明日に向けて

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明日に向けて(1042)ICRPの歴史を再度捉えなおす-上(矢ヶ崎さんのICRP批判のポイント-2)

2015年02月19日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150219 23:30)

ICRP(国際放射線防護委員会)批判の続きです。
この組織が歴史的にどういう経緯を辿って作られたのかについてが前提になりますが、これについては昨年11月から12月にかけて連載を行いました。『放射線被曝の歴史』(中川保雄 1991 明石書店)に全面的に依拠したものです。
これらを参照していただいて話を前に進めたいところですが、それでは大変、不親切になりますので、今回はこの7回に渡る連載のダイジェストを記しておこうと思います。2回でまとめてみます。
なぜこのような手順を踏むのかと言うと、僕は矢ヶ崎さんのICRPの線量体系批判を、中川さんのICRPの歴史的批判を継承し、より深化させたものと考えているからです。歴史編が中川さん、論理編が矢ヶ崎さんの仕事と言っても良いと思います。

まず全体を貫いているポイントとしておさえるべき点は、ICRPの放射線線量評価体系はアメリカの被ばく調査に基づいているということです。もともと加害者による被害調査と言うもともと大きな歪みの上に作られた体系なのです。
アメリカは原爆投下という戦争犯罪を行ったのちに日本を占領し、広島・長崎に赴いて被爆者調査を排他的独占的に行ったのでした。原爆のデータを独占しつつ、できるだけ被害を小さくみせるためにでした。
情けないことに、私たちの同胞を原爆投下後に二重三重に踏みつけるこの調査に、日本政府は全面的に協力しました。自らのアジアでの戦争犯罪を訴追されないことが強い動機となっていました。
今でもアメリカも日本政府も、この調査内容を踏襲しています。それが今も私たちや世界中のヒバクシャを苦しめている放射線被害過小評価の元凶なのです。

ICRPはもともと1928年にアメリカで成立した組織が国際化した「国際X線およびラジウム防護委員会」を継承して1950年に結成された組織です。
当初は放射線はある線量以下であれば生物に影響を及ぼすことはないと考え、安全な値を「耐容線量」と捉えて、1931年に最初の値を決定しましたが、その後1940年に「耐容線量」を大幅に引き下げました。遺伝学者たちからの強い批判があったからでした。
しかし第二次世界大戦中に活動が停滞。同時にアメリカで原爆開発が進められ、1945年広島・長崎に原爆が投下されたことにより「放射線防護」の持つ意味が大きく変化しました。
核武装を強力に推し進めていたアメリカ政府は、マンハッタン計画=原爆製造の代表を加えて「アメリカX線およびラジウム防護委員会」を「全米放射線防護委員会(NCRP)」に改組しました。

アメリカは第二次世界大戦後にマンハッタン計画に参加していたイギリスやカナダと三国協議を進めてあらたな方向性への合意を取り付け、NCRPの主導のもとさらにフランス、スウェーデン、西ドイツを加えて「国際X線およびラジウム防護委員会」を「国際放射線防護委員会(ICRP)」に改組しました。
全米放射線防護委員会(NCRP)はさらに「耐容線量」という考え方を大きく転換し「許容線量」という考え方を導入し、国際放射線防護委員会(ICRP)に追認させていきます。
確かに放射線は危険なものでなにがしかのリスクを生むが、かといって放射線を用いる重要な業務を著しく困難にすることは不利益である。このためリスクを十分に低くすることをめざすとされました。
この際、NCRPもICRPも放射線に極端に弱い人々も存在していることを十分に認識しつつも、「平均的人間」を防護の対象とすることで、これらの人々をあらかじめ切り捨ててしまいました。

しかし設立当初のICRPはアメリカのNCRPに一定の抵抗を示し「1950年勧告」では「被曝を可能な最低レベルまで引き下げるあらゆる努力を払うべきである」と述べていました。
当時のICRPの立場に大きな影響を与えたのは、広島・長崎の惨劇を目にして心を痛めた世界中の人々の声でした。これに放射線による遺伝的影響を強く懸念する科学者たちの声が重なっていました。
とくに1950年に朝鮮戦争がはじまり、アメリカのトルーマン大統領が原爆投下の可能性を示唆したことに対し、世界中で核兵器の禁止を求める「ストックホルム=アピール署名運動」が高揚し、全世界で5億人もの署名が集まりました。
「被曝を最低レベルにせよ」という文言は、広島・長崎の痛みをシェアしつつ、遺伝的障がいから命を守ろうとする世界の人々の願いがこもった言葉だったのです。

