私の古い友人Aさんは物静かな人です。
感情的にならず、どちらかというといつも聞き役で、かといってじっと集中して話を聞いているふうでもなく、かなり低い位置からふわっと浮き上がるように反論を始めます。
このあいだも、私がしばらく話すのきいたあと、
Aさん「でもねぇ、まっすぐがいつもいいってわけじゃないのよ、水たまりが閉じるのをだまって待つ、ということも必要なときもあるんじゃない?」
それで、はたと気がついたりします。 もしかして、私は乾きかけた水たまりにまたホースで水を注いでいたんじゃないのか、ということに。
会社のこと、親のこと、私が気になっていることをつぎつぎに話しているあいだ、彼女は眼鏡を拭いてみたり、窓から差す光に手をかざしてネイルを確かめたり、桃を剥いたりします。 それは私の話がつまらないというふうではなく。 ときどき天井を見たりしながら少し考えたり笑ったりしたあと、
「ねえ、ちょっとこれきれいでしょう?」 といって、細い小さな万華鏡を覗かせてくれるのです。
わぁ、きれいだねぇと喜んで覗いていると、ちいさな折り畳み式の台をどこかから持って来て、「これに載ったら、反対側が見えるよ」 と反対側の風景をみることを勧めます。 万華鏡から折り畳み式の台への転換があまりにも自然なので、私はそれじゃあちょっと載ってみようか、という気になって恐る恐る見たくなかった風景を目にすることになるのでした。
反対側の風景はそれはそれで成立していて、いままで見えていなかったものがつぎつぎにはっきりとした輪郭をもって現れます。 どれだけ自分に想像する力が欠けていたかということが明確になって、新しい眼鏡をかけたような気がしました。 そして台をおりたとき、
「桃、食べよう」 と、きれいな器にいれて桃を出してくれました。
そして、『ぶたぶたくんのおかいもの』のぶたぶたくんとかあこちゃんのように、「ばあい」と言って別れたあと、心のなかがさっぱりとして、お話や歌を作ろう、という気持ちになるのでした。