トンネルの向こう側

暗いトンネルを彷徨い続けた結婚生活に終止符を打って8年。自由人兄ちゃんと天真爛漫あーちゃんとの暮らしを綴る日記

母の反撃

2006-11-08 16:36:11 | 思い出
「明日こそ出て行こう。明日こそ別れよう。そう思っているうちに此処まで来てしまったねぇ」としみじみと母が言った

私が小さい頃の母はとにかく耐えて、耐えての人だった
毎日朝の4時には起きて、洗濯、掃除、子供の夕飯の用意もしていた
そして母はパートで朝から夕方6時まで働きその後店を8時まで手伝って
買い物を済ませて帰ってくる

帰るとすぐ父と祖母の夕飯の支度に取り掛かる
父と祖母はゆっくりと座って待っているだけだった
祖母は同居した時まだ60になったばかりだったけれど、家事一切しない人だった

包丁を握るのも洗濯機を回すのも掃除機を触るのも嫌だと言った
孫は見ていてあげる
ご飯も用意してあれば食べさせてあげる
でも家事は一切しないと宣言したそうな

母は子供を見ていてもらえるだけでもありがたいと毎日
祖母の昼ごはんも欠かさず用意して出かけた

母は夕飯も立って食べるほど忙しそうだった
ようやく座る頃には父はゆっくりを酒を飲み、祖母と話をしていた
それを母は聞いていなければいけなかった

自分だけ疲れたから「お先に休みます」とはいかなかった
父は夜中の12時まで夕飯を食べる人だった
母はじっとその食事が終わるのを待っていた

そして1時にようやく父が寝ると母も寝られるのだった

毎日の睡眠時間は4時間あれば良いほうだった
いつも目が窪んで、歩きながら寝てしまうので転んでいつも捻挫していた

怪我をすると祖母と父は「ボーっとしているからだ。馬鹿な奴だ」と馬鹿にした
母はいつも顔を背けて泣いていた

いつもストレスが溜まっていて頭が痛い。頭が痛いと言ってはトイレで吐いていた
私は母の泣き声を聞きながら「ゲーゲー」吐く痩せた背中をいつもさすっていた
母は「もう駄目だ。いつか私は死ぬんだ。この家に殺されるんだ」と言っては
泣いた

一度だけ母に「父さんと別れたらどっちに着いて行く?」と聞かれた事があった
私にとっては母の存在はあまりに遠く、祖母を母と思っていた頃だったので
「この家に残りたい」と言った

姉は物心ついた時から母のグチの受け止め役となっていたので当然
「絶対にこの家には残らない。母さんについて行く」と言った

弟は跡取りと言われていたので母は置いていくつもりだったらしい

母は兄弟が別れ別れは可哀想だと言ってその話は2度とされる事はなかった

高校生になったある日の事、いつもより早く目が覚めた。
なんだか家の様子がおかしい

階下に降りて行くと祖母が居間に座ってぼんやりしていた
「どうしたの?お母さんは?」と聞くと

「お母さんは夜中に具合が悪くなって、救急車で病院に行ったんだよ。
父さんとお姉ちゃんが着いて行ったよ」と言った

母は腎臓結石になって入院した
見舞いに行くと母はまた泣いていた
「どうしたの?」と聞くと

「父さんが町内会の旅行に行くんだって。私が入院したって言うのに旅行に行くなんて。いつもは行かないのに私が入院したら行くって言い出したんだ。
家の事をする人がいないから早く退院しろとでも言うのかね
私はこのままじゃ死んでしまう」

病院に母の兄嫁が見舞いにやってきた
母の義理姉は気さくでなんでもはっきり言う人だった
母の顔を見るなり叔母さんは

「あんたも馬鹿だね!こんなになるまで我慢して良い嫁になる事なんかないんだよ
どんなにやってもあんたのした事が認められたかい?
やれる分だけやれば良いのさ。
自分を大事にしないでなんで家族を大事にできるんだい?
本当にあんたは馬鹿だよ。人の目とか常識に縛られ過ぎなんだよ」と言った

母はこの言葉で目が覚めたという
自分がいくらやっても認められる事はないんだ
自分を削ってやるくらいならやらない方がまし。

馬鹿馬鹿しい。

この日を境に母の反撃が始まった
それは母が生まれ変わった瞬間だったかもしれない
(つづく)

今日も聞いてくれてありがとう