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人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

「1808年12月22日、アン・デア・ウィーン劇場のベートーヴェンの演奏会」 ~ 「あの日、あの場所」に行ってみたい:作家・原田ひ香さんのエッセイから

2020年04月27日 07時19分24秒 | 日記

27日(月)。わが家に来てから今日で2035日目を迎え、盛岡市が今月、新型コロナウイルス感染拡大で減収となった事業者に対し、市税の徴収猶予の申請書類を送った際、申請者の記入例を「滞納 太郎」と記し、事業者から「ひどい」と苦情が寄せられた  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     早口で読むと「滞納したろう」とも聞こえるからね  チコちゃんにも叱られそう!

 

         

 

昨日の日経朝刊 文化面に作家の原田ひ香さんが「ヒーターの壊れた劇場で」というエッセイを寄せています

「こんなご時世だから、自分が好きな『あの日』について考えることをお勧めしたい 自分が好きな歴史の『あの日あの場所に』自分がいると想像して楽しむのだ」として、「1808年12月22日、アン・デア・ウィーン劇場で開かれたベートーヴェンの演奏会 を繰り返し思い描いている」と書いています この日は、第5交響曲、第6交響曲、ピアノ協奏曲第4番が一気に初演された記念すべき日です 当日のプログラムは次のような内容でした

①交響曲第5番 ヘ長調 作品68「田園」(現在の第6番)

②アリア「Ah、perfido」(作品65)

③ミサ曲 ハ長調 作品86 から「グロリア」

④ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 作品58

 (休憩)

⑤交響曲 第6番 ハ短調 作品67「運命」(現在の第5番)

⑥ミサ曲 ハ長調より「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」

⑦合唱幻想曲 ハ短調 作品80

(作品番号は楽譜出版順)

このコンサートの所要時間は4時間を超えたと言われています 原田さん曰く「地獄のプログラムである」。原田さんは10代の頃、子供のオーケストラでヴァイオリンを弾いていた時にこれらの曲を演奏したことがあるそうですが、「それを全部、同じ日に発表しちゃおう、というところに、ベートーヴェンの性格が良く表れていると思う 過剰でやり過ぎ、悪気はないが、熱意で皆を辟易させる人だったんじゃないだろうか」と分析を加えています

そして、「しかし、この日の地獄はこんなことでは終わらない アリアのソリストの女性はなぜか、当日にドタキャンしてしまった 急きょ決まった歌手は緊張で歌えなくなって退場となった ラストを飾るはずだった合唱幻想曲は、オケが演奏途中で混乱して、ベートーヴェン自身が一度演奏を止め、最初からやり直すというていたらく オーケストラで演奏するのは慣れや練習が必要だ。『運命』や『田園』を演奏した後では体力的にも厳しく集中力も欠いたことだろう」とオケに同情を寄せています

そして、「想像するに、前日のリハーサルからうまくいっていなかったんじゃないだろうか 初演を成功させたいベートーヴェン、けれど(当時としては)難解な音楽、リハーサル1日ではとても時間が足りなかったはずだ。ベートーヴェンはイライラしっぱなしで雰囲気は最悪。アリアのソリストは気まずい雰囲気に耐えられなくなり降板したのかもしれない さらに、演奏の日のウィーンは12月の寒い日だった。それなのに、なんと劇場のヒーターが壊れていたらしい 観客たちは寒さに震えながら、冷え切った関係のオケと指揮者と、長い長い、不完全な演奏を聴かされるはめになった」と当時の苛酷な状況を紹介します

そして最後に、「それでも私はあの日、自分が当日あの会場にいることを夢見ずにいられない 私はその時、何を感じたのか。あの2曲が将来、この世が果てるまで、名曲として残るとはとても見抜けなかっただろうけど」と締めくくっています

このエッセイを読んで、「さて、自分にとって行ってみたい『あの日 あの場所』はいつどこだろうか、と考えてみました

1986年4月末から5月初旬にかけてのゴールデンウイークの時、私は休暇でオーストリアにいました 初めてのザルツブルクでありウィーンでしたが、目的はモーツアルトの墓参りです ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)は死後、ウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬されました。没後100年の1891年に、そこから中央墓地に「モーツアルトの墓とされるもの」が記念碑として移転しましたが、実際にはモーツアルトの遺骸はサンクト・マルクス墓地のどこかに埋葬されたままで、現在なお墓地のどこに埋められているのか不明です 私が墓参りに行ったのは中央墓地の方です。墓地の一角にベートーヴェン、シューベルト、ブラームスらの墓が集まった所があり、そこにモーツアルトの記念碑が立っているのです。墓地の入口でおばちゃんが売っていた花束を買い、記念碑の手前に手向けました モーツアルトだけ 遺骨がそこに埋葬されていないのが とても悲しかった思い出があります

 

     

     ウィーン中央墓地 (左からベートーヴェン、モーツアルト、シューベルト)

 

あの時以来、私が行ってみたい『あの日 あの場所』は、モーツアルトが息を引き取った1791年12月5日と、その前後1か月のウィーンになりました その理由は、第一にモーツアルトの本当の死因が知りたいということ、第二にモーツアルトの遺骸はサンクト・マルクス墓地のどこに埋められているのかが知りたいからです

死因については、公式の検死報告書が作成されておらず、埋葬場所も不明なままなため遺体の検証が出来ず、死因を特定できないため「病死説」「梅毒治療失敗説」「毒殺説」など様々な説が唱えられています 「毒殺説」だけでも、サリエリ説、ジュスマイヤー説、コンスタンツェ説、フリーメーソン説など数多くの説があります このうち「ジュスマイヤー説」というのは、日本モーツアルト協会会員の小澤純一氏によると、「貴族批判をしたモーツアルトを抹殺するために、ウィーンの貴族社会が 弟子のジュスマイヤーに圧力をかけ毒殺させた」というものです 「ジュスマイヤーは本来サリエリの弟子であったが、このためモーツアルトに近づき その妻コンスタンツェとも深い仲になるが、目的達成後は彼女に冷たくなった    これが本当とすれば、彼女が当初、『レクイエム』の完成を彼に依頼することを躊躇した理由も納得がいくというわけだが、事実はどうであったか。ミステリー小説に近くなる」としています。さて、本当のところはどうだったのか   死の1か月前からモーツアルトの間近で観察すれば真相が判るのではないか、と思ったわけです

また、葬儀は12月6日説と12月7日説がありますが、どちらなのかはっきりしたいし、当時は誰も霊柩車に同行することが許されず、妻コンスタンツェさえも同行しなかったため、墓地のどこに埋められたのかが分からなくなってしまったことを考えると、霊柩車に同行すれば埋葬場所が分かるだろう と考えたわけです

35歳で天に召された天才モーツアルトほど「死の謎」に満ちた作曲家は他にいません

さて、あなたにとって 行ってみたい『あの日 あの場所』はいつどこでしょうか

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