守田です。(20150212 23:30)
2月7日、8日と矢ヶ崎さんを大津市の明日都浜大津、京都市の京都大学にお招きして講演会を開催しました。それぞれ約70人、220人が集まってくださいました。どちらも予想を上回る参加者でした。ありがとうございました。
京都大学では日本共産党京都市議の加藤あいさん、ノンべくキッチンホテヴィラの広海ロクローさんにも参加していただき、パネルディスカッションも行いました。なかなか良い対話が実現できたのではと思っています。
さすがに少しく疲れて数日、休ませていただきましたが、講演会を踏まえて内部被曝問題についての捉え返しを深化していきたいと思います。
今回の企画、矢ヶ崎さんの内部被曝に関する把握のポイントを多くの方に知っていただきたくて開催しました。計画したのは昨年12月でしたが、年頭にシャルリ・エブド襲撃事件が起こり、続いて後藤さん、湯川さんの件がクローズアップされました。
この中で僕は現在の中東の混乱を作り出したのはアメリカの湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争であり、アメリカの暴力への批判なしに、中東の「過激派」だけを批判することはできない。アメリカの暴力を黙認し、いわんや加担などしては絶対にならないと訴えてきました。
むしろ今はアメリカの暴力への体系的批判を深めていく必要がある。そのために内部被曝隠しという原爆投下後から続けられてきた暴力と、中東で継続的に振るわれている暴力とが大きくつながっていることを捉え返すべきなのです。
矢ヶ崎さんは、内部被曝問題を「隠された核戦争」と呼んできました。広島、長崎への原爆投下という実際に行われた核戦争、その後の米ソによる核軍拡競争などの冷戦の他に、隠されてきた核戦争があったのでした。被曝隠しと被曝強要でした。
被曝強要とは、一つは大気中核実験で膨大な量の放射能を全世界の人々に浴びせてきたこと、もう一つは原発などの核施設の運転によって放射能がたびたび大気中に放出されてきているにもかかわらず「健康に大した被害はない」からと、原発労働や周辺住民に被曝を強制してきたことです。出発点はウラン鉱の採掘における被曝労働にあります。
この「隠された核戦争」を正当化し、科学的な粉飾をこらして危険性を隠してきた機関こそ、国際放射線防護委員会(ICRP)です。だから私たちは「隠された核戦争」を表に引き出して把握し、真っ当な批判に晒していくためには、ICRPの被曝隠し、被曝強要のカラクリを明らかにすることが求められるのです。矢ヶ崎さんが進めてきたのはこの仕事です。
理解のための分かりやすい入口は、矢ヶ崎さん自身の問題意識の歩みです。というのは矢ヶ崎さんの専門は物理の中でも「物性物理学」というジャンルです。物質の性質を探る学問で超伝導だとか半導体だとか磁性だとかいろいろな分野があります。これらを原子、分子の世界でも観るし、もちろん放射線にも関係します。
その矢ヶ崎さんが内部被曝問題と出会ったのは、ご自身が住まわれている沖縄で、米軍による劣化ウラン弾「誤射」事件が起こった時でした。「誤射」と言いつつ計画的に訓練をしていた可能性が高いのですが、この時、米軍は劣化ウランは「放射能ではなく危険はない」と言い放ちました。これに対して矢ヶ崎さんは「沖縄県民、なめられてはなるものか」と反論に立ちあがりました。
劣化ウランとは、濃縮ウランの反対の言葉です。ウランの中で核分裂するものはウラン235といって、自然界のウランの0.7%しかない。この濃度では核分裂が連続して続く臨界状態を作れないので、ウラン235をかき集めて濃度を高める。これが濃縮ウランで、残りかすが劣化ウランと呼ばれるのですが、非常に硬いので鉄を貫く最強の弾丸になる。しかしそのとき粉じん化するのですが、しっかりと放射線を出すため、金属としての毒性とも相まって、生物に甚大な影響を与えるのです。
物性物理学は物質のさまざまな性質を研究対象としているので、矢ヶ崎さんはウランにも詳しく、米軍の暴論を科学的に論駁する論稿をただちに打ち出せましたが、反論などに備えてさらにこの分野での研究を深めていました。
