Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年12月23日(主日) 待降節第4主日説教 「クリスマスが全く天主様にふさわしい―とはどういうことか?」

2019年01月16日 | お説教・霊的講話
2018年12月23日(主日)待降節第4主日のミサ
小野田神父説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年12月23日、待降節第4主日です。

今日はこのミサの後には、いつもの通りに公教要理の予定ですが、その代わりに特に侍者の、子供たちにとっては、ポールさんの御一緒に侍者の集いがあります。ですから侍者をしようとする人たちが、どうやって侍者をしたら良いのか、特に「新しく侍者になる」という子供たちの為にも集まって下さい。それから15時から今日は晩課があります。明日は国民の祝日なので振替休日なので、10時30分からミサがあります。

クリスマスにはここで、夕方の18時からミサがあります。どうぞ時間のお間違えのないようになさって下さい。

それから聖ピオ十世会の、特にアジア管区では、特にできれば来年、日本に、司祭が常駐することができるように、という事を願っています。その為には色々な条件が必要です。司祭を少なくとも2名、日本に常駐する為に送らなければなりません。しかしそうする事によって大きな利益があります。まず日本で、特に考えているのは東京です。東京で、少なくとも毎日ミサが捧げられる。また、司祭が行ったり来たりする時間が省けるので、その為の時間や奉仕を、皆さんの為に捧げる事ができる。非常に、体力的にも効果的な奉仕ができる、と思っています。

その為には良い、非常に交通の便の良い場所に、皆さんが集う事ができるような場所が、司祭が住む事ができるような場所がなければなりません。そのようなうまい場所がありますように、皆さんにお祈りをお願いしたいと思っています。聖ヨゼフ様が、イエズス様のお生まれになる場所を見つけて下さったように、司祭がミサをする場所を、毎日ミサをする場所を見つけて下さいますように、皆さんの熱烈なお祈りをお願い致します。



“Rorate coeli desuper, et nubes pluant justum.”
「天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂にあと2日で、私たちの主イエズス・キリストの御降誕を祝います。

クリスマスは私たちにとって大きな喜びの日です。とても甘い、そして甘美な、優しい喜びの日です。なぜかというと、この日には私たちは大きなプレゼントを、天主様から頂いたからです。私たちの存在の根底を覆すかのような、ものすごいプレゼントです。

しかし、もしも私たちがその価値が一体何か分からないと、そのプレゼントの一体価値がどれほどものすごいものか、それが分からなければ、喜びもそれに合った喜びになりません。私たちがそれを知れば知るほど、「えぇ!?何と、そんなに!」と、私たちの喜びはますます大きくなるに違いありません。

天使たちがなぜこんなにも喜んでいたのか、なぜ人類がこの日には歌を歌って、クリスマスのギフトをプレゼントを交換して、そしてなぜこんなにも喜び合うのか、という事を、そしてたとえ戦争があっても、「クリスマスには戦争を止めよう」となるのか、その、その意味を皆さんと一緒に黙想したいと思っています。

そしてこの黙想の結果、クリスマスの日には、待ちに待ったクリスマスには、皆さんの喜びが、心が喜びで満たされて、この喜びで溢れるようになれば、私の拙い御説教は成功になります。

なぜ、このクリスマス、イエズス様の御降誕がそれほど喜びに満ちているかというと、これは、生まれた方が、真の天主であるからです。真の人、真の天主です。天主が人となった。この天主が、この世を創造された、無限の宇宙を創られた天主が、私たちに与えられた。その偉大さが故に、私たちの喜びも大きいのです。

では今日私たちは、では「天主様が一体、人になるなんて、ちょっと想像を超えている。信じられない。一体そんな事が天主様にふさわしいのだろうか?偉大な方が、そんなに偉大な方がそんなに小さくなって良いのだろうか?無限の天主、無限の宇宙さえも包み込む事ができない永遠の善、命が、こんなにちっぽけになって人間となるなどと、そのあまりにも極端ではないか?北極と南極が一緒になる事がないように、きっとそんな事はふさわしくないんじゃないか?しかし一体、これは何でそんな事が言えるのか?」
これを黙想する事によって私たちは、そのそれをも超えた、天主の御力と、善と、愛を、垣間見る事に致しましょう。


聖トマス・アクィナスは言います、「天主が人となるという事は、非常にふさわしかった。なぜかというと、天主というのは良い方であるから。嫉妬をせずに、自分の持つ良いものを全て与える方だから。そして与えても、与えても、自分の持つものは決して無くならない方だから。そしてこの天主の御自身の働きというのは、この『良さ』にある。『善性』にある。天主が人となる事によって、『御自分を全て与え尽くす』というその良さが現れた。これは天主様に全くふさわしい。」

あるいは、「天主は永遠の知恵である。そして人類が天主の敵となってしまって、永遠の滅びを自ら選んでしまって、もうどうしようもない、しかも人類の力によっては罪を償う事さえもできない、これを解決するにはもう手段がないかのように見える、その難しい状況を、解決する方法を見出した編み出したその知恵、それが天主が人となった事だ。ここにおいて、天主の御知恵の極みが分かる。だからふさわしい。」

あるいは、「天主の正義。天主は正義なる方である。善を善とし、悪を悪とする。しかし悪に対して悪で返す事なく、悪魔の暴虐なものに対して悪をもって打ち返すのではなく、人間を死から救う為に暴力を使うのではなく、正義を以て、善を以て、それを成し遂げた。ここにおいて、天主の完全な正義が現れる。」

あるいは、「無限の開きがあるような天主と人間を、御言葉のペルソナにおいて一つにさせる、一つにした。ここに天主の全能の御力が現れる。だからふさわしい」と言っています。

聖トマス・アクィナスは更に言います、「天主様が人となるのは確かにふさわしかった。しかしそれは義務ではなかった。どうしてもそれをやらなければならない本能でもなかった。そうではなくて、天主は愛によって、無限にある可能性の中から1番、私たちの為にふさわしい方法を選んで、そうされた。」

例えば、私たちが今、ここの東京から長崎まで巡礼に行こう、という時に、色んな手段があります。歩いて行くとか、あるいは自動車で行く、あるいは飛行機で行く、あるいは船で行く、あるいはヘリコプターで行く等。でも飛行機で行かなくてももちろん、あるいは乗り物に乗らなくてももちろん、長崎に行く事はできますけれども、それをしないと非常に難しくなります。必ずしも乗り物が必要だとは限りません。しかし、人間が生きる為には空気が必要です。空気を必要でないと思われるならば、皆さんちょっと実験してみて下さい。

それと同じように、天主様は人間とならなければならない、という必要性はありませんでした。天主様にとって、人間にならなくても別に天主は天主です。しかし人間を私たちを罪から救う為に、それを自由に、色んな可能性の中から選んで、それを選択されたのでした。ここに天主の知恵と自由の選択がありました。

これはちょうど、人間が無から創造された、あるいは被造物が無から創造された時と同じような事です。天主が被造物を無から創った時に、無いものが有るものになりました。私たちの存在にとっては一大革命が起こりました。それと同じように、天主が人間となった時には、天主にとっては全く変わったところがありませんでした。天主が被造物を創っても創らなくても、天主は天主であったように、人となってもならなくても、天主は天主のままでしたが、しかし私たちの方が、「天主の御言葉と一致する」という大変革を起こす事ができました。

三位一体は、聖子イエズス・キリストの、天主の御言葉のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性を一つに一致させました。お生まれになる幼子イエズス・キリストは、真の天主であり、真の人間です。

天主が人となった、偉大な天主が人となった、という天主の偉大さは、その大きさにあるのではありません。なぜなら天主には体積など無いからです。天主の偉大さは、その御力にあります。無限の天主が、私たちの人間の本性と一つになった、というその全能において、天主の本性が、天主の全能性が現れました。

これによって私たちは、確かに多くの利益を得ました。聖トマス・アクィナスはいくつかそれを挙げています。実は挙げ尽くす事ができないほどだけれども、挙げていくつかを列挙しています。

1つは、「人間が、これによって天主の真理をよく信じる事ができるようになった。」旧約の預言が全て成就し、そして天主の真理が目に見える形になったので、更に確信を持って天主の真理を、天主の愛を信じる事ができるようになります。目に見えない天主をますます信じるようになる事ができます。

2つ目は、私たちは永遠の命の為に生まれてきました、創造されましたが、その為に天主がこれほどまで、人となるまで私たちの為になさった、という事を見て、私たちの希望は、救われるという希望は大きくなります。

