9時になって外に出ると裏の家の煙突の上に鋭い三日月が出ていた。 この前同じような月が同じような時に出ていたのでそれを撮ったのだがそれはこれよりもっと南側だったような気がする。 だとすると月の満ち欠けは同じように見えても場所が違うので、だから月も地球も移動しているのだと今更ながらそんなことに胡乱ながら気がついた。 それはそうだ。 朝でも午後でも月が見えることはあるのだからそうなのだろう。
物事を単純に考える習慣がついていれば二重にも三重にも変数が重なるような多重方程式など分かるはずもなく只単に日頃の習慣だけで生活していればこのようになる。 火星に人が行く計画があって行ったっきりになりもう戻ってこられないのが条件なのに人がそれに応募していると聞くとなんであんなとこまで、それも空気のない黄色い砂漠の星に行くのかと呆れるような性格だ。 逆にいうと自分は冒険心のない臆病者だともいえるけれど、地球上には素晴らしい土地が充分あってそれも殆んど見ないで死んでいくのにそれを棄てて火星とは何と酔狂なものだとも思う。 それに比べると月は身近ではある。 月には嘗て人間が何日か行って帰ってきた。 それをライブで西山何がしの同時通訳と共にそのとき買ってもらったナショナルのサイコロのような自分だけのテレビで友人とその白黒の画面を眺めて興奮したことを未だに覚えているけれど、それ以後、今に至るもまだあれは謀略で実際はどっかのスタジオで撮影されたものだ、人類は月などには行っていないというような話があるし、実際そういう映画も見た覚えがある。 最近では中国がそういう無人宇宙船を打ち込んだと聞いた。 行ったか行かなかったか知らないけれどそれでも月の石を見に1970年大阪万博で並んだそんな月である。 その月の石と言われる物もどこかの隕石をもってきたものだろうか。
何の因果か山のないオランダに長く住み着いて、空がだだっ広いものだから何かにつけて空を見上げる習慣がついた。 だからあちこちの美術館で16世紀以来のオランダ風景画をみるたびにああ、これは紛れも無くオランダの空だ、昔も今と変らないな、とそんな空を見て思う。 けれどそれはほとんど昼の風景画だから月が出ているものは少なく夜景では月は出ているものがあるけれどそれは殆んど添え物のようであまり月の方には注意は行かない。
この前こんな月を撮ったのは月の周期でいうとだから28日ほど前になるのか。 そのとき新しいカメラを試しがてら撮ったのだけどそのままにしてある。 買ってから2年以上放っておいて一ヶ月前から使い始めたカメラだけれどまだどんな機能があるのかそれをどう操作すればいいのか余りにも細かく出来すぎていて180ページ以上あるマニュアルをいまいましく横目で見ながら時には仕方なく必要なところだけ見てそばに放ってある。 それにつけてももうそろそろ半世紀になる初めて持った自分の古いカメラの使いやすかったことを思うにつけ今自分の手の中にある妙なボタンやそれを操作すると迷路のようなわけの分からない記号や数字が出る小箱を手にもって、便利になるほど不自由になる、とこの年寄りは独りごちる。