これに対してアメリカの広島・長崎での放射線障がいや遺伝的影響の調査の中心を担ったのは原爆傷害調査委員会(ABCC)でした。1946年11月26日にトルーマン大統領が全米科学アカデミー・学術会議に設置を指令し、翌年1月に設置されたとされる機関でした。
あたかも学術的な団体であるかのようなカモフラージュがなされましたが、実態は戦後直後に原爆の人体への殺傷力を調査したアメリカ陸軍および海軍の各軍医総監が、原爆製造計画段階から密接な関係にあった全米科学アカデミー・学術会議に要請して作った組織でした。
この組織は主に原爆の殺傷力の調査を行いました。目的は原爆の殺傷力を知ることで今後の核戦略の基礎データとすること。モスクワを攻撃するには何発の原爆が必要なのかなどを編み出すこと。同時に原爆を受けたときに兵士たちがどれだけ生き残り、反撃できるかを調べることした。
当初、これに最大の協力をしたのはなんと日本陸軍でした。敗戦が決定的になるや陸軍は中国大陸での731部隊による人体実験をはじめ、数々の戦争犯罪がアメリカに訴追されることを避けるため、原爆の被害調査を行い、自ら英訳し、占領軍が到来するや否や差し出したのでした。

ABCCは遺伝的影響の調査として7万人の妊娠例を追跡調査し、遺伝的影響として次の5項目を調べたことを発表しました。
(1)致死、突然変異による流産、(2)新生児死亡、(3)低体重児の増加、(4)異常や奇形の増加、(5)性比の増加(もし影響があるなら母親が被ばくした場合には男子数が減少し、父親が被ばくした場合には男子数が増加する)。
調査は1948年から1953年にかけて行われましたが(5)をのぞいては統計的に有意な事実は確認されず、その(5)も1954年から58年の再調査でやはり有意であるとは確認されませんでした。
しかし当のABCCの中でもこの調査では有意な値は出ないのではないかと疑問視されたものでしかありませんでした。調査人口があまりに少なかったからです。このため調査結果は「遺伝的影響があるともないとも言えない」というものでしたがABCCは「遺伝的影響はなかった」と大々的に宣伝しました。

一方でオークリッジ国立研究所では動物実験が行われていました。マウスを使った実験で高線量で遺伝的影響が現れることが確認されるとともに、自然状態での突然変異の発生率の倍になる被曝線量=倍化線量が探られました。
得られた値は30~80レム(300~800ミリシーベルト)でした。このためアメリカの遺伝学者の多くは、80レム(800ミリシーベルト)を倍化線量の上限値と捉えるようになりました。
これらから人体における遺伝的影響は確認されないとされたものの、動物においては明確に倍化線量があることを踏まえた上で、では公衆の被曝量限度をどの値に設定するのかということが論議されていくようになりました。
こうした論争を反映して1954年のICRP勧告では、許容線量について次のように声明されることとなりました。許容線量とは『自然のレベルよりも上のあらゆる放射線被曝は絶対的に安全とみなすことはできないが、無視しうるリスクをともなう』線量だとしたのです。

1950年代にICRPを取り巻く環境は大きく変わ利始めました。一つはイギリス・フランスなどが遅れて核保有国となったこと。また各国で原子力発電が開始され、ICRPがリスク受忍論により傾斜して行ったことです。
もう一つは核実験がより頻繁に行われる中で、ビキニ環礁での周辺住民の深刻な被曝が起こり、日本でも第五福竜丸などが被曝するに及んで、放射線被曝の危険性への国際的な関心が高まったことも大きな背景としてありました。
この中で核戦争体制を維持し、さらに原発を広げていくことが目指されたため、新たな「科学的な粉飾」を施した「放射線防護学」が求められました。
これらを背景としつつ、ICRPは1950年代から60年代に、勧告を塗り替えるたびに大きな変貌を遂げて行きました。

原子力発電に世界で最初に踏み切ったのは旧ソ連でした。1954年のことです。原子力部門で断然他国を引き離していると思っていたアメリカは大きなショックを受けました。
このためアメリカは急速に国内体制を転換し、商業用の原発技術の開発を目指していきます。重視されたのは長期運転を可能にするシステム作りで、コストを削減するための安全面の配慮の後景化が始まりました。
一方でビキニ環礁で深刻な被曝が起こりました。アメリカは広島原発の威力を1000倍も上回る「ブラボーショット」などの核実験を繰り返し、マーシャル諸島住民や周辺にいた漁船多数に深刻な被曝をもたらしたのでした。
これに対して杉並の母親たちによって原水爆実験禁止を求める署名運動がはじまり、瞬く間に全国に拡大して原水爆禁止署名運動全国協議会が誕生、短期間で2000万人もの署名が集まりました。

これを受けて翌1955年に原水爆禁止世界大会が初めて広島で行われました。初めての被爆者の独自の叫びでした。またアメリカ自身の内側でも、ネバダ砂漠で行われた核実験で被曝が多発し、ニューヨークの水道水で放射能汚染が確認されたことなどから核実験反対の声が上がり始めました。
これらの運動はいずれの放射線被曝による遺伝的影響への不安をバックボーンとしていました。
放射線被曝がこのように大きな社会的問題になると、必ず学術界が第三者のような顔をして登場してくるのですが、その最初の例が、アメリカの「原子放射線の生物学的影響に関する委員会」でした。通称をベアー(BEAR)委員会といいます。
委員会を財政的にバックアップしたのは、マンハッタン計画のときから原子力産業に参画してきたロックフェラー財団でした。この財団がアメリカ政府や軍関係者が表立つことよりも学術界が矢面に立つ方が良いと判断し、多額の資金を投入しました。