3つ目は、天主の愛がここに現れます。天主聖父は、御一人子をこの世に送るまで私たちを愛されました。これを見ると、少なくとも「天主を愛し返そう」と思わざるを得なくなります。これほど天主から愛されていて、私たちはそのまま何もせずにいて良いのでしょうか。私たちの愛徳はますます大きくなります。

4つ目は、模範です。私たちの聖なる、私たちは天国に行く為に聖なる一生を送らなければなりませんが、第4番目に、イエズス様は良い模範を示して下さって、私たちがより簡単に人生を、どのような人生を送らなければならないかを示して下さいました。天主が人となる事によって、私たちも天主の命を生きる事ができるようになりました。

5つ目は悪魔に対してです。「今まで悪魔は」と、更に聖トマス・アクィナスは言います、「今まで悪魔は、人間よりも偉ぶっていた。なぜならば、人間は肉体を持っているし、そして死ぬ存在であるから。」しかし天主が人となる事によって、肉体を取る事によって、そして御死去される事によって、その悪魔が偉ぶっていた、その傲慢の鼻をへし折ってしまいました。

そればかりではありません。6つ目もあります。私たちの高貴さ、崇高さ、尊厳のためです。人間は天主の似姿において造られますけれども、天主の聖子が人となる事によって、私たちと一つになりました。ですからこれによって、どれほど人間というものが高貴であるか、罪を犯して、罪によって私たちのその高貴さを汚してはいけない存在であるか、という事を分からせてくれます。聖レオ教皇様はクリスマスの日に、このその御説教をします、「おぉ、キリスト教徒よ!天主が私たちの人間の本性を取ったという、この人間の本性の崇高さを見よ!だから私たちはもう罪を犯してはいけない。罪によって私たちの体を汚してはいけない。」

7つ目は、私たちの謙遜のためです。天主が人となる事によって、私たちまで近寄って下さる事によって、私たちの傲慢は無くなってしまいます。私たちも天主へと近寄らなければなりません。

しかしこの世は残念ながら、この光を受け入れようとしませんでした。聖ヨハネが書いています、「光はこの世に輝いたが、闇はこれを理解しなかった、受け入れなかった。光はこの世に来たけれども、人々は光よりも闇を好んだ。」天主の愛がここまで輝いたにもかかわらず、私たちに与えられたにもかかわらず、幼子イエズス様はしかし、必ずしも多くの全ての人によって受け入れられたとは限りませんでした。

私たちはしかしその、この方がどなたであるかという事を知っています。このクリスマスにイエズス様を、人となった真の天主を受け入れる事ができるように、お祈り致しましょう。

「マリア様、助けて下さい。マリア様、私たちがこのイエズス様のその愛を知る事ができますように、信仰を深める事ができますように、希望を強める事ができますように、イエズス様への愛に燃え立つ事ができますように、助けて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2018年12月22日(土) 御聖体降福式にて「御降誕の玄義の黙想」

2019年01月15日 | お説教・霊的講話
喜びの玄義 第3玄義の黙想
(2018年12月22日(土)御聖体降福式にて 小野田神父)


『喜びの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主の降誕し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、清貧の徳を乞い願わん。』

召命を求めて、多くの聖なる聖伝の司祭、修道者、修道女たちが、日本の国から、世界中から、たくさん頂く事ができますように、特別にマリア様の汚れなき御心の讃美を込めて、一連付け加えてお捧げ致しましょう。

特に今日は、イエズス様の御降誕の喜びの、第3玄義を黙想致しましょう。

特にヨゼフ様とマリア様が、お生まれになる数日前、3日間の道のりを、ナザレトからベトレヘムまで、冬、チェザル・アウグストゥスの勅令に従って、御歩きになったその従順と、その御苦労と、またその天主の御摂理に対する信頼を黙想致しましょう。

どれほどマリア様とヨゼフ様にとっての、その旅路は労苦の多いものであったか。特に最後、お住まいになる所も見つける事ができなかったヨゼフ様の御苦悩。
「救い主が来られる」という事を知らずに、拒否する人々。

天主の聖子のその御謙遜。あたかも捨てられた人であるかのように、何でもない人であるかのように、永遠の創造主、全能の天主、王の王が、全く人からも見向きもされず、動物の馬小屋で、小屋で、快適な設備も全く無く、木枯らしの吹き荒ぶ真冬に、凍えながらお生まれになる、その御謙遜。離脱の心。
天主聖父への御従順。私たちを愛するその熱い愛。

私たちの為にお生まれになるイエズス様、真の天主、真の人、天主の御言葉、救い主、約束された唯一の救い主、その御降誕を黙想致しましょう。

天使たちの喜びの歌と、牧童が、イエズス様を礼拝する人々の、選ばれた人々の喜び、マリア様の喜び、ヨゼフ様の喜びが、私たちの心にも染み通りますように。

2018年12月22日 (土) 待降節の四季の斎日説教「クリスマスはなぜ喜びに満ちているのか?」

2019年01月14日 | お説教・霊的講話
2018年12月22日(土)待降節の四季の斎日 土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月22日、四季の斎日の土曜日のミサをしています。

今日この御ミサが終わりましたら、聖体降福式を致しましょう。今年最後のここでの聖体降福式です。特に平和の為に、この世界から憎しみや、天主に対する挑み、逆らう、抗う心が無くなり、天主に栄光と、善意の人々に平和がありますように、特にお祈り致しましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

では、クリスマスのこの前に、来たるべきイエズス様の黙想を致しましょう。

この黙想の目的は、皆さんに心から、「クリスマスが喜ばしいものである」という事を知って頂く為です。

もしもこの今日この黙想をなさって、「あぁ、クリスマスというのは本当に嬉しい、喜びに満ちている。」「本当にクリスマスが待ち遠しい。」「クリスマスは何と喜びに満ちた祝日なのだろうか。ものすごいプレゼントだ。ものすごい人類の受けた喜びの日だ」という事をぜひ知って頂きたい、そして「クリスマスの日では天使たちと一緒に歌を歌って、そして一緒に、牧場の牧童たちと一緒に馬小屋に馳せ寄って、近寄って、幼きイエズス様を、喜びに満ちて、感謝に満ちて、微笑みの内に礼拝したい」という気持ちをぜひ起こして頂ければ、この今日の黙想はとても大成功です。

では、この昨日は、ここに生まれる御方が一体どのような方か、「真の天主であり、真の人である」という事を黙想しました。今日はその続きを致しましょう。

⑴「真の天主であり、真の人である」という事は、一体どうしてこんな事が可能なのか?
「真の天主」というのは、無限に聖なる方で、無限の御方であって、永遠の御方であって、「人間」というのはちっぽけな、時に於けるものであって、創られたものであって、太陽と地球が離れているよりももっと離れている、銀河の一番果て(というものがあれば)と、この地球というよりももっと違いがある、無限の違いがある方が、どうして一つに一致する事ができるのか?一体どうなのか、一体それはどうやって起こったのか?

⑵そしてその起こった結果、天主様と私たちには一体何が起こったのか?何でそういう事が起こり得たのか?という事を黙想して、このクリスマスというのが、天主様が、真の天主が真の人となって生まれて来たという事が、ものすごい、私たちの創造の、この世が創られた歴史の中で、この私たちの存在それ自体を揺るがすような、ものすごい大きな出来事であって、ものすごい、私たちはそれをただ、永遠の喜びとを以てもまだ足りないほどの大きな出来事であった、という事を黙想しましょう。


⑴真の天主、真の人、イエズス・キリスト。このイエズス様は、カトリックの教えによれば、天主が天主であるという事をそのまま残したまま、そして完璧な人間として、イエズス様の天主の三位一体の第2のペルソナ、永遠の天主の御言葉、永遠の知恵のペルソナにおいて、その最も奥深くの、それだけで存在しているものにおいて、ギリシャ語では“ヒポスターティス”という、そこにおいて、天主の御言葉の最も中核において、人間の本性を自分のものとして取りました。

天主聖子は、全く真の人間として本性を取られたので、これは自分のペルソナにおいて、ヒポスターティスにおいて、存在の中核において、自存するその根源において、根本において、人間の本性を取られたので、この根元において、天主と人間の本性が一致する事ができました。

確かに、天主の本性は無限の善であって、私たちが把握する事のできないものです。それにもかかわらず、その天主のペルソナが、御言葉、永遠の御言葉が、私たちの本性を自分のものとされたので、一つになる事ができました。

この一つになるという事は、ちょうどこの十字架像が木と、この金属と、あるいは宝石とこう合わさって一つになっているようなやり方での一つではありません。それよりももっと、これはたまたま芸術によって合わさってこうなっていますけれども、イエズス様のヒポスターティスにおける、ペルソナにおける一致というのは、それよりももっと深い一つとなって、もう離す事ができないほどのものです。

だからといって、これによって天主が天主でなくなった、あるいは人間が人間でなくなったという事はなかったのです。もちろんこの一致というのは、イエズス様の御言葉の最も深いところであったものだったからです。


⑵では第2に、これはこうする事によって、天主と私たちにはどのような事が起こったのでしょうか?

