守田です。(20160618 10:30)
今回も川口美砂さんとの対談の続きを掲載します。今回は川口さんが初めて『放射線を浴びたX年後』を観られて、室戸の漁師さんたち、おんちゃんたちへの聴き取りに参加されていったくだりです。
なお『放射線を浴びたX年後』の公式サイトをお知らせしておきます。
http://x311.info/part2/
各地で自主上映が行われていますので、ぜひ以下をチェックして下さい。
http://x311.info/blog/theater/
僕は8月6日、広島への原爆投下から71年目の日に、京都市のひとまち交流館で行われる自主上映会に参加するつもりです。(二度目の観覧です!)
この日は伊東監督のトークもあり、大期待です!!
https://www.facebook.com/events/1887183454842098/
以下、対談の続きです。
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連載第2回
京都「被爆2世3世の会」2016年度年次総会
記念トーク「父の死が放射線のためだと知った時」
川口美砂さん×守田敏也さん
◇『放射線を浴びたX年後』を観に行って
川口
今日はお声かけ下さってどうもありがとうございます。これまで歩んできたことを、約2年の歩みですが、守田さんの質問に応える形でお話しさせていただきたいと思います。
守田さんも先ほどお話しされましたように、この映画『X年後1』の方ですけど、それを観たのがきっかけとなって室戸のおんちゃんたちの聞き取りをすることになったのです。
2013年の8月、お盆休みに室戸に帰っていた時に、妹が「お姉ちゃん、漁師のおんちゃんたちの映画があるけど観に行かん?」って声をかけてくれたのです。
8月18日、その日の最終便で東京に戻る予定でしたが、午後1時からの上映スタートだったので、「間にあうねえ、行こうか」と。内容も知らず、まったく先入観もなく観に行きました。観た後のショックを今でも憶えています。
私は室戸の漁師の子として生まれ育ちました。ビキニのあの大きな事件は、第五福竜丸だけのことだとその時まで思い込んでいたのです。単純に私が勉強不足だったのか、知らされてこなかったのか。
観終わった後に一番感じたのは、この映画を作った監督に会いたいということでした。映像の力を非常に感じましたので。それを最初に思いました。
そして『X年後1』を観られた方はお分かりだと思いますが、同じシーンが『X年後2』にも挿入されていて、監督が愛媛県から高知まで何度も足を運ばれて取材を行なわれました。
でも初めのうち、おんちゃんたちは「今更遅い」と断ったり、時には烈火のごとく怒ってなぐりかからんばかりに追い返そうとしたのですね。監督は「50年前に来い」とか、「お墓の下にまで降りて来い」とか言われているのです。
ずいぶんなご苦労を感じ取ったものですから、これを知ってしまった以上は見過ごすことができないと思い、何かお手伝いがしたいと思ったのです。
私がどういう形で何かできるのか、何の自信もなかったのですが、監督の聞き取りの補佐ならばできるのではないか、室戸市であれば、私は出身者なので、聞き取りすることは可能なのではないかと思ったのです。
マグロ船の漁師さんたちにとって、室戸は一時期はマグロの漁獲高の黄金期を迎えた街でした。その頃の漁師たちが何人かいるのではないかとも思いました。それが聞き取りをするきっかけでした。
守田
映画を最初に観た時にお父さんとの結びつきは考えられなかったですか?
川口
そうですね。父も漁師だったので無関係ではないだろうけど、まさか「被曝」という文字と父と関係があるとはまったく想像しませんでしたね。
守田
最初はお父さんの被曝と結びつけられたわけではなかったのですね。
それで、監督さんに連絡されて、監督さんはどんなふうにおっしゃったのですか?
川口
室戸の上映会の当日は監督は多忙で来ておられなくて、配給会社の方がおられたのでその日はその方と名刺交換だけしました。東京に戻ってから配給会社の方に監督へのアプローチの仕方などお尋ねしました。
ただ監督は非常にお忙しくてなかなか思うようにことが運ばなかったのです。それでもめげずに何度も何度も連絡していたところ、ある日やっと連絡があり、2013年の10月のある日、上京されていた監督と初めて、お会いすることができたのです。
守田
伊東監督は愛媛県にある南海放送という放送局のディレクターでしたね。
川口
初対面は東京。吉祥寺の喫茶店でお話ししました。その時、映画の感想と、私が室戸の出身であること、父が漁師だったことなどを話しました。
監督は非常に誠実で、ぼくとつとした方でした。第一印象はとても良かったです。話しの中で「川口さんのお父さん、漁師さんだったら何という船に乗っていたのですか?」と聞いて下さいました。
父が亡くなったのが36歳の時、私が12歳でした。それまでの6年間ぐらいは、子ども心の中に父の思い出もあるのですが、なにしろ半分以上は家を不在にしている漁師のことですから、あまり父の記憶はなかった。
それでも船の名前だけは憶えていて監督にお話ししました。そうすると2~3日後に、「その船はおそらくこの海域にいたはずですよ」という非常に詳しく丁寧なメールをいただきました。その時に、この監督に協力したいとあらためて強く思ったのです。
◇おんちゃんたちの聞き取りに参加!
守田
それから具体的な聞き取りに参加されていったのですか?
