たまたま通りかかった、内山先生の国語の授業をのぞかせていただきました。この先生の熱い語りについつい引き込まれて、最後まで一児童になって授業に参加してしまいました。こんなに、素敵な表情で、国語を語ることのできる先生ってなかなかいません。
ただ、残念なことに、私が参加したのは最後の10分だけです。ここで問題になっていたのは、この最後の行についてです。
「もうすっかり春です。」という一文が問題になっていました。これを「もう/すっかり/春です。」3つの部分に切り、さらにその中の「すっかり」について話し合っていました。
「すっかりの、意味がよく分からないね。どんな意味が考えられるの?」と先生が聞きます。すると子どもたちは「春になった。」「もうすぐ春になる。」「ちょっと春になった。」などと銘々に答えます。それを内山先生はこんなふうに、分かりやすく5つに板書してまとめます。
この板書を見て、子どもたちは、「春だよ。だから5だよね。」「でもさあ、もうだからやっと春になったんだから、まだ完全じゃないら。」などとつぶやきます。「すっかり」という言葉が、5段階に分けられたことで選択する必要性が出てきたのです。今から挙手して自分の考えを表明しなければならないから、つぶやきながら自分の考えをまとめているのです。
「多数決をとる前に、消した方がいい意見はありますか?」という先生の問いに対して、「ぜんぜん春じゃないはおかしいよね。」「うん、だってすっかり春ですってかいてあるもん。」という意見が出ます。
「それはどこで分かるの?」と先生が聞きます。「春です」と子どもたちが答えます。先生が、そうだよね、「『春です。』だから春じゃないはおかしいよね。」ここでたまらなくなって、私も授業に参加します。
「ぜんぜん春じゃないはおかしいって今みんなは言ったよね。すごいね。では、さらに教えて?」「なにを?」「うん、『春です。』が証拠って言ったけど、もっと細かく切って考えてみたらいいと思うんだ。『春じゃないがおかしい理由』は『春/です。』の『春』なの?それとも、『です。』なの?」
すると、すかさず、「です。だよ。だってですはもう終わったことなんだもの。」「そうだよ、春になったという意味だから、春じゃないなんてことはありえないんだ。」と答えが返ってきます。すごいなあ。鋭いなあと感心しました。
ここまで来て、「用意はいいですか?」のかけ声の下、4つの中から「すっかり春」の意味を選択します。結果は、2が2人。4が2人。あとは5の「完全に春」を選びました。
ここから自由討論が自然に始まります。「2だよ。だって今まで冬なのに急に春にはならないよ。」という2の意見の子達が頑張って理由を話します。それを聞いて、1名、また1名が「5の意見から、2に変えます。」と意見を変えます。
ここからが内山先生の腕の見せ所です。「そうかあ、すっかりの意味がよく分からないんだね。それじゃあ、もっと別の例えで考えてみようね。」と声をかけ、黒板に濃う書きます。
黒板には、こう書かれます。「私は、ごはんを、すっかり食べてしまいました。」
これを読んで、子どもたちは、はっと目を見開きます。すっかりはぜ~んぶってことなんだ。」とつぶやきます。子どもたちが、先生の支援で、すっかりの意味がすとんと落ちた瞬間です。
さらに、内山先生のすごいところは、子どもたちのこのつぶやきをきちんと拾うところです。「そうかあ、完全という言葉が分かりにくかったんだね。じゃあ、『かんぜん』を消して『ぜんぶ』にするね。」と言いながら、板書を変えます。
「そして、そうだよねえ。給食をすっかり食べたってことは、残さずってことだよね。だからすっかり春ってことは..............。」
するとその後を子どもたちが受けて「そうだね。だからもうだよね。全部残さず春になったってことだね。」と続けます。
いい雰囲気だなあ。うらやましいなあと思います。
ところが、一般にやっている授業になるとどうでしょう。物語の筋に従って登場人物の言動を黒板やノートに書き、そのときの気持ちをノートに書き、それを子どもたちが発表するという繰り返しが多いです。例えば「太郎は、次は何をしましたか?、そのときの太郎はどんな気持ちだったでしょう」といった調子です。これでは、子どもたちが何を言っても間違いがなく。何を言ってもだいたい正解になります。新しいことに気づいたり、「ああ!そうなんだ」と言ったような感動の学びにはなりません。平板で退屈な授業にしかなりません。
内山さんの授業は子どもも授業者もそれを参観した酒井さんもブログを見た私もつい引き込まれてしまうような内容があり、魅力ある授業になっているのです。これからの一層のがんばりが楽しみです。