時々私たちは誤解してしまうのですけれども、天主の、「天主とは何か」と言った時に、私たちはそれについて答える事ができる、と錯覚してしまいます。「天主とは、この世を創った方だ、創造主である」と、例えば。でも正確に言うと、そうではないのです。「創造主である」という事は、天主様の定義ではないのです。天主に対して、「何か」と答える事が、私たちにはできないのです。

なぜかというと、例えば「時計とは何か」というと、「時計とは、時を私たちに教えるものだ」と私たちは定義を与える事ができます。ですから、時を教えるものは皆時計です。お腹も時々、時を教える限りにおいて時計にもなり得ます。

でも天主の場合には、例えば「創造するかしないか」というのは全く自由でした。「私たちを創るか創らないか」というのは自由でした。必ずしも私たちを創造して、無から創り上げなければならない、という義務も必然性もありませんでした。愛によって私たちを創りましたけれども、それは御恵みでした。ですから天主は、「もしも創造しなかったら天主ではない」という事は言えません。ですからそういう意味で、天主様の定義に、「創造主である」という事は言えないのです。

同じように天主は、「人となる」という義務も必然性もありませんでした。しかし私たちを救うが為に、私たちの失われた天主との関係を回復させる為に、いえ、それよりも更にもっと大きなものとする為に(これについてはすぐに申し上げます)、天主は私たちの為に人となりました。

もちろん、「天主聖子が人となった」という事は、天主の定義の中には入っていません。なぜかというと、「そうでなければ天主ではない」とは言えないからです。天主様は無限の御方で、私たちが把握し尽くす事ができないものです。もちろん私たちは天主様が、「正義である」「愛である」「憐れみである」と言う事はできますが、私たちのこの地上での理解をはるかに無限に超えた意味でのものです。

その天主は、この世を創造する事によって、御自分は全く変わる事がありませんでした。この世を創ったから、あるいは創らなかったからといって、天主がより良くなった、より悪くなった、より少なくなった、より大きくなった、という事は全くありません。同じ無限の天主です。

それと同じように、天主聖子が人となった時に、天主聖子がより大きくなった、より小さくなった、より完全になった、より不完全になった、という事は全くありませんでした。全く同じ、永遠の天主の御言葉でした。

しかし天主の聖子が人となった時に、私たちにとっては、創造の時に起こった、無から有に、無かったものが有った、在り始めた、という大変化があったように、私たちにとっても大きな変化が起こりました。なぜかというと、天主の聖子が私たちの人間と一致したからです。この一致によって、私たちの人間の本性はとてつもない変化を起こしました。

それはどういう事かというと、「私たちがもしもイエズス・キリストの聖心に同意するならば、私たちがそれを信じてそれに同意するならば、天主聖子のようになる事ができる。アダムとエヴァが創られたその時の状態よりも、更に高貴なものとなる事ができる」という大変化でした。

アダムとエヴァがもしも罪を犯さずにそのままいて、そしてもしも天主聖子が人とならなかったのならばできなかったほどの大変化が、私たちにもあり得る事になりました。その可能性が与えられたのです。

もちろんオートマティックではありません。創造の時には私たちが同意せずにも、無から有になりました。しかしこの贖いの、イエズス・キリストとの一致というのは、天主との一致というのは、私たちが今度は同意しなければなりません。イエズス・キリストの御旨の通りにしなければなりません。イエズス・キリストを信じて、私たちもそれに参与しなければなりません。

しかしその可能性が開かれました。これは私たちに与えられた大きな喜びです。なぜかというと、さもなくば私たちには、この世での苦しみ、そしてこの世が終わった後、来世での苦しみしか残されていなかったからです。

これについて、現代ではいくつかのたくさんの誤った考えがあります、誤解があります。

1つは、「イエズス様がただの人間であって、天主であると認められた」という、そうではありません。イエズス・キリスト様はその最初の瞬間から、生まれたその御胎内に宿られた最初の瞬間から、真の天主、真の人です。

あるいはまた他の誤謬は、「イエズス様は天主であって、本当の人ではない。」これも誤謬です。真の人間として生まれたので、成長もしましたし、消化もしましたし、苦しみましたし、死も受けました。

また別の誤謬は、「天主は、人間になるのがこれは必然だった。この世に起こる事は皆三位一体の、(これはある日本の学者が言っている事ですけれども)三位一体の構造をしているのであって、そしてこの救いの歴史というのは、この三位一体の構造をどうしても取らなければならなかったので、必然としてそうなった。」そうではありません。もしも三位一体の構造が必ずこの世に起こる、そしてこの世に起こる事というのは必ず三位一体が原因であるとしたならば、この世には罪もあり得ない事になってしまいます。

このような考えの元々は、テイヤール・ド・シャルダンという人が考えた進化論でした。このテイヤール・ド・シャルダンという人はフランス人で、イエズス会士で、「この世は進化している。」そしてその進化の究極の点の事を、彼は「オメガ点」と名前を付けたのですけれども、「そのオメガ点が、全てがキリストになる事だ。」そして「この物質も、最後には進化して、皆キリストのようになる」と主張をします。「自動的にそうなる」と。

そうではありません。イエズス様は私たちを救う為に、人間を救う為に、この「人」となりました。

もちろん天主は憐れみによって、この世界を究極的に再創造、「新しい天と地を創る」と言われています。しかしそれは進化ではなくて、天主の御憐れみであり、御恵みであって、天主の自由な御計画でした。自動的ではありません。必ずその私たちがそうならなければならないとか、必ず物体がそのようになる、というのではありません。ですからそれは進化でもないのです、進化という自動的なものではありません。たまたまそうでもありません。憐れみによる愛の業です。

またある別の誤りは、これは第二バチカン公会議の非常に曖昧な言い方から来るものです、「天主が御託身をする事によって、ある意味において全ての人と一致した」と、この「ある意味」という曖昧な言い方をして、「私たちにそのような可能性を与えた」という事をはっきり書きませんでした。

「可能性を与えた」という事であれば、「可能性において一致した」という事であれば、私たちはまだ現実にそれまでに、全ての人がそれに現実に到達していないという事が分かります。しかし「ある意味において一致した」と言うと、「あぁ、もう既に本当に一致しているのだ」と錯覚してしまう人がいます。そして、ですからそのような人たちは、「だから私たちは何をしても救われるのだ。何を信じても救われるのだ」と誤解してしまいました。

しかし、「私たちの知性では計り知れない、無限の天主が、私たちを愛するが為に、私たちの幸せを望むが為に、私たちを御自分の命に招き入れる為に、全く自由に私たちに、私たちの人間の本性をお取りになって、お生まれになる」というこの愛の極みを、どうぞ黙想なさって下さい。

この天主の聖子が生まれた時に、旧約の預言は全て成就しました。人類が太古から待ち望んでいた救世主、平和の君がお生まれになりました。私たちは今典礼によって、キリストの花嫁である教会は、それを今年も祝おうとしています。私たちの中には感謝と、喜びと、そして愛に満ち溢れなければなりません。このイエズス様のこの神秘の中に深く入るようになさって下さい。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。

「マリア様、どうぞ私たちの限られた知性ですけれども、イエズス様の御言葉の御託身の神秘を深く信じます。私たちが色々な誤謬に惑わされる事なく、天主のこの大きな贈り物を深く理解する事ができますように。あまりにも大きな御恵みだったので、人間はそれを誤解してしまいました。しかしそのそれを、その偉大さを深く理解する事ができますように、それに相応しい喜びも私たちが持つ事ができますように、助けて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年12月21日(金) 使徒聖トマスのミサ説教 「クリスマスと聖トマス」

2019年01月13日 | お説教・霊的講話
2018年12月21日(金)使徒聖トマスのミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月21日、使徒聖トマスの祝日、そして待降節の四季の金曜日を行なっています。

