3388 野球ブログ

日米を問わず名選手を紹介。

昔の話(6)

2011-06-20 22:32:43 | Weblog
昨日の続きですが、昭和30年代のエース格の投手の多くは、年間50試合以上登板、300イニングを超す投手も珍しくはありませんでした。単純に言えば、3試合に1回は彼らの登板が、ほぼ確実に見られる訳でした。逆に言えば、多くのチームに於いて、3番以内に入らなければ、ローテーションに入れないと言う事になります。昭和30年代後半、阪急ブレーブスの投手陣は足立光宏、石井茂雄の台頭により米田哲也、梶本隆夫と併せて4本柱と呼ばれ、他チームから羨ましがれていたのは例外で、極端に言えば、いい投手3人プラス敗戦処理投手で十分賄えていたと言う感じでした。酷使に拠る投手の寿命を考えると、決していい事ではないのでしょうが、ファンの立場からすれば、優れた投手を観られる機会が多く、喜ばしいものでした。それに比べ、現在先発投手の多くは、週1回の登板であり、ダルビッシュ有や田中将大等の素晴らしい投手の登板を観る機会は限られ、その分チームで5番手、ないしは6番手の投手の先発を観せられている気さえしてしまいます。昔よりも現在の方が、先発ローテーションに入り易い事だけは、少なくとも事実かと思います。

昔の話(5)

2011-06-19 21:44:09 | Weblog
昭和30年代中頃、父親に無理を言って、神宮球場の日曜日のダブルヘッダーに連れて行ってもらいました。試合は国鉄スワローズ対読売ジャイアンツです。一番観たかった選手は、当然当時の国鉄スワローズのエースというよりも日本のエース、金田正一投手でした。非常に幸いで、嬉しい事に、彼は第一試合の終盤リリーフで登板し、又第二試合でも先発でした。特に彼がリリーフに出て、マウンドでいつもの通りの儀式というか、敢えてマウンド後方からウオームアップを始める際の、観客のどよめきや歓声は物凄いものがありました。公称184cmと当時の投手としては、同じく快速左腕の梶本隆夫の186cmに次ぐ、長身という事もあり、その投球はあたかも、鳳凰の羽ばたきかの様に思えました。今回触れたいのは、当時のローテーションです。現在は殆ど無いダブルヘッダーでもそうですが、当時のエース級の投手は、先発とリリーフ双方の役目をこなすのは、至極当たり前の様に考えられて来ました。先発完投の翌日でも、チームが勝てそうになれば、エースが抑えを務めるのは決して不思議な事ではありませんでした。当時も試合日程は3連戦が多かった為、いい投手が3人いれば十分?と言われていたものです。つまり当時の本当に良かった所は、いい投手を観る機会が現在より遥かに多いという事でした。

昔の話(4)

2011-06-18 23:21:19 | Weblog
昭和33,34年頃の話です。周りの友達との間に、プロ野球選手で最も脚が速いのが、広瀬叔功で次が長嶋茂雄だという噂が何故か流れていました。当時の長嶋茂雄は攻守走揃った選手として、所属球団が読売ジャイアンツという事もあり、人気抜群でした。一方広瀬叔功も、当時は強豪チームの南海ホークスにあって、杉浦忠、野村克也と共に有名な選手でした。あくまでも一応の目安でしょうが、脚の速さのバロメーターとされる盗塁数は、二人ともかなり多い方でしたが、盗塁王は獲得していません。多分、セパの強豪チームで、脚の速い当時の若手選手を選び、勝手に俊足選手の1,2位に認定した程度かと思います。広瀬叔功は、昭和36年から5年連続で盗塁王を獲得し、俊足選手と言えば、間違いなく真っ先に名前の出て来る選手になりましたが、長嶋茂雄は違っていました。ほぼ毎年、盗塁数が減る傾向があり、昭和40年代以降は、殆ど走らない(走れない?)選手になっていました。勿論盗塁数だけでは判断は出来ないのでしょうが、脚力の衰えは年々感じたものでした。今もその傾向はありますが、チームの主軸を任される選手で、若い頃は多く盗塁していても、年齢とともに盗塁を試みなくなる選手は結構多く、その先駆者が長嶋茂雄かなと思ってしまうものです。

