暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

自由にお持ち帰りください

2014年04月09日 19時42分19秒 | 日常

のんびりと町の横丁などの日頃あまり通らないところを自転車で1時間あまりぶらぶらと周っていた。 人通りの多いところ、少々雑獏としているところを避けて初めて入る通りをきょろきょろしながら自転車を漕いでいると家の前に鳥に餌をやるための小さな屋根付きの箱のようなものが立っていてその中に本が何冊か入れてある。 そこには英語で Free Little Library と書いてあり不要になった本を、自由にお持ち帰りください、という趣旨のためのものだと受け取った。 自由にお持ち帰りください、か。 今はどこにも古い本は溢れていて古本屋にも売れない。 売れないこともないけれどそうすると売るほうが買値を聞いて呆れ、これなら自分で焼いた方がすっきりするとでもいうほどのものだ。 そうなら慈善団体に寄付して好きな人に持って帰ってもらう、という手もあるのだがそこでも古本が溢れていて贈る方も満面の笑みで感謝されるということにはならないようだ。 それを経験している人が家の前にこのように出したのかと想像した。

この10年ほどで顕著になったのは皆本を読まなくなったことで、というのはそれは老人たちを除外しての話で大雑把に言って40代以下の人のことをいう。 偶に古書店に行くと堆く様々な本が積まれている中でこんな価値のある本が2,30年前ならこんな安価で出るはずのものではないのにというものにも出くわすのだがそれでも売れないというのだからそれは只単に値段の問題ではないということだ。 良質の情報の発信源であったものがそれを受け取るべく期待されている読者が若い頃からゲームに流されモニターに貼り付けになりそのままインターネットに居つき、そのまま世代が移ると書店には行かない、ということになったのだと理解している。 けれどそれも少し違うようだ。 ある時期まではネット情報、技術を得るのには書籍を紐解かねばならずそのためにハウツー本がならび、電話帳のような大冊のマニュアル、解説本が平積みされているのをよく見かけられたのだがそれも今はデジタル化されているようで、その印刷されたものがコピーとして情報学あたりの棚に並んでいるの。 それらにしても技術の進歩に伴ってその寿命もすこぶる短いようだ。 特にこの20年ほど日本に帰省するたびに書店に並ぶ書籍を眺めていてその質と量の変化に驚く。 

それはレコード屋のコレクション、販売セクションの質と量の推移ということにも沿っているようにも思える。 演歌、芸能というものが隅に押しやられ殆んどがJ-Pop,K-popというもので占められ、アニメ主題歌というものまであるのは嘗ての映画音楽のコーナーが代替わりしたものだろう。 マンガ雑誌の創刊を小学校のときに経験している年代の、マンガは「読む」ではなく「見る」のだと教えられてきたことを想うと昔書店で棚に並んでいた何々全集だの何々体系などというものが消え、ハウツーものと学習書に実用書、雑誌で、これらに書店が乗っ取られているかのようだ。 そして文学書、哲学、思想書のスペースが変わり内容も時代の変遷に沿ったものとなる。 全てが読みやすくなければならないようだ。 嘗てオーディオ・ビジュアル家電機器で言われた「短小軽薄」というものがここに極まったように思う。

上のように書くようなつもりは無かったのに話がとんでもないような方向に行ってしまった。 本来に話しを戻すと、ここに置かれている本をみてなるほど、そういうことだったのかと本の背と手にとったものに目を通して理解した。 どれもキリスト関係の本ばかりなのだ。 聖書を噛み砕いたものであったりキリスト教に根ざした自己啓発実用書であったりする。 新教徒の多いオランダであるからそこはカトリックとは違い基本は全ては聖書の中にあるという。 自分は無信心なのでここにある本は心に響かず、だから丁重にもとに戻してその善意だけを持ち帰るつもりで自転車に跨りのんびりとポカポカと暖かい午後、家路についた。

庭に鼠が死んでいた

2014年04月09日 13時52分40秒 | 日常


このところ花が咲いただの鳥の家族に雛が孵っただのと若い命が生まれ育っているのを書いてきたけれど、そんな中、町に出ようと裏庭の物置から自転車を出して足元を見たら小鼠の死骸があった。 こんなところにあるのは自然死である可能性は甚だ低く、これは多分近所の猫が獲ってここに持ってきたものだろう。 隣家がネズミ捕りの毒を蒔きそれを口にして死んだ可能性もある。 我が家に猫がいた頃は何回かこんな小さな鼠を捕ってきた事がある。 一度は居間にそれを持ってきて主人にそれを見せるかのように死骸の傍に坐ってこちらを眺めていた。 それを写真に撮ったのももう2年半ほどまえになり、その猫ももういない。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62319884.html

家の中には鼠はおらず、掃除の度に押し入れ、物置の隅を注意してみるけれどそのような気配もなく、黒い米粒のような鼠の糞も見えないから居ないものとみているけれど、目の前にある鼠は家鼠なのか野鼠なのか自分には分からない。 近所の猫が何匹も裏庭を横切ったり隣のビリーなどは定期的に様子をみにきてキッチンのドアがあいていれば中に入ってくるのだが、一渡り歩いてもういない我が家の猫の餌入れがないのと喰えるものがどこにも無いのを確認して庭に出ていく。 他の猫はドアが開いていても中にははいってこない。

庭のこんなところにそのままほうっておくと猫が喰うことも持って行くこともないから仕方なく尻尾をつまんで生ゴミのコンテナーに放り込んだ。 どんな死に方であっても生まれてきたものはいずれ死に、人の死は大抵それなりに看取られ記録され葬られることになるのだが動物では殆んどがこのような死になる。 この時期、花が咲き鳥たちの雛を見て命の息吹を感じるのだがそのときには何年か先に待っている死のことは思いもしなかった。 もっともここでの死は鼠にとっては自然死ではなく事故死、不慮の死ということになる。 人では寿命がどんどん伸びて、それらは医療システムにサポートされた自然死というのが殆んどなのだろうが自然界では老衰での死というのはかなり稀なのではないかと想像する。