今日はこの御ミサの後に、ミサの後の感謝の祈りの後に一緒に、終課をいつものように歌いましょう。そして終課の前には、聖ピオ十世会の習慣に従って、クリスマスの前の12月17日から23日までO Antiphonaという、マニフィカトのアンティフォナを歌いましょう。

明日は、10時30分からここでミサがあります。



「我が主よ、我が天主よ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は使徒聖トマスの祝日です。クリスマスの前ですから、聖トマス使徒の生涯の黙想というよりは、私たちの為にお生まれになるイエズス様の神秘を黙想するようになりがちです。

⑴今日は、使徒聖トマスの生涯の出来事と、

⑵私たちの主の御降誕と、

2つを黙想して、どのようにクリスマスの準備をすれば良いか黙想致しましょう。

⑶そして良い、聖トマスの御取り次ぎによって、良いクリスマスの準備を致しましょう。


⑴第1に、聖トマスは、ディディモ(双子)というあだ名を付けられていました。十二の弟子の内の一人です。主の受難の時には主と一緒に行って、「私たちも死のう」と勇敢な言葉を言った男でした。

しかし、イエズス様が本当に御受難の時に逮捕されて、十字架に付けられると、この使徒も信仰を失ってしまいました。

イエズス様が復活した時には、弟子たちと共にいませんでした。復活の主日、聖金曜日からイエズス様が十字架に付けられた時から第3日目の主日に、イエズス様が復活されて、ドアが閉められていたにも関わらず、弟子たちの間に現れた時に、トマスはいませんでした。

その後で、家に帰ってきた使徒聖トマスに、弟子たちが喜んで、「俺たちは見たぞ、主を見た!復活した主を見た!よみがった!」と言うと、信じませんでした。それは今日、今読んだ福音にあった通りです。「主の手に、釘の跡に自分の手を入れて、脇に、槍で刺された脇に自分の手を入れて、そうしない限り信じないよ。俺は信じない。」信じるのを拒否しました。

復活の主日の8日後、翌週の主日に、もう一度イエズス様が現れます。その時にイエズス様は、ドアが閉まっていたにも関わらず壁を突き抜けて、自分は幽霊でも幻覚でもないという事を見せる為に、聖トマスをすぐに呼んで、「さぁ、」あたかも一週間前の話をよく聞いていた、という事を見せつけるかのように、「お前の手を出してごらん。私のこの釘の跡に入れてごらん。この脇に手を入れてごらん。信じない者ではなくて、信じる者になるようになりなさい。」

その言葉を聞いて、すぐに一体何の話をしているのかという事を理解しました。脇に手を入れながら、復活したイエズス様に触りながら、聖トマスは、「我が主であり、我が天主である!」と告白します。

この時に、「我が主よ、我が天主よ」と呼びかけたのではないのです。「あなたはそうだ。これは、これこそそうだ!」と確定、断言したのです、ギリシャ語の文法によると。

するとイエズス様は、「あなたは見たから信じたけれども、見ないで信じる者は幸いである。」

実際に聖トマスは、その後に各地に宣教に行きました。復活されたイエズス、真の天主、真の主を宣教し、そしてインドまで行きます。今でも聖トマスの宣教されたキリスト教のカトリックの地域があります。聖フランシスコ・ザヴェリオが到達した時に、既に使徒聖トマスの時代からのキリスト教信者の共同体がありました。

遂には、シリアのエデッサという所に行って、殉教しました。


⑵第2に、では使徒聖トマスとクリスマスとは、一体どういう関係があるのでしょうか?

ちょうど、この私たちの為に生まれる、馬小屋で生まれる赤子、全く貧しい、一見単なる貧しい夫婦の、何の変哲もないただの旅人の、馬小屋で生まれた子供であるかのように見えます。しかしこの赤ちゃんが生まれたその背景には、全ての旧約の預言の成就があります。

太古から特別に選ばれた人々を通して、預言者を通して、「なぜこの世に苦しみがあるのか」「なぜ私たちに死があるのか」「私たちがこの死んだ後にどうなるのか」「私たちは何の為に生まれてきたのか」「私たちは生まれて、ただこのまま死ぬ為だけに来たのか」「あるいは特別の計画があって、この世に生まれてきたのか」「一体誰がそのような計画を立てたのか」という事を啓示して下さった天主がいます。

そしてその天主は、「実は、罪の為に私たちは苦しんでいて、死があり、そして私たちがこのままでは、ただ単に苦しみ、そして永遠の苦しみの為にだけ生まれてきたかのような身分だけれども、しかし憐れみによって、元々の計画を、永遠の命と、永遠の幸せの為に私たちが創られて、私たちがここに存在する為に本当はあるのだ、という計画をもう一度復興させる為に、救い主を送る」という天主の秘密、その救いの知らせがありました。

「その救い主は一体、誰から、どのように生まれて、どのようにこの世にやって来て、いつ、どこで、どうやって生まれて、またどのような人生を送って、どのように亡くなるのか、一体その家系はどうで」という事を詳しく預言されていました。

「童貞女から生まれ、ダヴィドの家系で、ベトレヘムで生まれて、その時はいつ、その時には星が出る。」あるいは「サバから王たちが贈り物を持って来るだろう。」あるいはその他、「この救い主となるべき方はこうなる方だ」という預言がありました。

それを全て、イエズス様が成就しました。お生まれになる事で、そして御生涯において、そして御自分の人生の中における様々な奇跡を行なう事によって、天主でしかできないような奇跡を行なう事によって、自然の法則をはるかに超える事を御言葉の通り実現させる事によって、最終的には死者からの復活によって、イエズス様が天主であるという、その天主というものを私たちは見る事ができません。しかし天主にしかできないその結果を見て、預言の成就を見て、私たちはどうしても結論付けざるを得ません。これは偶然なんだろうか?たまたまそうなんだろうか?それとも本当にそうなのだろうか?

0.00000001それ以下の確率で、たまたまだったのかもしれません。しかし、99.9999999%のほぼ100%に近い確率で、「これこそ本当の天地の創造主、人となった天主、永遠の光、永遠の天主の御言葉、永遠の知恵、救い主、平和の君である」と言わざるを得ません。

イエズス・キリストがお生まれになる時に、天使たちの大群は喜びの歌を歌います。星は、東の国から3人の博士たちを導いてきます。ユダヤ人たちは知っていました。この3人の王がエルサレムにやって来た時、聞くのです、「一体、ユダヤの王はどこに生まれるのですか?」ヘロデは知らなかったのですけれども、学者たちに聞くと、「ベトレヘムだ。ユダのベトレヘム。そう書いてある。」「さぁ、ベトレヘムだ。」

この生まれる、貧しい馬小屋に生まれて、一見何にも、輝かしい王宮も、ベッドも、暖房も、召使いたちも、金銀宝石もない、貧しいこの馬小屋のまぐさ桶で寝て、私たちの為に生まれるこの赤子こそ、人類が待ちに待っていた真の救世主だという事が分かります。

「見ずに信じる者は幸せ。」

天主の聖子が、その天主の聖子の三位一体の第2のペルソナにおいて、人間の本性を自分のものとして取りました。天主である、完璧な天主である事を保ちつつ、完璧な人間としてお生まれになりました。真の天主、真の人であるイエズス・キリストです。

真の天主であるという事は、このイエズス様が全宇宙を創った方であって、永遠の昔から永遠の未来にいらっしゃる方であって、そして人間となったからといって天主である事を辞めたわけではないのです。天主でありつつ、天主であるという事は変わらずに、そのまま人間であるという事をあり始めました。それを始めました。

イエズス様は真の人です。つまり私たちと同じように、肉体と、霊魂と、知性と、意志と、全てお持ちになって、欠けたところがありません。

イエズス様には真の肉体があります。ですからそれを聖トマスにも見せます、復活したイエズス様はそれを見せます。そしてお生まれになった時も、真の肉体を持って生まれました。ですから本当にイエズス様は苦しまれました。お腹が減ったり、寒かったり、辛かったり、涙を流した事もあります。苦しまれて血を流される事もあります。清い喜びで微笑まれた事もあります。

イエズス様には霊魂があります。「私の霊魂は、死ぬるばかり憂う」と仰った事もあります。

イエズス様には知性もあります。意志もあります。完璧な人間です。そして私たちの為にお生まれになります。

「見ずに信じる者は幸い。」


⑶今日はでは聖トマスの祝日に、イエズス様はこの聖堂で皆さんの前に復活された御体を見せてくれます、御聖体の形で。そして、「さぁ、私のこの傷にこの脇に手を入れてみよ」という風にあたかも仰るかのように、「御聖体を受けよ、見ずに信じる者は幸い」と私たちに仰っています。

