2022年7月31日、東京での説教 — 聖霊降臨後第8主日 — ロヨラの聖イグナチオ
レネ神父さま
親愛なる兄弟のみなさん、
今日は、典礼上では、聖霊降臨後の主日が優先しますが、ロヨラの聖イグナチオの祝日でもあります。日本のカトリック教徒はみな、聖イグナチオに感謝しなければなりません。それは、親しい友人であった聖フランシスコ・ザベリオを日本に送ったのは、聖イグナチオだったからです。
ところで、聖イグナチオは、キリスト教世界が、ルターの反乱によって、激しい騒乱(そうらん)に陥(おちい)っていた時代に生きました。聖イグナチオは、青年時代、自らの地上の王の、地上の栄光を追い求めましたが、その後、回心して、真(まこと)のキリスト教徒として生き、自らの天の王である、私たちの主イエズス・キリストに仕(つか)えるために、進んで、自らを捧(ささ)げたのです。
聖イグナチオによる傑作が、「聖イグナチオの霊操(れいそう)」という本です。これは、聖イグナチオが、スペインのバルセロナに近い、マンレサという町で黙想をしているときに、聖母マリアから授(さず)けられたものだと言われます。聖フランシスコ・ザベリオは、この「霊操」を行った後(のち)、人が変わったように、熱心な生活を始めたのです。聖フランシスコ・ザベリオは、日本での最初の改宗者たちに、この「霊操」を教えたに違いありません。それが大きな実(みの)りをもたらし、後(のち)に日本のキリスト教徒たちが殉教し、また、二百年以上にわたって、司祭もなしに、信仰を守り続けるための、備(そな)えとなったのです。みなさんの中には、すでに「霊操」を行なったことのある人もいらっしゃるでしょう。みなさん全員に、この「霊操」を、一度だけではなく何度でも、行うお恵みがあることを、望んでいます。
「聖イグナチオの霊操」は、霊的な体操です。実際、多くの方は、肉体的な体操をすることに慣れていらっしゃるでしょう。そのような方は、毎日、相当の時間をかけて、自分の肉体を訓練するのです。しかし、それと同様の時間をかけて、自分の魂や、霊的生活を訓練する方は、どれほど少ないことでしょうか?私たちの精神は、当然、私たちの体より、大事なものです。しかし、ほとんどの人は、自分の精神や魂のことよりも、自分の体のことを、ずっと気にします。ほとんどの人は、自分の人生の目標を、自分の体、欲望、美しさ、権力を満たすことに置いてしまうので、それが、あらゆる放埒(ほうらつ)な生活、酩酊(めいてい)、不道徳、果(は)てには、自然に反する行為にまで繋(つな)がるのです。そして、その人たちの魂は、空虚(くうきょ)なままとなり、いやむしろ、悪意、自己嫌悪(じこけんお)、罪の自覚、良心の咎(とが)め、また言い換えれば、聖パウロが言う、「審判のおそるべき待期(たいき)と、反逆者をやきつくす復讐(ふくしゅう)の火」(ヘブライ人への書簡、第10章27節)に、満ちることとなるのです。そのような人たちは、罪人(つみびと)としての良心のゆえに、心に平安がありません。多くの人たちが沈黙に耐えられず、いつも(現代の音楽の)騒(さわ)がしい音を聞いている理由のひとつは、これです。なぜなら、沈黙の中では、自分の良心の咎(とが)めが、聞こえてしまうからです。
聖トマス・アクィナスは、こう言います。「ものごとに秩序を与えるのは、知恵、知恵を持った人である。」とりわけ、私たちの生活では、それが当てはまります。ですから、体と魂でできた人間の正しい秩序とは、魂が、体をコントロールし、体を支配して、私たちの活動の全てを、人生の究極(きゅうきょく)の目的へと向かわせることです。この人生の究極の目的とは、霊的な善、つまり、私たちの魂を幸福で満たすこと以外の、何ものでもありません。肉体的な善は過(す)ぎ去るもので、私たちの精神的な魂を満足させることは、決してできないのです。また、精神は無限へと開かれていますから、それを満足させられるのは、無限の善、つまり、天主御自身なのです。私たちの主は、自分の物質的な富を愛しすぎていた若者に、こう言われました。「天主御一人(ごいちにん)のほか、よいものはない。」(ルカによる福音、第18章19節)つまり、天主と比べれば、どんなものも、本当によい、と呼ばれるには値(あたい)しない、ということです。
そこで、「聖イグナチオの霊操」は、私たちの究極の目的を考察することから始まり、万難(ばんなん)を排(はい)して、力強く、善を追い求める私たちの意志を、強めようとするのです。それは、ダヴィドが、またあわせて聖ペトロが、このように言う通りです。「命を愛して幸(しあわ)せな日をおくろうとする者は、舌を悪から、唇(くちびる)をいつわりから守れ。悪から遠ざかって善をおこない、平和を求め追(お)え。」(詩編第33編13-15節、ペトロの第一の書簡第3章10-11節)もし、私たちが永遠の命に至(いた)りたいならば、まず、「悪から遠ざか(る)」ことが必要です。そして、これが、「聖イグナチオの霊操」の第一週の目的です。その霊操では、後(のち)に本当に地獄の火を通るのを避けるために、黙想の中で、今、地獄の火を通って、自分の魂を、しっかりと、徹底的に清(きよ)めるのです。天主は、悪が勝つままには、されないからです。もし、天主に正義がなく、悪を罰することなく見逃されるとすれば、天主は、無限に善(よ)いお方ではないことになってしまいます。
