Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

洗者聖ヨハネの誕生日の祝日:「多くの人はその子の誕生を喜ぶだろう。その子は主のみ前に偉大な人であり、ぶどう酒と酔う物とをのまない。母の胎内から聖霊にみたされる。」

2022年08月02日 | お説教・霊的講話

2022年6月25日(土)洗者聖ヨハネの誕生のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

6月24日が本来の洗者聖ヨハネの祝日、聖ヨハネの誕生日の祝日です。しかし今年はちょうどその日は、イエズス様の聖心の大祝日になったので、洗者聖ヨハネはその場所をイエズス様の聖心に譲って、今日25日に、洗者聖ヨハネの祝日、誕生日を祝っています。

皆様もご存知の通り、公教会で誕生日を祝う聖人は三人だけです。皆、罪が無い御方として生まれてきた方です。イエズス様、マリア様、そして洗者聖ヨハネです。その他の聖人たちは、どれほど聖なる方であっても、亡くなった、天に生まれた日をお祝いします。

⑴洗者聖ヨハネは、では一体どのように生まれてきたのでしょうか?
⑵では今日のその誕生日に、洗者聖ヨハネは私たちに何を教えているでしょうか?
この二つを簡単に黙想しましょう。

⑴すでに時は満ちていました。救世主が、約束されたメシアが生まれる日が来ていました。
その時に、ザカリア、レビ族の司祭、アーロンの子孫、そしてザカリアは非常に高貴な生まれで、神殿で勤めを奉仕していました。その妻はエリザベト(エリザベトもアーロンの子孫でした)、両者とも非常に聖なる方々で、敬虔で、天主の前の道をまっすぐ歩み、一つも掟を軽んじたり、祈りを軽んじたりすることがない方でした。愛徳も積んでいる方ですが、しかしエリザベトには、年を取ったにも関わらず、子供がありませんでした。女性にとって子供がいないということは、メシアの母となることができないということで、大きな恥辱でした。

こうやって年を取って老年となったザカリアは、その日、慣例どおり籤をひき、神殿に行って香を焚いて、祈りを捧げることになっていました。ザカリアが神殿でお祈りをしていると、突然、大天使聖ガブリエルが現れました。ザカリアはそれを見てうろたえおそれます。天使は「おそれるな、ザカリア、お前の妻エリザベトは子を産むであろうから、その子にヨハネという名前を付けよ。あなたはよろこび、楽しみ、多くの人は、その子の誕生を喜ぶだろう。その子は、主のみ前に偉大な人であり、ぶどう酒と酔う物とをのまない。母の胎内から聖霊にみたされ、イスラエルの多くの子らを、天主なる主に立ちかえらせ、エリアの精神と力とをもって主に先だつ人である。」
ザカリアは信じようとしませんでした。主から送られて下さった天使に反論します。
「どういうことから、私はそれを知ることができましょうか?一体、何でそんなことが起こるのでしょうか。妻はもう年を取って、もう子供を産むことはできません。」あたかも、冗談はおよし下さい、とでも言いたかったかのようです。

大天使はザカリアに「私は、天主の御前に立つ大天使ガブリエルである。私は主からのメッセージをお前に告げに来たのに、お前は信じなかったから、口がきけなくなるだろう」と言って、姿を消します。ザカリアはそれ以後、口をきくことができませんでした。神殿から戻ってみると、口がきけなくなってしまったザカリアを見て、皆が驚きました。「一体、何があったのだろうか!?かれは聖所の中でまぼろしを見たのだろう。」

すると、ちょうどそのころに、ザカリアの妻エリザベトは身ごもります。そしてその身ごもった後にエリザベトは月みちて今日、男の子を生みます。今日、洗者聖ヨハネが生まれるのです。

この誕生から3か月前、洗者聖ヨハネが、聖エリザベトの胎内にいた時に、何があったかというと、実は大天使聖ガブリエルが、ザカリアにお告げを告げた六ヶ月の後に、マリア様に現れて、マリア様にもお告げをしていました。マリア様には、子供を産むことだろう、救い主が産まれる、救い主の母になるということを言いました。マリア様はそれを聞いた時に、「一体、男を知らないのに何故そのようなことが可能であるか?」ということを聞くと、すると大天使ガブリエルは、聖霊の力によって、それが可能になる。エリザベトも子供を身ごもった。主の御言葉には不可能なことがないと断言します。そしてその時にマリア様は、「はい」と答えると同時に、聖エリザベトの元に駆けつけて、そして老婦の聖エリザベトのお世話をします。

