観測にまつわる問題

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八雲立つ出雲:弥生時代と古墳時代の地方史②

2019-05-28 16:25:52 | 日本地理観光
出雲大社のFile:Haiden 1.JPG(パブリックドメイン)出雲大社拝殿(ウィキペディア「出雲大社」(2019/6/5)から)

出雲の由来と枕詞)通説の出雲国風土記に言う「八雲立つ」出雲が由来で良いと思います。「八雲立つ」と「出雲」は古代の日本人の意識の中で密接に結びついている枕詞だからです(八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 古事記・現代語訳と注釈〜日本神話、神社、古代史、古語)。また出雲というか山陰地方はその字面でも分かるように、実際問題曇りが多い地域で、対して瀬戸内側は山陽といい、この対照は古代から認識されていました。日本の神道は太陽神が重視されており、弥生時代は水田耕作中心の時代ですから、尚更天気は明快に意識されていたはずです。古代において雲が多いの代名詞が出雲であるのに、他の解釈が成り立つとは思えないところがあります。また日本海側で雲が多く、太平洋側が雲が少ないというコントラストは日本全国で一般的に見られる現象ですので、大和視点ではなく、北九州視点で雲が多いと言っているんだろうという推測も十分成り立ちます。古代の人は統計をとっておらず、体感で分かる範囲で言っているでしょうが、数値的に雲が多い云々というより、比較して差を捉えて雲が多い云々を言っているだろうことも、山陰/山陽から明らかなはずです。

出雲国成立と弥生時代年代)弥生時代の発祥は考古学的に北部九州になりますが、大和朝廷の発祥が神武東征で示唆されるように日向(筑紫の四神は全て太陽神で古くは北部九州を指したと見られる)であるのと同様、出雲も北部九州からたどり着いた弥生人(渡来人ではなく北部九州縄文人が弥生人に変化しました)が建国した国と見られます。これは出雲国風土記の所謂国引き詞章の八束水臣津野命の台詞、「八雲立つ出雲の国は、狭布(さの)の稚国(わかくに)なるかも」(出雲の国は幅の狭い布のように小さく幼い国だなあ)でも分かると思います。地形をよく捉えているのもそうですが、「若い国」という見方は「古い国」視点でしか発生しません。そしてその古い国とは考古学的に北九州でしかありません(国立歴史民俗博物館の放射性炭素14を使った年代研究:九州北部=紀元前10世紀後半 九州東部~西部瀬戸内=前700~前650 近畿=前7世紀後半 北陸=前6世紀ごろ 東海=前6世紀中ごろ~前5世紀末ごろ 東北=前400年前後 関東=前3世紀後半 共同体社会と人類婚姻史)。また北部九州から出雲に辿りつくには船によったでしょうが、航海において天気とは重要なものです。なお話はやや逸れますが、弥生時代が比較的早期に日本海側を辿り、太平洋側が寧ろ遅れたというのも東北の早期水田や巨大前方後円墳の進出の経緯から明らかです(関東より会津に先に辿りついています)。

四隅突出型墳丘墓)方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓(ウィキペディア「四隅突出型墳丘墓」(21/5/29))です。「弥生中期後半の広島県の三次盆地に最も古い例がみられる。 弥生後期後葉から美作・備後の北部地域や後期後半から出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に広まった。北陸では少し遅れ能登半島などで造られている」ということのようですが、筆者は古墳を死者の家と見ており、四隅突出型墳丘墓は破風(はふ:アジアに広く分布する屋根の妻側の造形)を意識したように思っています。テントも考えましたが、円形のようです。三次盆地に始まるのが事実だとしたら、製鉄技術者が最初は発想した可能性があるかもしれません(「古代出雲」(ウィキペディア 2019/5/29)において山間部で時代の特定できない「野だたら」の遺跡が数多く見つかっており、特に遺跡が多いのは県境付近であって、たたら製鉄に欠かせない大量の木炭の確保は欠かせなかったものと考えられるようです)。北陸に広がった形式のようです。

ハネる出雲/山陰)四隅突出型墳丘墓(世界の歴史まっぷ)・「伊勢」と「出雲」2大古社の建築をイラストでわかりやすく比較!!(和樂)・祭祀(夜見神社)・いなばのしろうさぎ(出雲大社)

荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡)出土する金属器の多さ等から、やはり古代出雲の力とはタタラ、製鉄、製銅、鍛冶じゃないかと思います。中国山地の森林を伐採しつつ鍛冶をしており、野だたら遺跡が年代が特定できないがゆえに、その辺が分かりにくくなっていると見れる気がします。通常はタタラ製鉄で銅は関係ない印象があります。しかし鞴(ふいご)が「たたら」というそうですから、必ずしも鉄ではないと筆者は思います。鞴(ふいご:吹子)(和鋼博物館)を参照すると、「踏鞴が登場するが、「倭名類聚抄」(934年)では皮鞴を「ふきかわ」とし、これと区別するために踏鞴を「たたら」のこととしています。」「踏鞴が最初に記録に現れるのは「東大寺再興絵巻」で、12世紀の大仏鋳造の際、銅の溶解に使用されたと紹介されています。」・・・たたらを踏む(空足を踏む姿と似ていることから、勢い余って踏みとどまれず数歩あゆむ)という言葉の由来のようであり、なるほどと思いますが、注目すべきは銅の溶解に使われたということでしょう。これは時代が降っていますが、史書に必ずしも技術の詳細は記されておらず、有り得ない話ではないと筆者は思います。つまりこの場合のタタラは製鉄ではなく製銅に関係する可能性があります。通説でタタラが6世紀云々の話は筆者に言わせれば論外で、証拠固めは重要でしょうが、荒神谷遺跡に象徴されるように幾らでも金属器が出るのですから、自分で鍛冶をしていたとみるより他ありません。

「神武東征」時の大和盆地と出雲神話の関係性)日本書紀を読むと、神武天皇を大和盆地に受け入れた(皇后を出した在地の)勢力が事代主神ということになっています。古事記などと異同があるようですが、どうも国譲り神話を想起させるものがあって、国譲り神話の舞台は大和盆地ではなかったかという気がしないでもありません。つまり弥生時代の最先進地で拡散の根源の(北)九州から見て、大国(オオクニ)とは本州のことであって、出雲の大国主と大和の事代主、三輪の大物主神は同一の系譜にあるんじゃないかと思います。つまりあえてザックリ言うと、出雲人が大和に移住したのでも、大和人が出雲に移動したのでもなく、九州人が出雲と大和に移住して似たような神・神話があると筆者は見ます。神武天皇の皇后のヒメタタライスズヒメ(日本書紀)/ヒメタタライスケヨリヒメ(古事記)も名前にタタラを含んでおり、大和は元々銅鐸という名の銅鈴配布の一大根源地でしたから(その製作地は唐古・鍵遺跡と見られます)、神武天皇が大和入りした時に既に鍛冶の力は大和にあったと見られ、やはり出雲とどちらが起源という話ではなさそうです(吉備ならまだしもでしょう)。

スサノオと八雲立つ)古事記の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」というスサノオの歌の意味は、>「八雲立つ」と「出雲」をほめ、さらにその枕詞が「八重垣作る その八重垣を」と新妻との新居の宮をほめる言葉を導き出すことで、スサノオたちの前途を祝福するものであり、決してスサノオが雲を否定的に捉えている訳でも、八雲立つという枕詞が出雲を否定的に捉えている訳でもありません。

比婆の山)古事記でイザナミが亡くなった時の記述に伯耆と出雲の境にある比婆の山に葬ったとあります。比婆とはヒバ(アスナロ/翌檜)と思われ、九州から本州に自生し、ヒノキ・サワラ・コウヤマキ・ネズコと共に木曽五木にも数えられ、古くから馴染みのある常緑針葉樹になります。かつて全国に広く自生していたとされ、寺社仏閣に多く使われていますが、乱獲のため減ったと推測されているようです(針葉樹の名前と種類。これだけは知っておきたい日本の針葉樹 life info)。ヒノキ科ですが、ヒノキとは区別しやすいとも。湿気のある肥沃な深山を好んで自生するとされ、針葉樹ですし、あまり低山には分布しないような気もします。広島県庄原市の比婆山は標高1264mですが、比婆山は雲伯国境中心に日本各地にあるらしく、元々木材として利用価値があったヒバが生えていた山を一般にヒバ山と言ったのではないかと思われます。これは檜山・杉山・樫山と同根です。

雲伯国境)出雲と伯耆の国境ですが、伯耆の国府は東伯(倉吉市国府(こう))にあり、(今人口が多い)西伯ではありません。雲伯方言など、出雲と西伯は文化が共通する面も多いようで、古代出雲を考える時、西伯の領域も意識するべきであるようです。

根之堅洲國)古事記でスサノオが言う亡き母(イザナミ)の国。根の国とは嶺(ね)の国で、島根郡(島根半島)を指す説があるようで、嶺(ミネ)=御根で、高嶺(高根)(の花)等、結構和語に根付いた言葉で結局、山ではないかという気がしないでもありません。カタスは潟洲のような気がします。カタは片山、形山、片島等々いろいろなバリエーションがありはします。洲(ス)は言うまでもなく洲(シマ)に通じます。結局、伯耆の夜見島が根之堅洲國説が捨てがたいと思います。というのも安来の地が古代出雲で栄えたのであって、「中海」にあったであろう港から夜見島は近いからです。スサノオは海を治めることになっていました。