さて、私たち人間の経験からすれば、完全な正義は、この世で実現しないのは明らかですから、それは、次の世で行われなければなりません。「生きる天主の御手(みて)におちるのは、おそろしいことである。」(ヘブライ人への書簡第10章31節)詩編では、こう歌われています。「だれが、あなたのおん怒(いか)りの力を、あなたのおん憤(いきどお)りのおそれを、知っていようか?」(詩編第89編11-12節)主を恐(おそ)れることが、知恵の始まりです。霊的生活のはじめには、みずから進んでおこなう罪の償(つぐな)いと、自分の心の真(まこと)の回心によって、固い決意をもって罪から離れる、という修徳(しゅうとく)生活が必要です。
悪から離れた後には、善を行う、つまり本質的には、私たちの主イエズス・キリストに従う、必要があります。イエズス・キリストこそが、あらゆる徳の完璧(かんぺき)な模範です。イエズス・キリストこそが、天国への道です。「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人(ひとり)、父のみもとにはいけない。」(ヨハネによる福音第4章6節)そして、この「道」には、3つの段階があり、それは、ロザリオの玄義の3環(かん)、つまり、喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義に要約されているのです。この3環の玄義が、聖イグナチオの霊操の、それぞれ、第2週、第3週、第4週に対応しています。
第一の段階は、私たちの主イエズス・キリストに倣(なら)った、徳の実践です。そこで、霊操の第2週に行うことは、次のことです。それは、聖母と諸聖人と共に、イエズスの聖心(みこころ)と、主が私たちに求めていらっしゃることを深く知るように努(つと)め、主の聖なる御意志を実現するために完全に我(わ)が身をお捧げし、主に対して、私たちの主、私たちの王としてお仕(つか)えし、王たるキリストの呼びかけに進んで答え、主の謙遜(けんそん)、柔和(にゅうわ)、親切、愛徳、忍耐、その他、主の全ての聖徳(せいとく)に倣(なら)うことです。
第二の段階は、私たちの主のこの地上における究極の使命であった、主イエズス・キリストの犠牲に参加することです。主は、ご自分の犠牲によって、私たちを救ってくださいました。ですから、「霊おんみずから、私たちの霊とともに、私たちが天主の子であることを証明してくださる。私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、天主の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。」(ローマ人への書簡第8章16-17節)キリスト的生活は、必ず犠牲の試練を通過し、火の中を通って、金(きん)のごとく、清められねばなりません。これが、聖イグナチオの霊操の第3週にあたります。十字架に付けられたイエズスとのこの一致こそが、聖性であり、この地上でのキリスト的生活の、究極の目的です。
そして第三の段階は、天国における最終の実(み)、犠牲の実(み)についてで、それは、私たちの主イエズス・キリストのご復活と栄光、そして、主と共に、私たちが復活し、栄光を受けることです。「もし(最後まで)たえ忍(しの)ぶなら、私たちもかれとともにその王国をつかさどる。」(ティモテオへの第二の書簡第2章12節)この栄えの玄義を黙想すると、この地上でのキリスト的生活のあらゆる努力は、本当に意義あるもので、その努力によって、私たちが栄光の冠(かんむり)を受けることができる、ということを、私たちは理解することができるのです。「今の時(とき)の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ人への書簡第8章18節)「実(じつ)に、私たちが受ける短く軽い艱難(かんなん)は、はかりがたいほど大きな永遠の光栄を準備する。」(コリント人への第2の書簡第4章17節)この霊操は、天主からの愛を受けることについての、崇高(すうこう)な考察をもって、終わります。
さて、聖イグナチオは、この霊操を4週間、つまり、まるまる一か月をかけて行うことを想定していました。しかし、現代世界では、まるまる一か月休みをとってこれを行える人は、ほとんどいません。そこで、スペインのイエズス会士であったフランソワ・ヴァレ神父が、これを五日間分に要約して、1936年のスペイン戦争の前に、数千人のスペイン人に配布しました。これが、後(のち)に、共産主義者たちの手によって本当に殉教した数多くの人たちの魂の備(そな)えとなったのでした。
その戦争が終わった後(のち)、ヴァレ神父はフランスを訪れ、この霊操を教えることに身を捧げる司祭たちのグループに遭遇(そうぐう)しました。後(のち)に、そのうちの一人であるリュドヴィック・バリエル神父が、1970年代前半にエコンを訪れ、聖ピオ十世会の司祭たちに、この霊操を教える指導を行いました。私自身、1978年に、バリエル神父と一緒に、30日間の黙想を行ったことを、思い出します。
さて、今この霊操の全部を、5分間で要約しようとしましたが、当然、これでは不十分です。小野田神父が、五日間の聖イグナチオの霊操を計画され次第、みなさんがその機会を捕(とら)えられることを、お勧(すす)めします。名古屋近辺に、安価(あんか)で、良い黙想会場を見つけることができたので、小野田神父は、このような黙想会を準備しようとされています。その黙想会の週には、是非、お休みを取って、参加なさってください。
まず最初に、聖イグナチオにこの霊操を準備する霊感をお与えになった聖母マリアが、みなさん全てがこの霊操からたくさんのお恵みを受け、また、たくさんの友人たちを誘い、みなさん全員が、「悪から遠ざかって善をおこない」、私たちの主イエズス・キリストに付き従って、天国にまで至(いた)れるよう、助けてくださいますように!アーメン。