川口
すぐにではないです。私は盆暮れには必ず室戸に帰ります。母がおかげ様で元気でいてくれているので。
また私は広告代理店の仕事をしていて、この10年ぐらい室戸のお仕事もいろいろお声かけしてもらえているので、年に3~4回は帰る機会があったので、映画を観た後に「あの漁師のおんちゃんどこにいるのかな」という気持ちを持っていたのです。
どこに誰それがいるというのは分っていたのですが、実際に監督と一緒に行動するようになったのは2015年の正月からでしたね。
守田
それまである程度、「読み」はつけておいた、ということですかね。
川口
そうですね。
2014年の秋には『放射線を浴びたX年後』の本も出版されたので、出版記念イベントにもお声かけいただいて、そこでまた監督と再会しました。その後も頻繁にはお会いできませんでしたけれど、メールなどでは情報交換していました。
守田
みなさん、是非、今紹介されたこの『放射線を浴びたX年後』(講談社)という本も読んで欲しいのです。僕も読んだのですが、監督の人となりがとてもよく分る本です。すごく素朴な方で、本当に本音しか言わなくて。
本には、取材でいかに落ち込んだのかなどということもいっぱい書いてあります。長い間、この活動にはまったく光が当たらなかったのですね。
テレビで取り上げられたのですが、当初は夜中の放送枠にしか当たらない。また放映しても誰も見てくれてなくてまったく割りに合わないと感じる。だけれどもやめられない。そんな思いで関わり続けたことが書かれています。
こうしたくだりを読んだら、僕も、是非伊東監督に会いたくなりました。そういう本です。それでは実際に川口さんがおんちゃんたちに話を聞きに行った時のことを教えて下さい。
川口
「お手伝いできますよ」とは言ったものの、最初から具体的な特定の方を知っていたわけではなかったのです。
ただ手がかりのようなものはありました。母が昭和9年生まれで、同級生の男の人たちは漁師の方も多く、「お母さん、漁師のおんちゃんたちで、今でも元気な人おらんやろか?」と聞いていったのです。
狭い街なのに交流はあまりなかったのです、それでも「○○さんは元気そうに散歩してたよ」と聞くと、「あ、そう」ということで電話帳を引っ張り出して調べるのです。
そして直接、電話を入れました。私は室戸の子で、しかも父が漁師でしたし、母の同級生の人に「私漁師の子で、これこれで」と語りかけていったのです。
室戸のおんちゃんたちは、マグロ漁の黄金期をしっかりと支えてくれた人たちで、もともと私には、ビキニのことよりも先にマグロ船やマグロ漁のことに強い興味があって、いつか何かの形にしたいとも思っていたのです。
なかなかそれは実現できていなかったのですが、それで初めはそこからアプローチしました。
でもほとんどの人が「昔のことやから分らんぞ」、「来ても知らんぞ」と言うのですね。だけどそこは室戸の者同士ということで、「いやあ、私のお父ちゃん36歳で亡くなってねえ、沖の話よう聞かんかったんよ」というふうに話していくと、「うーん、そうかよう」という感じで、しぶしぶ会うことを了解してくれて、それで実際にお会いして、沖の話をしながら、「昭和29年にえらいおおごとがあったみたいやねぇ」と言うと、ほとんどが、ほぼ全員が、ハッキリとした記憶を持っていました。
「おー、お―、知っちゅう、知っちゅう」。
「わしは焼津で福竜丸見た」。
「魚を命がけで獲ったに、港に行ったら、白いお医者さんのような服着た人が魚を調べに来て、ガーガー音のするやつで調べて、こりゃ汚れちゅう、捨ててこいってやられて」。
魚だけ調べられて、身体は全く調べられんかった人もあれば、頭のてっぺんからつま先まで調べられた人もいました。
「頭をやったらえらいガーガーいうがに、風呂に行って来いと言われた」とかで、お風呂に行ってもう一回帰ってきたら「だいぶ取れたな、そんならOK」という具合だったそうです。つまり除染だったのですね。
魚を沖に捨てに行ったけど油代がもったいないから沖まで行かずに途中で捨てたり、捨てるのもったいないから「これ食べてもどうっちゅうことないぞ」と言って全員で食べたとかいう話も聞きました。
まあ、話がそれぞれの人によって異なるのですけれど、おんちゃんたちの個々の記憶がすぐに出てきました。よっぽど衝撃的に一人ひとりの記憶の中に深く刻み込まれてたのでしょうね。
それまで聞く人はいなかった。家に帰って家族に心配させたくもなかった。それから一番大きい問題は、しゃべってしまうと魚が売れなくなる、売れなくなると困るから「言うな!」と言われたのだそうです。
今でもそうですが、漁師の世界では、船主さん、船頭さんは絶対的な力を持っていて、言いつけを破ったら今度は船に乗せてもらえなくなる。ある種の村八分みたいになります。そういうことがあってみんなしゃべることはありませんでした。
今だからいろんなことを話して下さるけど、当時はそうだったのです。
続く
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守田敏也 MORITA Toshiya
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[著書]『原発からの命の守り方』(海象社)
http://www.kaizosha.co.jp/HTML/DEKaizo58.html
[共著]『内部被曝』(岩波ブックレット)
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-270832-4