松井秀喜の起用法

2011-06-17 21:59:42 | Weblog
松井秀喜は今日6号ホームランを放ち、現在0.220,6本塁打、27打点の成績となっています。ゲレン監督が解任され、メルビン監督代行になってから、明らかに起用法が変わって来ました。前月≪松井秀喜の危機≫でも触れましたが、その後も前監督の時は続けてスタメンから外されたり、4番で起用されたり、全く一貫性はありませんでした。唯一決まっていたのは、途中から左腕投手相手には、スタメン起用はないという事でした。勿論松井秀喜が不振だからこそ、こういう起用法になったとはいえ、もうひとつその起用法に、納得の出来るものではありませんでした。しかし今回の監督交代後、左腕投手相手にもスタメンで起用され、更にはナショナルリーグ主催のインターリーグでも、ライトで起用される予定もあるみたいです。そのせいでしょうか、弱いとされていた左腕投手相手にも本塁打を放つ等、打撃成績はかなり復調気味となっています。しかし真価を問われるのは、これからかと思います。今後の彼の成績と、現在地区最下位のチームの成績次第では、トレードの可能性も十分あり得るかと思います。つまり彼が好調を維持し、チームが低迷を続けた場合、シビアなメジャーの事、絶好の売り時となり、又彼及びチームが低迷なら、若手への切り替えもあり得ると思います。つまり彼、チーム双方が好調でない限り、チームを離れる可能性は消えないかと思ってしまいます。

倉持明

2011-06-16 23:13:15 | Weblog
1972年、ドラフト4位でロッテオリオンズに入団、その後クラウンライターライオンズに移籍も、再びロッテオリオンズに戻り、ヤクルトスワローズに移籍後、12年の現役生活を終えた右腕投手です。しかし彼のイメージとしては、ロッテオリオンズ時代しか思い浮かばない感がありましたが、今実績を調べ直して見ると、クラウンライターライオンズ時代の2年間に、ある程度の実績を残していた事が、改めて解りました。又その残した実績以上に、特異な風貌もあり妙に印象に深く残る投手でした。公称180cm.72kgとなっていますが、何故かもっと小柄な印象のあった投手です。投球フォームは、やや腰の回転が浅く、更に右腕の引きが見え易い感じのスリークォーターより、少し低い位置からでしたが、肘の撓りには欠ける為、球速、制球、球の切れ、伸びいずれも格別特記すべきものはなく、殆ど全てにおいて平凡な投手であったという印象でした。強いて言えば球の切れが、比較的優れていた様に思えます。それにしても、決して長くはない期間とはいえ、再びロッテオリオンズに戻ってきた時代の、クローザーとしての活躍は、その球威から考えると、物凄く頑張った結果だと思います。


通算成績    206試合    17勝21敗    防御率 3.40     40セーブ    251奪三振

川村丈夫

2011-06-15 22:28:41 | Weblog
1997年、逆指名1位で横浜ベイスターズに入団、2008年まで同チーム一筋に活躍した右腕投手です。当初は先発、後に主にリリーフとして活躍しました。この投手の最大の長所は、球の伸び、切れにあると言っていいかと思います。左脚を胸元まで引き付け、無理なく後方に引き下げられた右腕から、肘を十分に撓らせ、バネを十分に活かしたスリークォーターより投じる球は、球速こそ決して凄く速いという部類には入らなく、更には軽い球ながらも、恐ろしい程打者の手元で伸びたり、切れたりするものでした。本当に観ていて、物凄く魅力的であり、小気味よさを感じる投手でした。タイプとしては、変化球の種類こそ違うもののヤクルトスワローズの伊藤智仁に近いものがあるかとと思います。しかし、スタミナ面でやや欠ける点と、切れの良さに頼り過ぎた投球の為か、現役晩年の投球は往時のものとはかなり違った姿になってしまい、物凄く寂しく感じました。繰り返しになるかも知れませんが、スピードガンでは測れない程の球の勢いを感じさしてくれる投手だったと思います。



通算成績    368試合   71勝64敗    防御率 3.72     60ホールド    815奪三振

芝草宇宙

2011-06-14 16:43:01 | Weblog
1988年、ドラフト6位で日本ハムファイターズに入団、1991年デビュー後、2005年まで同チームに所属、翌2006年ソフトバンクホークスにテスト入団を果たすも、登板はなく、結果的に実働は2004年までの14シーズンで終わった右腕投手です。甲子園でかなり活躍し、騒がれた投手ですが、ドラフト6位指名という事に、ある意味スカウトの見る目を感じてしまうものです。つまり人気はあるけど、上手く育てばもうけものといった程度の評価だったと思います。この投手を一言で表現すれば、平凡な投手という言葉に落ち着くかと思います。公称180cm,74kgと非常に均整のとれた体型も、投手して格別目立つ訳ではなく、オーバースローに近い投球フォームと、そこから繰り出される球にも目立つものはありませんでした。しかし大きく直さなければならない欠点も、見当りませんでした。非常にオーソドックスな綺麗なフォームでしたが、腰の捻り、腕の引き、肘の撓り、全てに物足りなさというか、何か一つ欠けるものがあると感じざるを得ないものでした。その為か、制球力、変化球の種類、威力とも格別良くもなく、悪くもないという印象でした。彼を初めて見た時思ったのは、この投手がもの凄い数字を残す事は不可能だろうが、全く通用しないというレベルでもないという事でした。通算成績46勝56敗という事もあり、決して悪い意味ではなく、平凡な投手と称していいかと思います。



