自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

強者の論理よりも自然を愛する感性を!

2016-09-14 13:11:02 | 自然と人為

 「あれが見えないの?」と不思議に思う程よく見えていた私の眼は、高卒後1年の浪人生活で近眼になってしまった。子供の頃は野球少年だったので、大学に入ったら楽しみにしていた野球部に入ったが、ノックの球が見えなくて退部した。50mが5秒9で高校の体育の先生が信用しないのかもう一度走れと言われた脚力であったが、私にとっての短距離は50mで、100mは12.3秒もかかる中距離のようなものであった。しかも、大学の体育の時間に自慢で走った100mが15秒もかかってしまった。高齢化ではない。大学入試の若い1年間に運動をしないと体力はこんなにも落ちてしまうのかとガックリしたのを思い出す。逆に若い時期に体力を鍛えておけば身体能力は向上するので、若い時期の体力の低下と向上の差は大きい。

 日本では答えの準備された論理や英語、したがって記憶が中心になる学習が大切にされるが、記憶はスマホ等のコンピュータがやってくれる時代が来ている。若いときには実利的な論理や英語よりも感性と身体を鍛えることの方がその人の可能性を大きくしてくれると思う。
 毎年、アマゾンの先住民の支援に行っている南研子さんから、感性について教わったことがある。先住民の若者は遠くのものが良く見え、危険を素早く感じるが、研子さんも東京ではボーっとしている感性がアマゾンに行くと研ぎ澄まされると言う。ボーと暮らしている私は、愛犬から感性の違いを教わっていたが、人間も環境によって感性の育ち方が違うのだ。

 私がアマゾンに興味を持ったのはTBSテレビ番組「人間とは何だ!?」で、「森の哲学者メイナク族」(動画)を観てからで、その後アマゾンを支援されている南研子さんと広島の仲間たちを知り、ドキュメントの森谷博ディレクターを知る幸運(必然?)に恵まれた。広島の仲間たちの活動で「自然という書物」を求めて旅をする石川仁(カムナ葦舟プロジェクト)さんにもお会いし、旭川の斉藤晶牧場にご一緒したことがある。石川仁さんは斉藤晶さんを「小学校の同級生にあった気がする」と言われていたことが忘れられない。考えて見れば家業の孵化業を継ぐつもりで、苦手の理科系の受験勉強をした私だが、いろいろな人々との出会いがあり、いつのまにか人間関係より信頼できるし、信頼するしかない自然との関係を大切にする道を歩んでいた。

 我々はケプラー、ガリレオ、デカルトそしてニュートンなどの17世紀の科学革命以来、論理によりもたらされる科学を最高の知性として尊敬してきた。ことにデカルトの要素還元主義は科学研究の専門細分化をもたらし、仕事の分業化とともに、孤立する個人を生み続けている。
 しかし、科学、は観察や実験により仮説を真理として確認できるが、人間の想像力は更なる仮説を生み、観察や実験でブラッシュアップされていく。科学は観察や実験により仮説を検証するlことで信頼されているが、人と自然と農業の関係は実験室で確認できるものではない。農学を実験室で発展させていると思うのは科学の思い上がりであり、農業は現場で学ぶしかない。
 また、日常的に繰り返している我々の論理は、その仮説が第3者で検証されるよりも、多数決や権力により支配されることが普通であり、論理は利害で対立することが多い。ことに政治や経済の世界では他者を尊重しなくて、自らが正しいと利己的な主張になりがちである。

 日常的な論理には利害関係が絡むので、一般の人達は強者に従うしかないと思うかも知れない。しかし、強者も利己的なので口では甘いことを言いつつ我々を利用したり、自分たちが支配者であり続けていたいめに、我々に嘘を平気で言ったり、最悪の場合は政治家が我々を戦争で地獄に突き落とすかも知れない。政治や経済で他者を愛し、利他的な行動をすることが、いかに大切なことかを、我々はよくよく考えねばならない。
 
 民進党の蓮舫議員が「二重国籍」で騒がれている。国際化の時代には国際結婚が増えて、父方と母方の両方の国籍を持つ方が人間として自然の愛だ。「尊皇攘夷」の明治維新が日本を守るためという「論理」のもとに「侵略戦争」を始めたことに、多くの人は気付いていない。二重国籍は「先進国」では常識だが、「首相」や「大統領」になれないという決まりは、二重国籍の人が自国に忠誠を尽くさないというバカげた排他主義だ。父も母も日本人の政治家が、日本の自主性のためにアメリカと闘っているのか?「二重国籍」の子が政治的に生きる自由を束縛されるよりも、国際化に貢献できると評価すべきだ。むしろ人類皆兄弟なのだから、「二重国籍」は「首相」になれないという日本の法律を変えるために民進党は闘うべきだ。政治に他者を愛する心の芯があれば、その政党は国民に信頼される。そのような政党を信頼しない国民がいるとすれば、それは人類の平和を無視した人たちだ。

 我々は自然の一員として生かされているので、自然の一員として日常的な論理も考えることが大切だ。私がメイナク族アーミッシュの人々を尊敬し学びたいと思い、皆さんに紹介している理由もそこにある。牛が拓いた牧場の斉藤晶さんは、自然の中で生活をしていれば世の中が良く見えると言われる。文明の発達が人類を必ずしも幸福にはしてくれない。地球を汚染して異常気象等で住みにくい場にしながら、宇宙に進出することを進歩だと喜ぶ時代ではもうないだろう。
 人類は自然の一員であり、人類皆兄弟だ。競争や支配につながる論理よりも、自然を愛する感性を育てることこそが、世界に共通する第一の教育の義務だと思う。

初稿 2016.9.14