このクリスマスを準備している、イエズス様の御降誕を準備している私たちが、ますます信仰を固められますように、そして使徒聖トマスの御取り次ぎによって、「確かに、この生まれる、私たちの為にこの生まれる赤子こそ、主である」と、聖トマスと同じように、「これこそ我が主であり、我が天主である!」と言う事ができますように、お祈り致しましょう。

マリア様にお祈り致しましょう。私たちの弱い信仰を助けて下さいますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今年の秋田巡礼の日程が決定しました:2019年5月1日から4日までです。

2019年01月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年の秋田巡礼の日程が決定しました:2019年5月1日から4日までです。

4月30日夜までに現地集合

5月1日(水)の朝のミサから5月4日の朝のミサまで:

5月4日(土)お昼ごろ現地解散です。

多くの愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお待ちしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2018年12月9日待降節第二主日 説教「良いクリスマスを準備するために」

2019年01月10日 | お説教・霊的講話
2018年12月9日(主日)待降節第2主日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年12月9日、待降節第2主日です。

明日は朝6時半から朝ミサがあります。
次のミサは12月21日の金曜日夕方から、クリスマスまでです。
来年からももちろん、第2主日の夕方のミサが続けてあります。どうぞご安心下さい。

それから皆さんにお祈りのお願いです。

今、アジア管区長様とまた総長様にお願いして、できれば来年、新しい年号が変わるその年に、東京で聖ピオ十世会の修道院が実現するようにとお願いしています。聖伝元年になるとよいと願っています。

しかしその為には、天主様の特別の御恵みと、皆さんのお祈りが必要です。そこでそれが実現するようにお祈り下さい。もしもそうなれば、毎週主日に大阪でもミサがあるようになります。日本が多くの恵みを受けるために、毎日のようにミサが捧げられるように、是非これが実現する事ができますように、お祈りをお願いします。


“Populus Sion, ecce Dominus veniet ad salvandas gentes.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「シオンの民よ、見よ、主は私たち諸国を救う為にやって来られる。」
入祭誦で、司祭が祭壇の前に来る時に、聖歌隊はシオンの民にこう呼びかけました、「主が救う為にやって来る。」

そして集祷文では、「私たちの心を浄めて、主が来る準備を良くする事ができるようになさしめ給え」と言っています。

今日指定巡礼教会は、エルサレムの聖十字架教会です。これはローマにおけるエルサレムでした。そこで教会は私たちの事を今日、御聖堂に集っている私たちを霊的に、エルサレムに連れて行こうとします。なぜかというと私たちは、新しいシオンの民だからです。なぜかというと私たちは、新しい天のエルサレムに行くべき、選ばれた民であるからです。花嫁はその花婿が来る為に着飾らなければなりません。光で包まれなければなりません。「エルサレムよ、光に輝け、立て」と。

ですから私たちは、どのようにしたらイエズス様を迎える、私たちの霊魂の花婿であるイエズス様をクリスマスに迎える準備ができるのか、どうしたらイエズス様を、イエズス・キリストを、浄められた心で迎え入れる事ができるのかを黙想致しましょう。その手引きに教会が使っているのは、福音のイエズス様の言葉です。

⑴そこで今日は、昔は、洗者聖ヨハネから二人がイエズス様のもとに送られました。今日は教会が、洗者聖ヨハネに代わって皆さんを選んで、イエズス様の元にやって質問させます、「あなたこそ来たるべきメシアですか?それとも他の方を待たなければなりませんか?あなたのしるしは何ですか?本当のメシアのしるしは何ですか?」

⑵第2に、イエズス様がその本当のメシアのしるしを教えて下さったその次に、避けなければならない事も教えて下さいました。「私に躓かない人は幸いである。」イエズス様に躓いた人がいました。それは昔のシオンの民でした、昔のエルサレムのユダヤ人でした。イエズス様を十字架に付けてしまいました。今日十字架の、エルサレムの十字架の聖堂に集わせるのも、まさに理由があっての事です。なぜならば、最初のエルサレムはイエズス様に躓いたからです。一体なぜ?

⑶最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。どうやったら良いクリスマスを迎える事ができるのか。


⑴イエズス様は言います、非常に慎ましい、謙遜な仕方で、俺こそが、とは言わずに、「さぁ、見てみよ、一体何が起こっているのか。この自分の目で確かめてみなさい。自ずからその結論がはっきりするはずだ。」そこにあったのは事実でした。実際なされている事でした。

「あぁ、あなたは、法律によると、他の大司祭が何を言っているか、他の」というよりは、イエズス様によってなされている現実を見せる事でした。それによると、目の見えないものは見え、足が不自由な人はまっすぐに歩き、そして耳の聞こえない人はちゃんと聞き、癩病の人は綺麗になって、死んだ人が生き返っている。貧しい人には福音が伝えられている。「さぁ。」

イエズス様が仰ったのはこれでした。「私に躓かない人は幸い。」

これは一体何を意味しているのでしょうか?もちろん、イエズス様が生きていた時代に本当に、この肉体的な治癒が起こりました。死者はよみがえったし、目の不自由な人は目が見えるようになったし、もちろんです。しかし、現代でもその事を起こそうとしています。現代でもそれが起きています。

どのように起きているかというと、今まで目があっても目の見えなかった、真理を知る事ができなかった人が真理を知るようになっています。この世の嘘に騙されていた人が、「この世での事で全てだ。この世の楽しみが全てだ。飲んで、食って、笑って、面白おかしく、勝手気ままに、自由に生きて、それで全てだ」と思っていた人が、「いや、それは嘘だ。それはほんのちょっとにしか過ぎない。実はその後に、死と永遠が待っている。永遠の本当の喜びか、あるいは永遠の死が、どちらかを選ばなければならない。天主は存在する。私たちにとって本当の悪というのは、嫌な事や病気や、あるいは死ぬ事ではない。私たちにとって本当の悪とは、罪だ。永遠の地獄に落ちる事である。辛い事も、嫌な事も、病気も、実は永遠の幸せにへと導く道具に、道になる事ができる」と、目が開いた人がいます。

今まで地上の事だけを考えていて、地上で何か面白おかしい事が、あるいは肉体の快楽、あるいは不潔が、あるかないかと探していただけの人が、地上の事だけに、他の片足が永遠の事が霊的な事が機能していなかった人が、「あぁ、実は私たちには霊魂があるんだ。霊的な命があるのだ。永遠が存在するのだ。天主が存在するのだ」と、肉体と霊魂で2つで、歩くようになる事ができています。

罪が赦されて、罪を犯して腐っていたにもかかわらず、痛みも何も感じる事ができずに麻痺していた霊魂が良心が、ますます浄められて、浄化されて、ほんのちょっとの罪でも、「あぁ、これは天主に背く事だ」と、それを避けるようになった、罪がきれいに赦されて、そして新たな天主の命を生きるようになった。それが起こっています。

今まで、良心の声と天主の声を聞く事ができなかった、あるいは真理を、本当の事を聞いても分からなかった人が、はっきり、イエズス様の教えが何か、十字架とは何か、祈りとは何か、私たちの本当の人生の目的とは何か、何の為に生きているのか、という事が聞いて分かるようになった、耳が開けた、声が分かるようになった、声が聞き分けられる、これとこれは何が本物で何が嘘か、分かるようになった。

貧しかった私たちに、本当の幸せの訪れが、喜ばしい訪れが与えられています。天主の御恵みが、聖寵が与えられています。イエズス様の最も大切な、最も核心は、イエズス様の私たちに与えたいと思っているものは、まさにこの霊的なものでした。永遠に関する事でした。

イエズス様はそして言います。本当の喜び、本当の幸せ、クリスマスの本当の意味はこれなのだけれども、しかしそれを誤解すると、その時、それを誤解してしまうと、私たちせっかくのクリスマスが、あるいはベトレヘムであったように、あるいはエルサレムであったように、イエズス様を受け入れる事ができなくなってしまう、「私につまずかない人は幸い。」


⑵では第2の点は、イエズス様にどのような事で躓いてしまうのでしょうか?

