自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

浜口梧陵と渋沢栄一~共感(道徳)と経済

2016-09-03 15:09:32 | 自然と人為

 自然と皆んなが一体となって暮らし、「自然」や「幸福」と言う言葉を持たないで穏やかに暮らしているメイナク族の人々がアマゾンにいる。彼らの生活は「共感」で成り立っているように見える。また、宗教的迫害に会いながらもアメリカに移民し、家族と共同体を大切に守り、絶対平和主義で個性を主張せず質素な生活を300年も続けているアーミッシュの人々のいることも前回は紹介した。個人に目覚めた彼らは個性を抑えることで利己的な自己を殺し、家族や共同体との「共感」を「幸福」と感じているのだろう。

 私にとってはメイナク族もアーミッシュも人類が平和に生きる模範を示してくれる尊敬すべき人々だが、それでは人類の進歩はないと思う人も多いだろう。しかし、人類の進歩とは何を目指しているのだろうか。例えば、明治の文明開化は「尊皇攘夷」から「海外侵略」への軍国主義をもたらしたので、私は日本人が誇りにする「明治維新」を評価していない。人々は何をめざし、後世に何を残してくれたのかこそ評価すべきであろう。今回は日本人が誇るべき経済的に偉大な人として、江戸末期の濱口梧陵(1820年7月24日-1885年4月21日)と明治の渋沢栄一(1840年3月16日 - 1931年11月11日)について紹介したい。

 このブログでは残しておきたいテレビ番組の紹介と関連する事項を数点調べて紹介することが目的の一つなので、その人について私が特別な知識を持っている訳ではない。

 濱口梧陵についてはテレビ番組「英雄たちの選択」で知った。実業家として活躍しただけでなく、安政東海地震(1854年12月23日)安政南海地震(1854年12月24日)の津波に対して村人を救い、さらに安政江戸地震(1855年11月11日)で江戸にあった本店が大被害に遭遇しながらも、莫大な私財を投げ打って復興に尽力し、工場のあった銚子に本店を移して販路を拡大した。江戸時代にあっては住民は貴重な従業員でもあり、住民を守ることが事業を守ることでもあった。
 これは個人よりも集団を大切にする日本人の特徴と言うよりも、経済学の父として有名なアダム・スミス『道徳感情論』の他者や自然との共感の重要性をすでに実践していたと評価できよう。その伝統は戦後の昭和30年代まで続き、地元の大手企業は自然の中で遊び、農業を手伝って育った農家出身者を知恵の育った戦力として期待していたと聞く。高度経済成長期を経て企業の体質が変化し、今では企業は利益しか考えないのが常識となってしまったようだ。
 参考: 英雄たちの選択「南海トラフに挑んだ男 濱口梧陵・真の復興をめざす」(録画)
      教科書にものった「稲むらの火」
      「稲村の火」の実際のお話とは?
      くらし☆解説 「津波防災の日 語り継がれる教訓
      アダム・スミスの共感について : 『道徳感情論』をめぐって
      道徳感情論 (講談社学術文庫)
      「池上彰のやさしい経済学」まとめ 第3回
      アダムスミスの国富論
      諸国民の富の性質と原因の研究(国富論)
      アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)








 渋沢栄一についても、テレビ番組「知恵泉」で「論語と算盤」や「道徳経済合一説」を知った。利益を得ることが卑しい行為とされていた江戸時代に生まれ、経済行為と道徳を一体と考えて資本主義を日本に根付かせた業績は素晴らしい。ここでもアダムスミス「道徳感情論」を意識していたかどうかは別にして、日本の資本主義の父は道徳が経済の土台と考えていたことを知り、それがいつの時代でも経済の原点であることを改めて教えていただいた。
 参考: 知恵泉 : 渋沢栄一 / 地方を元気にする極意とは?
      公益財団法人 渋沢栄一記念財団
      ドラッカーも影響を受けた、初代ベンチャー起業家「渋沢栄一」の偉業






 資本主義を常識とする日本において、「アベノミクス」で輸出企業を優遇して企業の内部留保を増加させ、「お金は天下の回りもの」なのに一部を潤わせても国民は潤わず、国の借金ばかりが肥大化していることの愚かさが問題にされない現代こそ、異常な政治と資本主義だと私は思う。アベノミクスを推進している学者(浜田)の言葉、「よく現実は違うんだ。学者の考えていることは空論だと強く言われるが、逆に言うと経済学200年以上の歴史を全く無視して自分の考え方を述べておられる、という点で、経済は分かっているかもしれないが、経済学を分からないでしゃべっておられると思うぐらいおかしい。」という言葉が、私は今も脳裏から離れない。学者こそアダム・スミスの「道徳感情論」を無視し、「国富論」が経済学の原点たと空論を言っていると、私は思う。
 参考: 地方をどう創生するのか~アベノミクスと日本経済の未来①

 故宇沢弘文先生の大切にされた「社会的共通資本」を濱口梧陵や渋沢栄一も大切にしたと経済学理論では言えるだろう。最近、木下 栄蔵著「資本主義の限界」が出版された。取り寄せて学びたいと思っているが、木下氏は「デフレギャップのない状態」の「正の経済」ではアダム・スミスが正しく、「反の経済」ではケインズが正しい。「正の経済」では「供給が需要をつくる」し、「反の経済」では「需要が供給をつくる」と指摘している。
 参考: なぜ独裁型の政治家が増えるのか? その鍵は「反の経済法則」にあった

 教育や福祉などの「社会的共通資本」を充実させることで「需要」をつくり、「資本主義の限界」を打破すべきであり、輸出可能な農産物の生産を奨励する「地方創生」ではなく、地域に残る共同体を守る制度を充実させることで、「地方再生」を目指すべきだ、と私は思う。

追加(2016.9.11):

 共感(道徳)と経済を語る上では、現在の尊敬すべき経済人、稲盛和夫氏のことを紹介しておかねばならない。すでに、このブログで、「人生の結果 = 考え方 × 熱意 × 能力」と題して紹介しているが、その冒頭部分に、

 稲盛和夫氏は言う。「『小学校の道徳のようなことをいう』と笑う人がいるかもしれません。しかし、その小学生のときに教わったようなことを、私たち大人が守れなかったからこそ、いまこれほどまでに社会の価値観が揺らぎ、人の心が荒廃しているのではないでしょうか」と。・・・「倫理とはすなわち、己の利益ではなく他人の利益を優先して考えること」、「人生の結果とは、その人が持つ思想・哲学と、熱意と、能力の掛け算だという方程式」で示せると持論を説き、「高い能力のある人が悪い哲学を持つと、能力があればあるほどマイナスが大きくなる」と話している。
 
 稲盛氏も経済の原点に道徳があることを説いている。アダムスミス「道徳感情論」を学ぶまでもなく、日本人の心には小学校や世間から教わった道徳心があるはずだ。道徳心がないと能力あるいは影響力があればあるほど、この国をダメな国にしていく。義務教育では競争の論理ではなく自然を愛する感性を育てることが大切だと思う。

初稿 2016.9.3 更新 2016.9.11

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