年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

千葉の担ぎ屋の始まりの文献

2023年09月29日 | 宅老のグチ
千葉県史  大正昭和編  千葉県編集 昭和42年3月 1967
農村生活の展開と農村問題 81頁

 JR成田線の湖北駅付近に亡くなった妹から住んでいて、湖北駅には昔の担ぎ屋さんと言う農家女性の遺跡があるという話を聞いていた。駅のプラットホームに荷物を担いだまま、休むところがあるという。一見すると座る椅子だが位置が高い。
 これは戦後も長く東京に多くの農産物を持ってきていた記憶がある。東京の戦後復興によって鮮度の良い農産物が入るようになって減ってしまった。戦後の発祥と思っていたが、千葉県史を何気なく読んでいたら、昭和の農村不況で生活費を稼ぐことから始まったようだ。
 国民新聞の昭和5年11月の記事で農産物価格の下落で、中間搾取を省き、さらに鮮度の良い野菜等を運び販売する女行商人の記事がある。金銭との交換もあるが都会の古着等との物々交換もあったようだ。この女行商人は前からあったのだが昭和の農村不況で激増して、朝の列車の通勤客に迷惑をかけないようにしていたという。いま成田からの京成電車は来日した旅行客の大きなバックで混んでいるが農家の女行商人は朝の数本だけなので次第に鉄道会社と仲間でル-ルが出来て、仕事になっているようだ。一日の利益が2円位で、3往復する女性は10円ほどもあるという。当時の農家は米作では赤字でこのような副業で生計を補っていた。
 当然のように各地域の行政は農家の副業を促進したが競争が激しく成果がでなかった。
 こと漬物に関しては長距離輸送と軍隊や工場需要のあるタクワン漬が推奨された。東京での規格や品質の乱れがあって、競争規約等の動きが都内のつけ物組合の会合の中心議題だった。
出典 
「關東漬物・佃煮・組合發展史」江川愛吉朗編  關東漬物佃煮新報社
所蔵図書館 都立中央図書館、千代田区立千代田図書館
 


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