2003年に原爆認定訴訟という裁判が全国で起ちあがりました。原爆被爆者たちの中で、自分の病気が原爆の放射線によるものと認定されると得られるのが原爆症認定ですが、実は多くの被爆者が認定を受けられずに苦しみ続けていました。
なぜそうなっていたのかというと、原爆投下後に被爆者調査を行ったアメリカ軍や、その後に調査に加わった日本政府が、内部被曝による被害を一切、認めてこなかったからでした。
原爆症認定訴訟は、放射線による害を非常に小さくしか捉えず、様々な病気を原爆のせいとは認めない日本政府に対して、被爆者が、やむにやまれずに立ち上がり、起こした裁判でした。
劣化ウラン弾との格闘によって、内部被曝に関する研究者として知られるようになっていた矢ヶ崎さんは、この裁判の弁護団から依頼が受けることになりました。法廷で内部被曝の被害についての証言をして欲しいという要請でした。
しかし矢ヶ崎さんははじめは断るつもりだったそうです。自分は物性物理を専攻していて、核物理学や病理的なことには不案内だと感じたからでした。
断ることを決意しつつ、問題になっていることを一定踏まえた上で解答しようと思った矢ヶ崎さんは、裁判の焦点の一つとなっていた「放射線線量評価体系」に目を通しました。1986年に出され、英語で"Dosimetry System1986"とタイトルがついていたことから、一般にDS86と呼ばれるものです。
この文章を読んで、矢ヶ崎さんの思いは一変することになりました。読んだ後に腹が立って腹が立って三日三晩も眠れない夜が続いたためでした。矢ヶ崎さんのその後の人生を一変させた文書でもありました。
なぜ眠れなかったのか。DS86が一見科学的な装いをこらしながら、肝心なところでまったく非科学的な手法を用いて、人々を欺いていたからでした。
問題は第6章にありました。いや正確に言うと6章とそれを巻頭にまとめている総括=サマリー部分に重大なずれがあるのです。
DS86では広島、長崎に原爆が投下されて以降の、両市における放射線量に関する分析がなされているのですが、実はアメリカが一斉に測定したのは長崎で48日目、広島で49日目でした。
この間に決定的なことがあった。枕崎台風の到来です。戦後3大台風に数えられるほどの大型台風で広島では洪水がおこり、濁流が市を襲いました。長崎でも広島以上の大雨が降った。そのことで降下した放射能のかなりが海へと流されたのでした。
米軍はこの後に放射線値を一斉に測った。当然にも台風到来以前の推定される放射線量からは段違いに低い値になっていたはずでした。ところがDS86ではこの決定的な問題がはぐらかされてしまったのです。
しかも先にも述べたように第6章の中では、このデータが測定の前に風雨の影響を受けていた強い可能性があることをもしっかりと書き込んでいながら、各章に入る前に設けられている総括では「風雨によってその大部分が流されなかったと仮定すれば」と書き込まれ、データは風雨の影響を受けていなかったという仮定を採用してしまったのでした。
矢ヶ崎さんがショックを受けたのは、きちんと読めば、一般科学の素養のあるものなら誰でも分かるような嘘が決定的なところで使われていたことでした。科学とは言えないとんでもない嘘でした。
しかもそんな他愛もない嘘が2000年代まで、つまり戦後60年近くも通用してきてしまっていたのでした。そのことに信じられないほどのショックを受けたと言います。
同時に矢ヶ崎さんを襲ったのは、どうしてもっと早くにこの問題に関わらなかったのかと言う強い自責の念でした。矢ヶ崎さんはこの問題は自分の専門の範疇を越えると考えていた。
ところが被爆者を苦しめていたのはもっと単純な大嘘なのでした。矢ヶ崎さんがもっと早く関わり、DS86を読んでいればすぐにも指摘できた内容でした。矢ヶ崎さんはそれまで関わることのできてこなかった己に怒り、三日三晩を眠れずに過ごしたのでした・・・。
このDS86の「総括」の記述者であるDS86慣習顧問者は、国際放射線防護委員会(ICRP)の1983-1993年委員会のメンバーであり、放射線影響研究所長も務めた「科学者」でした。
実際、DS86第6章でも線量評価は、内部被曝を無視すしたICRPが繰り返し発表してきた「勧告」に依拠して行われていました。
かくして矢ヶ崎さんのICRP体系への批判が開始されました・・・。
続く