夜見島)弓ヶ浜半島(山陰の古代史 - 米子)>古くは島であったと考えられている。『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』逸文には「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されている。ヨミは黄泉説もありますが、どうも語源は不明な感じです。夜の万葉仮名にヤ、ヨ。見の万葉仮名にミ、メ、yeとあります。

花仙山の勾玉)彩り鮮やかな玉から時代の色を読む(岡山県古代吉備文化財センター)>古墳時代になると社会の仕組みが大きく変化し、それに伴って前期後半に玉の材質と色にも変化が起きます。碧玉・瑪瑙・水晶製勾玉の登場です。これらは島根県花仙山(かせんざん)で産出される緑色の碧玉、赤い瑪瑙、白・透明の水晶を素材として、出雲(島根県東部)系の玉作集団によって創造された玉であり、「勾玉=ヒスイ」「(石製の)玉=緑」いう弥生時代までの伝統・既成概念を打ち破った玉の意識改革が起こります。・・・花仙山のめのう脈(島根ジオサイト100選(出雲地方))。弥生時代末から古墳時代にかけて技術革新があったようです。ということは出雲振根の神宝は、この新しい玉造の勾玉だったのかもしれません。新しい勾玉は東国の翡翠の勾玉にとって代わったようですが、あるいは弥生時代に出雲人が越に渡って技術を持って帰って新しい勾玉を開発したというような可能性もあるのかもしれません。そもそも糸魚川産翡翠は縄文時代以来の日本の文化でその技術の起源は日本にあるようです(糸魚川産翡翠の解説 MoonMadness)。玉造の勾玉も結局仏教の興隆で絶えてしまうようです。

越の八口)出雲国風土記意宇郡(おうぐん)母里(もり)の郷(さと)。「大穴持命、越の八口を平げ賜ひて還り坐す」の記述で越の八口とは?という問いがあります。筆者は大穴持命が出雲自身を平らげて中心部の意宇郡(おうぐん)に帰った可能性が高いような気がします。松江市に古志原という地名があります。八は方位を表し、口は城の攻め手とかで使われ、~口を守るとかそういうイメージで八口と見ておきます。越の原義は越すで山を越した向こうのことだと考えることが出来、山陽・吉備視点かもしれません(葬祭土器なんかは吉備から伝播しているとか)。畿内からみた北陸や関東から見た越後がコシ(越し)だと筆者は考えています。峠と関係深い言葉なのでは?

出雲大社)一般的には「いずもたいしゃ」と呼ばれますが、いずもおおやしろが正式名称のようです。島根県出雲市大社町杵築東にある神社で、祭神は大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮。参拝スタイルは一般的な二拝二拍手一拝に対し、二拝四拍手一拝。これは宇佐神宮も同じようです。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたのだそうです。元来(平安時代前期まで)祭神は大国主神でしたが、スサノオに祭神を変えていた時代もあったようです。1667年(寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、記紀の記述に沿って祭神を大国主大神に戻したのだとか。

大社造と明神鳥居)出雲の建築は反るのが好きなようですから、明神鳥居の破風の起源を出雲に見る勝手な推定。

杵築宮)大分県に杵築市ってありますよね。まぁそれだけなんですが。城(キ)に関係する地名は九州に多い感じです。築城郡(ついきぐん)など。百済の城がキ説(借用語)があるようですが、何となくシロになって基本的には消えてしまっています。古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたようですが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称したのだそうです。

妻問い)大国主は妻問いの説話が多いようですが、妻問いの風習は古墳時代に一般的で飛鳥・奈良を通じて存在し、平安時代の摂関政治の要因になったとも言います。元々の日本の風習かもしれませんね。

国引き神話)綱って綱引きとかで陸のイメージがありますけど、国引き神話って船の係留のイメージとか海のイメージですよね。瀬戸内や九州ならまだしも山陰が海のイメージは後の時代を考えると、ちょっと不思議でやはり神話は弥生時代の拡散・移民の記憶が反映されているように思えます。

注連縄)締め縄ではなく占め縄が原義だと思います。弥生時代の衣服は貫頭衣らしいんで。ここからは神の領域だから立ち入り禁止とかそんな感じなんでしょうね。神職は神人(じにん、じんにん / しんじん、かみびと / かみんちゅ)と言いました。横綱は陥落なしでダメになったら引退だから、占め縄みたいな。縄張りという言葉もありますし、ロープでの区切りから発生したものでしょう。漢字は当て字と思います。稲藁の効率的な利用から生まれたもので、基本的には弥生文化だと思われます。