BEAR委員会の報告は早くも1956年6月に発表されました。焦点はやはり遺伝学的影響についてでした。委員会は、遺伝学見地からは放射線の利用は可能な限り低くすべきであるが、放射線被曝を減少させることは、世界のおけるアメリカの地位をひどく弱めるかもしれないので、合理的な被曝はやむをえないとする立場を打ち出しました。
このもとに遺伝的影響を倍加する線量は50から1500ミリシーベルトの間にあり、動物実験では300から800ミリシーベルトの間にありそうだとまずは断定。
合理的な線量として労働者の場合は30歳までに生殖器に500ミリシーベルト以下、40歳までにさらに500ミリシーベルト以下に、公衆の場合は30歳までに生殖器に100ミリシーベルト以下とするようにという勧告がなされました。
これがICRPに持ち込まれ、BEAR報告を加工したNCRPの1956年勧告がそのまま適用され、ICRP1958年勧告が出されることとなりました。

このときICRPはリスク・ベネフィット論を受け入れ「原子力の実際上の応用を拡大することから生じると思われる利益を考えると、容認され正当化されてよい」と述べられ、放射線防護が緩和されていくようになりました。
1950年勧告では「可能な最低レベルまで(to the lowest possible level)」とされていたのが、1958年勧告では「実行可能な限り低く(as low as practicable:ALAP)」と緩められてしまいまいた。
アメリカはこの動きをさらに促進し、この時期に生まれた二つの国際組織への関与を深めて行きます。その一つが「原子力の平和利用」の名の下の原子力発電の推進の中で1955年におこなわれた「原子力平和利用会議」を継承した「国際原子力機関(IAEA)」でした。
一方で核実験に対する批判の高まりの中で国連の中に生まれたのが「原子放射線の影響に関する科学委員会(UNSCER)」でした。「科学」の名が冠されているものの、実際には参加国の代表によって構成されました。

UNSCERは拡大版ICRPとも言えるもので、アメリカ、イギリス、カナダ、スウェーデン、フランス、オーストラリア、ベルギー、日本、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、インド、エジプト、ソ連、チェコスロヴァキアの15か国が参加しました。
ソ連や社会主義国、第三世界が参加したことに特徴があり、当初、核実験の降下物への評価が真っ二つに割れました。ソ連とチェコスロヴァキアは核実験反対を表明、これに対してアメリカ、イギリスが共同戦線を張りました。
このとき被爆国として参加した日本はアメリカに追従し、なんと核実験即時停止に反対しました。
こうして世界の「放射線防護」のための機関は、その実、核兵器と原子力発電の推進派に牛耳られるようになってしまいました。

しかしこのアメリカの動きを大きく阻むものがありました。世界中でより一層、高まっていった核実験反対運動でした。
アメリカはBAER委員会などにより国際委員会を籠絡していったものの、世界の民衆の声を封じ込めることはできなかったのです。
この動きをみたソ連が1958年1月に一方的に核実験停止を宣言。追い込まれたアメリカのアイゼンハワー政権は翌1959年に核実験を一時停止すると声明しました。民衆の力が国際機関など跳ね除けて、核実験の停止をアメリカに約束させたのでした。
しかしこのためにアメリカは1958年に停止前の駆け込み実験を多数強行。その数は1950年代前半の数倍にものぼりました。このため1959年にはアメリカ全土での死の灰の降下が急増しました。各地でストロンチウム90の濃度が上がっていることが確認されました。

世界を覆うこの核実験反対の声に対しアメリカはさらにリスク・ベネフィット論を進化することで対応をはかり、NCRPに1959年勧告を出させました。
さらにこれらの総仕上げとして出されたのがICRP1965年勧告でした。勧告には「経済的および社会的な考慮を計算に入れたうえ、すべての線量を容易に達成できる限り低く保つべきである(as low as readily achievable:ALARA)」という文言が入りました。
ようするにアメリカの主導のもとにICRPは医学的、科学的に安全論を争っていてはもはや勝てないと判断し、「経済的および社会的な考慮」を持ち込むことで政治的に押し切る方向性に大きく舵を切ったのでした。
こうして世界の放射線学に、本来、放射線という科学的物質とはまったく関係のない政治・経済的要因が持ち込まれ、その上でいかなる放射線量を許容すべきなのかと言う考察が重ねられていくこととなったのでした。言い換えれば1964年にICRPは最後的に科学から遊離していったのでした。

続く

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