マリア様が聖エリザベトを訪問した、挨拶の言葉をした時に、胎内にいた私たちの主は、エリザベトの胎内にいた洗者聖ヨハネの原罪を赦して、そして聖寵に洗者聖ヨハネを満たしたのでした。これは皆さんもよくご存知の通りです。ですから、洗者聖ヨハネがお生まれになった時には、罪無くお生まれになりました。

ところでユダヤでは、自分の祖先の名前を子供に付けるという習慣がありました。ですから例えば、ザカリアの子供はやはりザカリアであったり、あるいは祖先の名前を取ります。聖エリザベトはある日、その洗者聖ヨハネに「何という名前を付けるか?」生まれてから八日後、名前を聞かれると、「ヨハネという名前です」と答えました。実はユダヤの習慣によれば、父親が子供の名前をどうしても言わなければなりません。しかしザカリアは口をきく事ができなかったので、その代わりにエリザベトが答えました。

皆は驚いて、「あなたの家族にヨハネという名前はいないじゃないですか?一体なぜ?」
するとザカリアはその時に、聞かれた時に、「この子の名前はヨハネだ」と書いて、そしてその時に、口のもつれが解けて、話せるようになりました。


⑵では第二に、お生まれになった後に、一体この洗者聖ヨハネはどのような生活をしたのでしょうか?

非常に幼い時から、苦業の生活をしました。全く罪が無くて生まれたにも関わらず、一生涯を荒れ野で、祈りと断食と犠牲の生活をしました。ラクダの衣を着て、イナゴを食べて密を食べて、厳しい生活をしました。

では、私たちに洗者聖ヨハネは何を教えているでしょうか?

洗者ヨハネは私たちに、イエズス・キリストから罪を赦された私たちは、そのイエズス様に感謝する為に、主に感謝する為に、主の道を歩まなければならない、罪のない生活を送らなければならない、そしてその為に祈りと犠牲を捧げなければならないことを教えています。

マリア様にお祈り致しましょう。私たちもイエズス様の聖心によって洗礼の秘跡を受けて、罪を赦され、そして洗者聖ヨハネよりも更に大きな御恵みである御聖体を受けて、七つの秘跡を受けた身となりましたので、たとえ洗者聖ヨハネのような厳しい生活はできなくても、祈りと償いの生活を送ることができる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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「私の肉を食べ私の血を飲む人は、私に宿り私もまたその者のうちに宿る。生きてまします父が私を遣わしその父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。」

2022年08月02日 | お説教・霊的講話

2022年6月19日(主日)御聖体の荘厳祭
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は御聖体の祝日の荘厳祭を祝っています。これは、この前の木曜日に私たちが盛大に祝うことができなかったので、今日もう一度それを一緒にお祝いしています。ですから、このミサが終わった後で、いつものように感謝のお祈りをして、すこしの休憩の後に、御聖体行列を行ないたいと思っています。どうぞたくさんの方々が参加して下さるようにお願い致します。

これは私からのお願いですけれども、ミサの前に私たちはロザリオを唱えて、ミサによく与るようにお祈りをして準備しています。是非できれば皆さんもそのロザリオに一緒に唱えて下さるようにお願いします。お友達におしゃべりをなさりたいお気持ちはよく分かりますけれども、お友達もミサの前に準備をしたいと思っていらっしゃるので、是非それを尊重なさって、おしゃべりは、ミサが終わって、お祈りが終わってからにして下さるようにお願い致します。

今日は、御聖体の秘跡について一緒に黙想致しましょう。今日特に皆さんに黙想を提案するのは、今日の福音の言葉です。イエズス様が仰った言葉です。「私の肉を食べ、私の血を飲む人は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。」(ヨハネ6:56)そしてこうも言われます。「生きてまします父が私を遣わし、その父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。」(ヨハネ6:57)更にこうも仰います。「このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:58)

このこれらの言葉を以ってイエズス様は、私たちと愛の一致をしたいと、イエズス様は私たちの中に居て、そして私たちもイエズス様の中に留まる、一心同体になるということを仰っています。そして私たちはもはや、生きるのは私の為ではなくて、形だけではなくて、キリストが私の中に生きている。私が生きているのはキリストの為だと、そのようになると仰っています。

だからもはや、この世の為に生きるのではなくて、永遠の為に生きる。そして永遠の為に、永遠に本当に生きるのだ。永遠の命を持つと仰っています。これが御聖体の私たちに与える効果です。