左綯え(ひだりなえ)と右綯え)出雲大社が(例外的な)左綯えで有名です。左綯えが時計回りで、右綯えが反時計回り。日本では、時計回りを右回り(みぎまわり)、反時計回りを左回り(ひだりまわり)と言いますから、左綯えが本来右回りで、右綯えが左回りのような気がしますね。ヒダリは日出りで、ヒガシは日向処(日向かし)が語源が通説で妥当だと思いますが、これは天子南面という中国文化の影響が指摘されます。左重視の日本の文化は東=日出ずる国、日本自身の重視の表れと考えられます。伊勢神宮は畿内の東にありますね。東国というフロンティアの尊重もあったと思います。「左綯え(ひだりなえ)は、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。祀る神様により男性・女性がいて、なう方向を使い分ける場合がある。」(ウィキペディア「注連縄」(2019/6/5))そうですが、まぁこれはそういう見方もあるということなんでしょう。五行思想とか中国の占星術、あるいは陰陽道かもしれませんが、そういうものの影響があるように思います。日本文化は比較的女性を重視していると思いますが、さすがに女性上位のような考え方は有り得ないと思います。ただ、皇祖神が女性神であるのは間違いありません。スサノオが男性神ですから、出雲神道的な解説なのかと思わないでもありません。厳密に神様の男女を左右で分けてないでしょうから、左綯え=男、右綯え=女の図式は成り立っておらず、あるとしたら、左綯え=最高神が男、右綯え=最高神が女というマイナーな左綯えから見た見方なんじゃないかと。筆者は国を譲った出雲大社を伊勢神宮の上位に置くような見方があるとしたら、一般的にはならないと思っていますし、不敬でもあると思っています。ただ、反っている人達に意見を言っても聞きはしないんでしょう(逆にとられると思います)。

出雲大社と向き)出雲大社では社殿は南向きであるのに対して、御神座は西向きであることでも知られます。この理由は諸説あるようですが、南向きは天子南面を意味している(神社は南向きに建てられるとか)はずですが、「国を譲った」大国主命は西=海を向いているんだろうと思います。出雲大社は海から1キロほどで古くはもっと海に近かったと考えられます。出雲の中心地(遺跡が多いところ)は必ずしも出雲大社付近ではなく、大国主命の鎮座地ははじめから海の近くが選ばれ、海を向いた御神座になっていると考えられます。出雲神話に特徴的なスサノオは海を統治するという話になっています。かといって半島・大陸に向いているということでは全くないと思います。日本の歴史を通じて地勢的に山陰地方が大陸に向けた窓口という事態はほぼ見られないからです(無論開いてはいますが、相対的な比較で九州と比べるべくもないという意味です)。では何故海で西かと言えば、筆者の考えでは祖国=北九州=高天原=葦原中国(あしはらのなかつくに)を向いています(東アジアの何処に存在していても「小中華思想」は有り得ます)。古墳時代は大和中心の時代ですが、弥生時代はそもそも北九州の時代として始まっています(時代が下るにつれ、パワーバランスが東に傾いているのは土地の広さ/人口の関係でしかないと思います)。出雲振根も崇神天皇の使者が来た時、筑紫に出張中でした。神武東征の出発点=日向(ヒムカ)も本当は北九州なんだろうと筆者は思っていますが、最初から天子南面だった訳ではなく(九州は四面日向でどちらがというのがそもそもないのは確実だからです)、考古学的に北九州縄文人が弥生人に発展していったのも(弥生人=渡来人ではなく)、その内定説・通説として認められるだろうと考えています。

日御崎)ひのみさき。出雲大社の西にある岬。

出雲-新羅航路)古い時代ほど難しいと思います。対馬や壱岐・北九州は渡海に関連する祭祀や遺跡が濃厚ですが、出雲は必ずしもそうではありません。筆者は呉越から東シナ海横断ルートなるものに対しかなり批判的です。古代ほど命がけの航海だったのであり、なるべく陸に近い安全なルートを採用していたはずです。出雲は北陸地方と海で繫がっていますが、中継貿易のような感じで北九州に流しており、昔ほど北九州が窓口であり、対外交流のプロだったんだろうと思います。遭難したら普通死にますからね。漂流者がたまに流れ着いたから何なの?ってところがあります。リスクが高いところが控えて、リスクが低いところがやるのが経済原理というものでしょう。

メモ:日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)・物部伊勢父根・妣國(ははのくに)・根の国・高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)・沼河比売(ぬなかわひめ)・建御名方神(たけみなかたのかみ)/諏訪大社祭神/御柱・巨大な宇豆柱・雲太、和二、京三

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