畳に広げた、暦の上に乗って、春を実感しようとした
人も多いでしょう…えっ、そんな人、おらんやろうってか。(笑)
それじゃ、「母は全てを暦に刻んで流してきたんだろう…」なんていう、テレビドラマの主題歌が流れると、台所のまな板に、暦を乗せて、暦を切り刻んだ人も
多いでしょう…えっ、そんな人、おらんやろうってか。(笑)
まあ、暦の上でも、下でも、暦を刻んでも、すりつぶしても、やはり時は流れていくものです。(笑)
しかし、考えてみると、暦をめくり忘れるというのは、その暦をあまり利用していないからか、もしくは見ていないから、ということになりますね。
まわりの時は流れているのに、その人のこころの中の時が止まってしまえば、やはり、こころの中に張られた暦もめくり忘れられてしまいます。
冬の間君からの手紙が何故か
来ない ままで 季節はめぐるよ
待たせるときより、待つときの時間は長い、そう感じることが多いと思います。
また、待つとき以外にも、時間の経つのが速い、遅いと感じることも、しばしば経験することです。
もちろん、時間がほんとに速くなったり遅くなったりしたら、電車さんはいつ駅に着いたらいいのか悩むだろうし、カラオケボックスの店員さんはいつ延長
しますかって電話したらいいか困ってしまいます。(笑)
ところで、時間って、どうやって決められているかご存知でしょうか。
地球の自転をもとに決められている?
学校で、そう習った人も多いでしょう。
いや、地球の自転には季節変動や経度変動などがあるので、地球の公転に基づいているはず。
そう、学校で習った人もいるでしょう。
みなさん、むかしの学校ですからね。(笑)
昭和31年(1956年)に、地球の自転から地球の公転に基づいて、時間が定義されるようになりました。
そして、昭和42年(1967年)には、より正確に時間を定義するために、いわゆる原子時計と呼ばれる、セシウム原子の固有の周期に基づくことになりました。
すなわち、一秒とは、セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9,192,631,770倍に等しい時間と
いうことに決められたのです。
分かりましたか?
マスターも、むかしなら分かったでしょうが、いまは時は流れて、もうついていけません。(笑)
ともかく、季節がめぐることをいうならば、化学や物理はおいといて、古典のこの句です。
月日は百代の過客にして
行きかふひともまた旅人なり 芭蕉
こちらの方が、深い意味は分からなくても、やはり、なんとなく納得ですね。(笑)
そう、時の流れの中で、行き交った人々も、また旅人として、出会いと別れを繰り返していきます。
もっとも、手紙が来ない、逆にいえば、手紙を出さないというのが、相手が選んだ切ないメッセージであるということに気がつくのに、また長い時間を必要と
するものなんですね。
青春時代をはるかに見下ろせるようになった頃に、ようやく気がつくなんてこともあるようです。
去年までのふたりは今頃
おなじこたつを囲んで話したものさ
二年たったらふたりで暮らそうなんて
そんな 事を 夜更けになるまで
そう、狭い部屋にあるこたつの中では、ふたりとも、同じ時間が流れていました。
そして、二年という月日も、そのときはふたりとも同じ長さと感じていたはずです。
そう、そのときは、待てるはずの時間だったのです。
でも、それはあくまで同じ条件の下で、そして、質量共になにも変化しないという前提のもとでです。
誤差の程度が30万年から170万年に1秒以下と高精度のセシウム原子時計も、一定の温湿度や電磁界シールドなどの厳重な環境管理の下でのみ、
その精度が保証されるのです。
君とはなれて暮らす月日が
いつか二人の 心を隔ててしまう
手紙ひとつ書き終える その度ごとに
きみは 遠く なっていたのです
ところで、いわゆるテレビゲームソフトの分野で「ときめきメモリアル」(略して「ときメモ」)などの恋愛シミュレーションゲームが流行ったことがあります。
1990年代後半でしたので、いくらゲーム好きのマスターでも、この流行にハマルには、時すでに遅しでしたが。(笑)
この流行現象をゲームの中でのバーチャルな擬似恋愛しかできない、対人的に未熟な若者の増加という嘆かわしい社会現象として、論じられる向きもありました。
ところで、ソフトとして、プログラムとしてみるときに、これらのゲームに共通のパラメータ(引数)があるのに気がつきます。
マスターも、専門分野外ですし、みなさんも、パラメータっていわれても、ガスメータくらいしか見たことないでしょうから、パラメータの説明するのは
省略しておきます。(笑)
ともかく、これらの恋愛ゲームに共通している要素は、会う頻度と、会っている時間の長さが、ゲームの中での恋愛成就のカギになっているということです。
逆にいえば、会えなくなって、会っている時間が短くなると、成就せずにゲームオーバーとなります。
これは、バーチャルな恋愛ゲームに限らず、現実の恋愛においても、共通の要素ですね。
遠くで暮すことが
二人に良くないのはわかっていました
「心もよう」―井上陽水
遠く離れてしまえば
愛は終わるといった 「心の旅」―チューリップ
もちろん、遠距離恋愛という言葉もあるとおり、必ずしも遠くで離れて暮らすことが、即、恋愛がダメになることでもないでしょう。
逢ひみての後の心にくらぶれば
昔はものを思わざりけり
「古今和歌集」-藤原敦忠
募る想いを温めての恋愛もあるでしょう。
ひと足遅れの春のにおいが
いつかこの街にも届いたけれど
君との暮らしをなくした僕は
凍るような風の中
でも温めきれずに、冷めてゆき、凍るような風の中を歩いているような心地がするときも、やはりあるでしょう。
でも季節が春を告げれば春です、ひと足もふた足も遅れたって、やはり春は訪れるのです。
春のにおいを感じ取れるようになったら、いずれにしても、春の訪れなのです。
そんな春の風に、ふわっと、たんぽぽの綿毛のように、身を任せてみてはいかがでしょうか。
とんぼちゃんは、秋田県立能代高校の同級生だった、通称トヨの伊東豊昇さんと、通称ヨンボの市川善光さん二人で組んだフォークデュオでした。
昭和49年(1974年)に、「貝がらの秘密」でデビューし、その後、この「ひと足遅れの春」がヒットします。
昭和52年(1977年)に、「とんぼちゃん」から「とんぼ」にグループ名称を改名していますが、昭和57年(1982年)に解散しました。
N.S.Pの平賀和人さんのプロデュース、メインボーカル、作曲担当の市川善光さん監修のもとで、とんぼちゃんの歌が復刻されていますが、
復活はされていないようです。