昔のユダヤ人たちは、イエズス様の事をあまりにも物質的に、あまりにも感覚的に、あるいはこの地上の事だけに、あるいは政治的な、そんなメシアを期待するようになってしまいました。

旧約聖書の深い意味はそうではなかったにもかかわらず、イエズス・キリストというメシアを誤解してしまいました。「メシアは、ユダヤの民族を霊的に高める事によって、天主の高みまで高める事によって、罪の赦しを得るが為に、天主のような心を持つ事によって高められる、天主によって高められる」というよりは、むしろ、政治的な傲慢心と支配心を満足させるのがメシアであるかのように、錯覚してしまいました、「ローマ帝国から独立する。異教のローマをギャフンと言わせる。征服者に対抗する、反乱する。テロを起こす。」

いや、イエズス様は、テロリストでも政治的なリーダーとしてでもなく、謙遜な幼子として、屈辱を受ける者として、王として、私たちの代わりに罪の償いの為に苦しむ、十字架に磔られる王として、愛の王として、赦しの王として、私たちもイエズス様に真似するように、と模範を示す為に、霊的なメシアとしてお生まれになりました。

しかし逆説は、ユダヤ人たちが選んだ道は、却って奴隷化させるものであって、そして却ってイエズス様の霊的な道は、天主の聖寵の道は、罪の赦しの道は、却ってキリスト教徒を高める道となりました。

クリスマスに、「フランク族」という当時野蛮だった、ヨーロッパのガリアという所に住んでいた、昔ローマに征服された部族がいました。その王が部族の長が洗礼を受けました。洗礼を受ける事によって、その部下も一緒に洗礼を受けました。するとこのフランク族は、御恵みによって、世界の歴史をリードするような国になっていきました。これはたったほんの1つの例です。

昨日は無原罪の御孕りでしたが、幼きイエズス様は私たちに、「最も大切なものは何であるか」「天主である」と、「天主の御旨である」という事、そして「最も恐るべきものは何か」という事は、「罪である」事、そして「私たちにとって、罪の償いを進んでするという事が、罪の償いに協力するという事が、どれほど貴重であるか。イエズス様の贖いの業に参加する、一緒に働くという事がどれほど素晴らしい事であるか」という事を教えています。

昔のエルサレムはこれを理解できませんでした。地上の事、肉体の事に、目に見える事に囚われてしまっていたからです。その為に、あるいは今では、「ユダヤ民族が救世主である」あるいは「来たるべき救い主である」かのように考え、自分たちを考えています。
あるいは、イエズス・キリストを排除しようとする人は、「自分が、自分たちが、人間こそが、神々である。俺が決める」と、ますますそのような考えに染まる世は、ますます戦争と、混乱と、そしてどこに行くか方向を失っているかのようです。


⑶私たちはでは、今日どのような決心を取ったら良いでしょうか?

良いクリスマスを準備する為に、私たちがますますイエズス様の教え、霊的なものを、高く、「これこそが最も大切なものだ」という事をますます理解するように努めましょう。その為には一体どうしたら良いでしょうか?2つ提案があります。

1つは、「お祈り」です。なぜかというと、この世の人々は、お祈りという事をあまり大切に思いません。ともすると私たちも、その誘惑を受ける危険があります。なぜかというと、お祈りをしてもお金は儲からないし、と思えるし、お祈りをしても効果がないように思えるし、役に立たないようにも思えるし、時間の無駄のようにも思えるし、もっとそれよりも面白い事があるようにも思えるし、何か一人で(本当は一人ではないのですけれども)時間を無駄にしているように錯覚してしまいます。

しかし、クリスマスが本当に霊的な、私たちに霊的に価値があるものとする為に、お祈りに時間を使う事に致しましょう。

第2に、私たちはこの地上の目に見える事に、あるいは自分の能力と仕事に、とても信頼を置いているので、天主様にあまり信頼を置いていないかのように行動します。それなので、私たちは「犠牲」を、イエズス様へのプレゼントとして何かお捧げ致しましょう。

例えば私たちが、「あぁ、本当は今日この仕事をしなければならないのだけれども、他にもっと、産経新聞は何と新しい記事があるだろうか」あるいは「誰かとお電話をしたら気晴らしになるんじゃないか」あるいは「お酒を飲んで腹を立った事を忘れよう」あるいは、どこか「本当は行ってはいけないような所に行ってしまおう」あるいは「私の義務は後回しにしよう。テレビを見よう」という代わりに、私たちがイエズス様の為に犠牲として、私たちのこの仕事を、あるいは私たちの受ける屈辱を、私たちの受ける十字架を、お捧げ致しましょう。そしてそれをクリスマスの時に、イエズス様にお捧げ致しましょう。

口で言うのは簡単ですけれども、これが実行できる為に、マリア様に御助けを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【聖ピオ十世会】2019年新春の聖伝のミサ(ラテン語ミサ、旧典礼のミサ、トリエント・ミサ)の報告

2019年01月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 新年の最初の聖伝のミサを日本で捧げることができて大変幸福でした。
 1月4日(初金)と1月5日(初土)と大阪でミサを捧げました。金曜日には七名の子供たちがミサに与り、土曜日には四名の子供たちがミサに与ることができました。両日、ミサの後の祈りの後、幼きイエズス様の御像への接吻も行いました。
 1月4日には、初金の御聖体降福式が執行され、
 1月5日には、日本と世界の平和を求めて、年の最初のファチマの聖母行列が行われました。この日は名古屋から八名の方々がミサに参加されました!去年よりも更に多くの方がこの新年の聖母行列に参加されて非常に嬉しく思います。

 東京では、1月6日の御公現のミサを御捧げいたしました。新年最初の東京でのミサに多くの愛する兄弟姉妹の皆様が与ることが出来ました。
 この日は、ミサの後の祈りの後、日本と世界の平和を求めるための月の第一主日にある御聖体降福式、幼きイエズスへの接吻、御公現のチョークの祝別を行いました。
 4時頃から御公現の祝日の晩課もグレゴリオ聖歌で歌いました。天主様に感謝!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッション、ありがとうございました。
年始の初金、初土に御ミサに与る事が出来てたことを天主様に感謝します!
今年も聖伝の信仰に多くの方々が導かれ、実りのある年になる事をお祈りしています。

大阪での御ミサの報告をお送り致します。
1月4日初金 至聖なるイエズスの聖心のミサには23名が、
1月5日初土 聖母の汚れなき御心のミサにも23名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ グラチアス!
金曜日には子供達が7人、土曜日には4人来られて、年始から嬉しい光景でした。

初金曜日には御ミサの後に御聖体降福式をして頂き、この一年をご聖体に在すイエズス様に直接お捧げでき、一年の決心をたてました。
この日のミサのお説教で、ご降誕されたイエズス様について黙想しました事を思い出しながら、ロザリオも唱えました。

初土曜日のお説教ではご公現の神秘について黙想いたしました。
ミサの後、小休憩をとった後、すぐに聖母行列をしました。電車の都合で帰られたお一人以外は信徒全員が参加しました。

お聖堂を出発してロザリオと聖歌を繰り返しながらマリア様を担ぎながら歩き、途中の公園の見晴らし台で聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心へ奉献する祈りをとなえ、サルベ・レジナをソレムトーンで歌い、また聖歌を歌いながらお聖堂へ引き返しました。
世界中で、2019年の初土曜日に、聖母行列のお恵みを受けている所が一体どれくらいあるだろうか?と思うとこのような大きなお恵みを頂けた事に感謝が溢れました。

聖母行列の後、昼食をとり、お聖堂に戻ってから4人の子供達と公教要理の勉強をしたのですが、この度は神父様のお説教から色々な事を質問することにしていました。小学3、4、6年生の男の子たちに金曜日と土曜日二日間にわたっての神父様のお説教について色々こまごまと質問したところ、3人とも本当に良くお説教を聞いていて、殆んど何を聞いてもパーフェクトでお答えになったのでびっくりしました。公教要理の後も初土曜日の信心の一環として、お聖堂でひざまずいて幼きイエズス様について黙想する子供達の姿に神父様も関心されていました。

年始から美しいカトリック的な光景を沢山見ることが出来ましたが、イエズス様を知らない多くの人々がこのような幸福を一緒に味わうことができますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 27人(内、子供4人)
女: 29人(内、子供5人)
計: 56人(内、子供9人)

【報告】
Ave Maria Immaculata!

