自宅にいる時間が増えて、本を読む時間は増えているけれど、ペンを持つ気分になれないのはどうしてだろう。歌集のお礼状を書けない理由にはならないけれど。
最近読んだ梶原さい子さんの第四歌集『ナラティブ』。この歌集には2014年から2018年までの456首をおさめた、とあとがきにある。東日本大震災の後の日々でもある、とも書いている。
・いつもいつも今しかあらぬきらめきに雪の広場へ子ら寝ころべり
・あの海へ向かふ列車ににじみたる近景のさくら遠景のさくら
・海辺へと続く枕木 数百人の打ち上げられし閖上(ゆりあげ)浜へ
・ゆり根ひとひらゆり根ふたひら歳月はときに思はぬかがやきを見す
傷を持ちながらその傷をみつめながらの日々。不安な日常のなかにいる今、雪の広場の子らや、ゆり根の歌が光のように奥深くまで届く。なんの疑いも怖れもなく笑いあったり、手をつなぎあったり、寝転んだり。ああ、いま家にいる子ども、大人、みんなにまたそういう日がくることを信じたくなる。
・眠るたびに別の水辺へ行きながら薄らいでゆけ細(さざら)なる傷
・母の膝まろやかにあり遠いとほい白き光のしろき日なたに
・シベリヤの大地を蹴つて来しものら四〇〇〇キロの水を渡つて
・雪原は泣きたきほどにむき出しで東北に反射し続くる光(かげ)
もう失ってしまったもの。母の膝とか。たぶんこういう歌は読者の年代によって届き方は違ってくるのだろうけれど、そんなふうに私もなくしてしまったのだなぁと思いいたる。シベリヤから渡ってくる雁。「大地を蹴つて」「水を渡つて」に迫力がある。飛び立つときの雁の脚の力、四〇〇〇キロを跳ぶ翼の力、肩の動きまで感じ取れる。「むき出し」にこめられた怒りのような悲しみ。反射する光の痛み。その複雑な感情が雪原の美しさと無防備さの裏側にみえる。
・ランドセルの仕立ての丈夫かがりたる糸のあはひに泥入り込める
・走るたび小さく打ちけむランドセルその持ち主のやはらかき背を
・つぎつぎに光る卵を産みながら春の真中の炭酸水は
・のぼるときあなたをいつものぼるとき光散らばる春の靄なり
ランドセルの歌は「津波流失物」という小題から。いま、5月という光あふれる時期に読むからか、ほんとうの光をほんとうに浴びたいという願いの日々にいるせいか、光の歌に立ち止まってしまう。
・真夏日となりたる五月ひとしづくの水もふふまず渇きてゐたり
・みづうみをめくりつつゆく漕ぐたびに水のなかより水あらはれて
ああ、カヌーに乗りたい。水を漕ぎたい。こんなふうに。湖をめくりたい。
そして。まるでいま作ったような歌がある。
・完璧に何かを制御できるとふ思ひあがりに夕暮れがくる
・引きこもる日々の傍へに花は散り花は咲きまた花は散りたり
これは原発と、そのあとに流れた桜を通しての歳月の歌だろうけれど、ちょうどいまの地球のことみたいだ。
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