天主はどれほどまで私たちを愛して下さったか、ということが、御聖体に如実に表れています。天主が私たちを無から創造して、それで終わりではなかった。それを統治して、それをちゃんと見守って下さっているのみならず、この全世界を創った方は、私たちを愛するが為に、私たちといつも一緒にいたいが為に、人間となられた。それでも満足できずに、私たちの為に、命を与える為に、御自分の命を与える為に、十字架の上に、私たちの代わりに十字架の上に付けられて、御血を流されて、命を与え尽くした。それでも足りなかったイエズス・キリストは、真の天主は、私たちに御自分の天主の命を与える為に、私たちとピッタリ一致する為に、一つになりたい、その為に何を考えたかというと、発明したかというと、御聖体を作った、私たちの食べ物となった。私たちがイエズス様と一体化する、私たちもイエズス様のようになる、ということも考え付きました。

教会の教父たちは、あるいは教会の博士たちは、あるい聖人たちは、御聖体のことを考えれば考えるほど、私たちを創って下さった主の愛に、もう感謝の言葉を見つけることができないほどでした。一体、主がしもべの為の食事となるとは、食べ物となってしまうとは、一体何という素晴らしいことだろうか!多くの歌や、多くの芸術作品が、御聖体の為に作られました。

では、このような天主の愛に対して、私たちの祖先は何をしたでしょうか?

立派な、大きな大聖堂を造ったり、素晴らしい歌を作ったり、詩を書いたり、文学でイエズス様の愛を表明するのみならず、イエズス・キリストが王として私たちに祝福を与えて下さるように、御聖体行列をすることを欲しました。イエズス様が王として私たちの心に来るのみならず、社会を、街を、祝福して下さいますように。その時には、御聖体の祝日には公休日にして、お休みにして、そして皆が揃ってイエズス様を王として迎えることができますように、その愛を賛美することができますようにしました。

残念ながら現代は、人々の心は、御聖体に対してあまりにも無関心であって、冷淡であって、それを忘恩と冒瀆でお返ししています。イエズス様が受けるのは、冷たい心と、無視、あるいは嘲り、不信仰です。

ですから21世紀に生きる私たちは、特にイエズス様に対して特別の愛をお返し致しましょう。私たちのやることは非常に不足だらけですけれども、しかしちょうど子供がお母さんに、お母さん、お母さんありがとうと言って、落書きのようなお母さんの似顔絵を書いて、そしてママへ、ありがとうと書いたら、お母さんはその子供の落書きのようなクレヨンの絵を見て、どれほど喜ぶことでしょうか。私たちも拙い祈りですけれども、また御聖体行列かもしれませんが、しかしイエズス様は私たちのその真摯な感謝と讃美をしたいという心を見て、どれほどお喜びになって、この私たちのみならず、この大阪、また日本を、また全世界を祝福して下さるに違いありません。私たちはこれを望んでいます。

是非イエズス様が私たちを憐れんで下さって、祝福をますます下さいますように、そしてこの前秋田の巡礼の時にレネ神父様が仰って下さったことを思い出します。たとえこの御聖体行列を見て何も分からない人がいたとしても、多くの恵みをその人たちは受けることは確実です。

例えば、最後にこの話をさせて下さい。ユダヤ教で、最もカトリックに反対していた家庭で育てられた双子の子供がいました。その子らはフランスのリヨンという町に住んでいました。そこで御聖体行列がありました。決してカトリックとは関係を持ってはいけないという風に厳しく言われていたのですが、御聖体行列の音を聞いて、窓から見ると、何か行列がある。そこで、この子供は家政婦さんに聞きました、「これは一体何?ヘブライ語で聞いたそうです。“マンナ?”カトリック信者だった家政婦さんは御聖体だとおしえました。そこからいろいろな質問の答えのやり取りがあり、それがきっかけで、子供たちは18歳の時、秘密にカトリックになりました。ついには24歳でカトリックの司祭になりました。Joseph et Augustin Lémann (1836-1915 et 1836-1909)神父兄弟です。カトリックに反対していたこの家庭で育てられたにも関わらず、御聖体行列の奇跡の恵みによって、カトリックの信仰に導かれました。

願わくは、大阪のこの周囲の方々が、ぜひ御聖体の御恵みによって信仰に導かれますように、日本の多くの方々が導かれますように、お祈り致しましょう。マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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