御公現の大祝日のミサをありがとうございます。
御公現のミサ(Ecce Advenit)は待降節(Adventus)から続くクリスマスのミサの完成となるものだと教えていただき、イエズス様がこの世にやってきてくださいましたことを、もう一度、深く味わうことができました。この日のミサは非常に美しく完璧な構造をしているということ、旧約の預言が新約で成就していることがよくわかる典礼になっているということにも気をつけながら黙想しました。

クリスマスのときは、イエズス様が私たちに贈り物を持ってきてくださいました、ご公現の大祝日では、私たちのほうが贈り物を捧げるのですと言われましたが、私には捧げるにふさわしいもの高貴なものも立派な美しいものがないと思いました。

この日は、花嫁である霊魂の花婿として来られるイエズス様との婚姻のための大祝賀会が開かれ水がワインに替えられたことも祝われ歌われるそうです。(晩課で、結婚式で水がワインに変わった奇跡、三人の東の国から来た博士、イエズス様が水で洗礼を授けられたことをラテン語で歌ったことが印象に残りました。)

神父様のお話から、贈り物とは純金のような愛と信心、乳香のような祈りとぎせい、没薬のようにイエズス様の精神を腐敗させないようにすること、それらだけにとどまらず、同時にご聖体拝領において自分自身をも捧げるのだと教えていただきました。このご公現の日に、霊魂が花婿であるイエズス様と一つになる神秘も象徴されるということで、この日が大祝日であることを納得いたしました。確かに、サバやマディランからやってくる宝物を満載させてやって来る商人とラクダの群れを成す隊列がエルサレムの栄光を讃える場面のイザイア預言書の描写はみごとなまでの絢爛さです。本当に、幼子イエズス様は全世界を支配している最高の王であるからこそと思います。

クリスマスは愛にかられ人間を救うためだけに地上にイエズス様がやって来られた測り知れない歓びの日であったが、この日はその愛に愛を以ってこたえようと遠く東方の国々からの博士が礼拝をささげようとやってきたということが祝われているということも、お話しいただきました。旧約の預言がこの場面で確かに成就されたことが示されていると思いました。私たちは、この日は、東の国の博士としてイエズス様の栄光の御前にひれ伏しひざまずいて礼拝をさせていただいていると思いました。

この東の国の博士たちは異邦人であるのに、遠い地に本当の王であり本当の救い主が生まれることを知り、研究と探求を重ね、険しい旅とを乗り越えてエルサレムにたどり着き、さらにヘロデ王のもとにまで行って尋ねて、ようやくのことで見事に無事にベトレヘムのちいさな町の洞窟のようなみすぼらしい場所にイエズス様を見出すことができました。

私もまったくカトリック信仰が微塵もないところで育ち大人になったのでまさに異邦人そのものですが、子供を産み育てるということをきっかけに本当の幸せとは何かを知らなければこの子供を本当に幸せにできないだろうと思い、真理を探し求める決意をしました。図書館で本を読み調べはじめても、なんの道しるべも道案内もなく、かえってマイナスの情報ばかり与えられているそんな感じで、真理を求める旅を始めたようなものでした。

今思い返すと、様々な危険ばかりがあり、どこに行っても見いだせず到達できないように思われるほどでした。至る所に偽りの教えが待ち構えていて、嘘のメッセージばかりが流布されていて、それなのにカトリック教会そのものも変更してしまっていると攻撃を受けていることは誰の目にも明らかなのです。何とこの世は恐ろしいもので溢れていることでしょう。現代とは、なんとも汚れた大淫婦のような都になっていて、偽りの誘惑に満ちていて、イエズス様を冒とくするような声が鳴り響いてるかのようです。

よくも、こういった中で、カトリック教会にたどり着くことができたかと思うと、その自分のような者にあまりにふさわしくないこの大きなお恵みに感謝いたします。

しかし、いったん、カトリック教会にたどり着いたものの、新しいミサをしている教会では、やっぱりここにはもうイエズス様がいないようだと感じられて仕方なくなってしまいました。別なところに探しに出かけなければ、永遠の生命を与えてくださるイエズス様には出会えないに違いないと思ってしまいました。それでもマリア様によってもう一度教会に戻していただきました。本当にマリア様によってでなければ戻していただけなかったでしょう。

実際のところ、エルサレムであるはずの教会にたどり着いたと思っても、現代版で言うところのそこに陰で統治するヘロデ王が君臨しているかのようであるかもしれません。

そこにずっといたら、霊魂の中に生まれようとするイエズス様は、教会に巧妙にはいり込んでしまっているこの世の王・この世の精神というヘロデ王によって殺されてしまうのではと、おかしな想像すらしてしまいました。偽りの誤魔化しの言葉、貧しい弱い信仰ながらも真実の愛である礼拝を堕落させ弱めさせようとする悪の力が陰で働いているようにさえ思いました。

どんなに苦しみ悩んだことでしょうか、ここにこそ、本当にイエズス様がいらっしゃるはずなのに、どうしてみんなは霊的に眠ったり酔っぱらったり地上のことだけしか興味がないような話をしたりしているのだろうか?と。・・・・。

イエズス様は、確かに伝承でベトレヘムに生まれ・・とありますこと、聖書にその母マリアと共にいると書かれてありますこと、それらをこの日確認できましたことをうれしく思いました。

星をみつけ、マリア様に抱かれるイエズス様を見つける旅をするすべての人が、是非ともベトレヘムの小さなうまやにたどり着くことが出来ますように、そしてそこで愛の贈り物を受けて霊的な贈り物を捧げることができるようになりますように。「その母マリアと共にまします幼児イエズスさまを見、ひれ伏して礼拝した」と、聖福音で読まれたように、このカトリック教会の誕生とともに最初からおられるマリア様の御心がもっとすべての人に知られるようになりますように・・、たくさんお祈りをしなければならないと思いました。

実際のところ、この教会の牧者は、ファチマのマリア様が秋田のマリア様が私たちに告げられたことをちゃんと守るように教えてくださる聖ピオ十世会、別名「イエズスとマリアの使途の会」の司祭です。ファチマのマリア様の伝えられた聖マリアの汚れなき御心の信心や、聖グリニョン・ド・モンフォールの残してくれた聖母マリアへのまことの信心や、コルベ神父様がつくられた通りのままの聖伝の無原罪聖母の騎士の精神が見いだせます。私は、ここで本当にマリア様とともに私たちを救ってくださる方である聖心のイエズス様を見出すことができたと思います。(ああ、でも、それでも、ここにさえもきっと、私たちの心の中に生まれるイエズス様が成長する前に残虐にも殺そうとする暴君や悪魔が、堕落させるチャンスをねらって、吠え盛りうろつき歩いているのかもしれませんけれど。それは教会の外にも教会の内にもどこにでもいるものなのでしょう。)

御公現のこの日、「ひかりもくすしき」や「くしくもてらす」や「Adeste Fideles」やほかのたくさんの聖歌を歌いました。みじめな弱い自分であるけれどもご聖体拝領にてお捧げさせていただきました。ご聖体降福式が荘厳に執り行われ、この一年の祝福を願いました。(マリア様ではなく小野田神父様でしたが)その腕に抱かれている幼子イエズス様にまたもう一度接吻させていただくことができ、うれしく思いました。

さらに、チョークの祝福というものもおこなわれ、各家の玄関に扉に書くための祝福されたチョークを皆でいただいて帰りました。扉には、20✝C✝M✝B✝19、と書くのだそうです。カスパールとバルタザールとメルキオールという三博士の略(頭文字)でもあるけれど、願わくはキリストがこの家を祝福してくださいますように!Christus Mansionem Benedicat との、略でもあるそうです。こんな古来からの仕来たりが今も世界各地にあることも、姉妹からスマホの写真を見せてもらって教えていただきました。

今年最初のミサ・完璧なほど美しい構成からなる典礼とご聖体降福式に与ることができましたこと、ご公現の玄義をわずかながらも感じ得ましたように思われ感謝申し上げます。小野田神父さまいつもありがとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い致します。

2018年12月1日(初土) アジア管区長パトリック・サマーズ神父様 東京のお説教「グアダルーペの聖母」

2019年01月09日 | お説教・霊的講話
2018年12月1日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
サマース神父様御説教(東京)
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、私はここを今日訪問する事ができてとても嬉しく思います。特に、この初土のマリア様の汚れなき御心に捧げられた日に来る事ができて嬉しく思います。

また12月の最初の日であり、12月はマリア様の多くの祝日があります。一週間も経たない内に、マリア様の無原罪の御孕りの祝日があります。またその数日後には、マリア様がメキシコの人々に御現れになったその祝日があります。

ところで、12月の全ては、マリア様の特別なやり方で崇敬されています。なぜかというと、御胎内にイエズス様をお持ちしたその最後の1ヶ月だからです。この事はいくつかの事と比較できます。「全ての命の源であるイエズス様を、マリア様がお運びになった」という事です。

