ここのところ、ずっと鞄に入れて持ち歩き、少しの時間があれば開いていた花山多佳子著『森岡貞香の秀歌』があと数頁になってしまって、あしたの通勤時間で読み終わりそうです。
あぁ、寂しい。
序文に
「日常の何でもないことをうたいながら、言葉と辞がふかしぎに動き、意識の在りようとしての時間と空間の奥行きを創出していることに驚かされる。それはある意味、現代短歌のもっともラディカルな行き方ともいえる。その方法意識はどこから来たのだろう。定型を所与のものでなく、一首一首ことばを動かすことでかたちをつくっていく森岡さんの歌には一首一首付き合いたい。そうすることによって、実作者としてのリアルな軌跡を辿ってみたい、というのが、書くときの私の思いであった。もとより、これは論ではなく、あくまで鑑賞である。」
とあって、この一冊の背骨のような言葉で、どの頁からも花山さんの森岡作品一首一首に対する、不思議に思ったり、おもしろがったり、心から共感したり、というその歌に揺さぶられ、そこから深く探っていった跡が見えて、読んでいるほうも森岡貞香の深い森を歩いていくようです。 花山さんがどんなふうにこの森を歩き、そこにある風景が見えるように灯りをともしていってあとを追っていく旅。 ほんとうに終わるのがもったいないような旅でした。
歌集を出版順に追っていくのですが、一番いまの私に響いたのは『敷妙』でした。
・死にてゆく母の手とわが手をつなぎしはきのふのつづきのをとつひのつづき
「・・・中略 その日、死という別れがあったが、生きているものには日常の時間は連続している。その時間を遡ると、手と手をつないでいたときがある。」
・わが母の九十九歳の齢(よはひ)をばちりばめたりき敷妙の屋(いへ)
「・・・中略 この敷妙の屋は母の九十九歳の齢をちりばめたのだ、という家の言寿ぎでもあるのだ。金銀をちりばめた家、というように、母の齢そのときそのときをあちこちにちりばめた家なのである。空間に時間がある。」
・どれほどか時間うごかしてそこに見る八十歳の母六十歳の母
「こちらは、ちりばめられた母の齢の歌である。八十歳だったときの母、六十歳だったときの母の顔やしぐさや、言葉、そして八十歳のときのそれらを「ほらそこに」と見るのである。「どれほど時間うごかして」という曖昧さに、記憶というものと時間の感覚がある。」
「森岡の母の挽歌は、事柄や心情を述べるという一般的な歌い方とはかなり違う。死というものを通して、時間と記憶、空間と時間の在りようを反芻するのである。」
・雨つぶをうけたるやうにさみしさが服に著きてをりbrush(ブラシ)をくだされ
ほんとうに寂しい歌です。
大切に傍に置いておきたい一冊です。
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