通算成績    430試合    46勝56敗    防御率 4.24     494奪三振

福本豊VS広瀬叔功(1)

2011-06-13 21:56:40 | Weblog
福本豊と広瀬叔功を、盗塁に関して比較したいと思います。広瀬叔功の盗塁に関して、必ず書かれている事は、記録目当てではなく、勝利に結びつく価値ある盗塁に拘っており、決して数だけを追っての盗塁はしていないといった内容の記事です。本人自らそう語っている様ですし、多分事実そうなのでしょう。通算盗塁や盗塁の名手という記事では、どんな事があってもその名前を外す事の出来ないのが、この二人だと思います。しかし前述の内容が広瀬叔功には、必ず語られるのに、一方遥かに多い盗塁数を記録している福本豊の盗塁に関するポリシーは、あまり紹介される事はありません。もっと言えば、そういう価値観で盗塁を試みている広瀬叔功だからこそ、成功率が0.829と非常に高く、福本豊の0.781を遥かに凌いでいるのも、当然と言う内容と取れる記事も多く見られます。穿った見方をすれば、福本豊は、必要のない場面でも盗塁を試み、つまり数だけを追っており、その為か失敗も多く、成功率も低いとも取れます。しかし実態はどうでしょうか?試合に出ていれば、必然的に回って来る打席と、試みなければ始まらない盗塁とは、基本的に違うものであり、率重視で評価するのにはかなりの無理がある様な気がしてなりません。

投球フォーム(4)

2011-06-12 21:23:17 | Weblog
昭和38年のオールスター戦で、金田正一は、当時のオールスター戦での記録、5連続奪三振を達成しています。その年の彼は30勝17敗、防御率1.98,287奪三振と素晴らしい活躍をしています。しかし投球内容は、かっての彼よりストレートの割合が減っており、大きく割れるカーブをより巧く使う様に変化して来ており、非常に円熟した投球スタイルになっていました。従ってオールスター戦で、前述の様な投球をするとは全く想像出来ませんでした。その試合での彼の投球フォームは、約50年近く経た現在でも、忘れようと思っても忘れられるものではありませんでした。いつもの試合とは異なり、右脚が高く上がり、それに伴い腰の捩りもあり、投じられた球は恐ろしく速いものでした。又普段の彼より、高い腕の位置から投げていた様に思います。後にも先にも、あれ程ダイナミックだった彼の投球フォームを観た事はありませんでした。3イニングまでの限定だから出来たのか、目立つ事が好きで、オーススター戦だから張り切っていた為か分りませんが、本当に凄まじいまでの彼の投球でした。当時毎年300イニング以上の投球回数をこなす為、脚をあまり上げない省エネの投法に敢えてしていたのか、実際の所は分りませんが、その投球フォームでも、長年に亘り超一流の実績を残し続けた彼の実力は、物凄過ぎるものだと思えてなりません。

投球フォーム(3)

2011-06-11 21:15:39 | Weblog
不滅の金字塔400勝、その他投手の通算記録の殆どを占める金田正一投手の投球フォームに触れたく思います。本人は、昭和30年代に刊行された著書≪やったるで≫の内で、背は高いながらも胴長短足のスタイルを巧く利して,上体の低いフォームを作る事が出来たと書いており、又最近出演したサンデーモーニングでも、自身のフォームを自画自賛していました。歳月は経てども相変らずの金田節、妙に微笑ましくもなりました。しかし素人の私が言うのもおこがましくはあるのですが、どんなに本人が自画自賛しようとも、金田正一の投球フォームが素晴らしいとは、あまり思えないものです。物凄く気になるのが脚の上げ方が、非常に小さい事です。現在の投手だと斉藤佑樹投手に似ているかと思います。多くの投手に見られる様に、胸元へ抱え込む様に上げるというよりは、キャッチボールをする際に、脚を上げずに投げる訳にはいかない為、ある意味仕方なく上げている様にも思える程でした。この非常に小さい脚の上げ方の為、どうしても腰の捩りが浅く、球速は滅法あるのですが、どうしても球の重み、凄味にはもう一つ欠ける様な気がしてなりませんでした。つまり物凄く速いながらも、軽い球質でした。しかしその他、左腕の後方への引き方、肘の撓り等素晴らしく、この欠点と言っていいのでしょうか、小さな脚の上げ方を充分カバーしていたと思います。彼は特に梅雨時、左肘の痛みに悩まされており、マウンド上でも肘を気にする仕草を度々見せていましたが、どうしても小さい脚の上げ方による、腰の捩りの不足が、肘の負担増に結び付いた様に思えてなりません。