マリア様の、グアダルーペのマリア様の祝日を見て下さい。このマリア様の御出現は、全人類がした中で最も血生臭い民族を、カトリックの信仰に変えた、その最初の瞬間でした。しかしメキシコだけが血を、人の血を好んだ民族ではありません。いえ、そうではなくて私たち、現代の私たちこそ、そして私たちの親の世代、そしてその祖父の世代こそ、人間の血を最も要求した人々でした。

アステカ帝国では、どれほどの人々がその人身御供として捧げられていたかという事を見ると、びっくりするほどです。それは特に、スペイン人の少数のグループがメキシコ市に入った時に、その血生臭い儀式を見てびっくりしました。スペイン人の、この戦いに慣れた男たちでさえも、この人身御供の恐ろしい儀式を見て非常に驚き、恐れました。なぜかというと、子供も女性も、毎日のように多くが、異教の神々に捧げられて、命を失われて、殺されていったからです。

コルテスとその一団がメキシコを制覇すると、すぐにこの人身御供の儀式を止めさせて、それを破壊しました。そして最初にコルテスがやった事は、その人身御供が捧げられていた血生臭い所を綺麗にして、マリア様の御像を置いた事です。そしてミサが捧げられました。なぜかというと、天主の御母の御力、そして天主の力によってのみ、これを綺麗にする事ができると知っていたからです。このモンテスマ王国でどのような事が行なわれて、どのようにしてそれをやめさせて、それを綺麗にしたか、という事についての本を是非お読みになる事をお勧めします。

ところで今は、その500年後の現代を見てみます。しかし私たちは、それよりももっとひどい状況に生きています。なぜかというと、現代世界はどこの国々も、御胎内に御子を宿した童貞女の事を忘れてしまっているからです。そしてもっと悪い事には、現代では幼い子供たちを、自分自身という神々の為に殺しているからです。

私たちもコルテスがそうだったように、そのような状況を見て、本当に嫌な、嫌悪感を抱きます。そしてコルテスの時代にも、メキシコ人たちと比べればスペイン人たちは全く小数で、数では比べ物にもならないほどのものでした。しかしその数の小数にもかかわらず、そのメキシコを綺麗にして、命をもたらそうと努めました。私たちも同じ事をしなければなりません。私たちがたとえ数が少なかったとしても、私たちの力の限り、何かをしなければなりません。マリア様と、そして私たちの主を、その玉座に戻さなければなりません。そしてその数年後から、マリア様はメキシコの回心を始めようとお望みになりました。

皆さんご存知の通り、その後ヨーロッパから聖なる宣教者たちがメキシコにやって来て、回心しようと努めました。しかしいくら努力しても、宣教師たちのその犠牲にも関わらず、多く回心する人はいませんでした。ところがマリア様は、非常に単純な農夫に現れて、そして御自分の姿を彼に残すのです。その為に、何百万人というメキシコ人が回心します。

私たちも同じ道を辿らなければなりません。私たちもマリア様とイエズス様の奉仕の為に、私たちを捧げましょう。マリア様が一番素晴らしい時に、一番素晴らしい方法で、多くの人を真の信仰へと回心させて下さいます。

原罪無くして宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り縋り奉る我らの為に祈り給え。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ビルコック神父の講話「プロテスタント主義とその政治的な帰結について」プロテスタント主義と政治との関係は?具体的に?実際に政治におけるプロテスタント主義の帰結はなんなのか?

2019年01月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話「プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)」の動画とその日本語訳の書き起こしのウェブ・サイトのページをご紹介いたします。

 この動画ではビルコック神父は次の疑問に答えようとします。

プロテスタント主義の理論は、政治の次元でどういった結果を起こすのか、起こしたのか?
プロテスタント主義と政治との関係はあるのか?
あるのなら、具体的にどのような関係なのか?
実際に、政治におけるプロテスタント主義の帰結はなんなのか?

プロテスタント主義とは要約すると何なのか?
ルター主義の中枢にある悲観主義とは何か?
プロテスタント主義による「義認」とは何か?カトリックの「義化」とどう違うのか?
プロテスタント主義によると、「信じる」とは何か?カトリックの「信仰」とどう違うのか?
ホッブスの政治理論とプロテスタント主義との関係は?
ジョン・ロックの政治理論とプロテスタント主義との関係は何か?

プロテスタント主義の特徴は何か?
何故プロテスタント主義には統一や一致がないのか?
何故プロテスタント主義は、絶対的な自由を主張するのか?
何故プロテスタント主義は、地上の富を選ぶようになるのか?
何故プロテスタント主義は、「人間中心主義の宗教」という種を含んでいるのか?

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?その1

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?その2

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?その3

どうぞご覧ください。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ゲルトルード・フォン・ル・フォールの『教会への讃歌』の中から「平和の元后への連祷 Litanei zur Regina Pacis」をご紹介します

2019年01月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日ゲルトルード・フォン・ル・フォールの『教会への讃歌』の中から「至聖なるイエズスの聖心の祝日にあたりての連祷」をご紹介しました。

 今回はフォン・ル・フォールが1951年に付け加えた「平和の元后への連祷 Litanei zur Regina Pacis」をご紹介します。(前田敬作・船山幸哉訳の日本語訳の『教会への讃歌』には訳出されていません。)2019年の今、「地上の平和は死なんばかり病んでいる」ように思えるからです。
ドイツ語はインターネット上には出てなかったので、Pierre Servaisのフランス語訳(Hymnes à l'Eglise, Edition Casterman, 1952)の "Litanie à la Reine de la Paix" から重訳しました。

平和の元后よ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


平和の元后への連祷
Litanei zur Regina Pacis (Königin des Friedens)


私たちの地上の平和のために祈ろう、何故なら地上の平和は死なんばかり病んでいるから。
優しい童貞マリアよ、地上を助けて下さい。私たちの憐れな世界の平和に、平和あれかしと言うように私たちを助けて下さい。
平和の霊によって挨拶された御身よ、私たちのために平和を得て下さい。
平和の御言葉を御胎内に宿された御身よ、私たちのために平和を得て下さい。
平和の聖なる幼子を与えた御身よ、私たちのために平和を得て下さい。
全てを和解させる方を助ける御身よ、
赦す方に常にハイと答える御身よ、
永遠の憐れみに捧げられた御方よ、私たちのために平和を得て下さい。
諸国の民々の野蛮な夜の中に光る慈悲の星よ、私たちは平和を望みます。
諸国の民々のハゲタカの中の優しさの鳩よ、私たちは平和を希求します。
彼らの心の枯れ果てた森の中で成長するオリーブの枝よ、私たちは平和を求めて焦燥します。
投獄された人々がついに解放されますように、
追放された人々が祖国に戻りますように、
全ての傷口らが閉じますように、私たちのために平和を得て下さい。
私たちの地上の魅力のために、私たちのために平和を得て下さい。
私たちの海の誰も犯さなかった御稜威よ、私たちのために平和を得て下さい。
私たちの山々の頂の純粋さのために、私たちのために平和を得て下さい。
おお、私たちの創造主から愛された御身よ、天主の被造物の最も祝福された御身よ、この被造の世界の代願者なる御身よ、私たちのために平和を得て下さい。
人々の苦悩のために、私たちは御身に平和を乞い求めます。
ゆりかごで眠る小さな赤子たちのために、私たちは御身に平和を乞い求めます。
自分たちの家で死ぬことを望んでいる多くの老人たちのために、私たちは御身に平和を乞い求めます。
身寄りの無いものたちの母なる御身よ、冷たい石の心の敵なる御身よ、
絶望の夜の内の輝く星よ、私たちは御身に平和を乞い求めます。
全ての戦場で血を滴らせながら死なんとする者たちに寄り添うた御身よ、平和を憐れみ給え。
爆弾が落ちているときに防空壕の中の私たちにまでおりてこられた御身よ、平和を憐れみ給え。
辱めを受けた不幸な女性たちを優しく受け入れた御身よ、平和を憐れみ給え、平和を憐れみ給え。
私たちと共に涙した御母よ、私たちと共に震えおののいた御母よ、
御母よ、御身の子供らとともに、慰められなかった御身よ、平和を憐れみ給え。
キリスト教世界について絶望したキリスト者たちのために、私たちの平和を救い給え。
既にキリスト教世界と共に行動する異教徒たちのために、私たちの平和を救い給え。
天主の似姿が暗くなろうとする全人類のために、救い給え、御母よ、平和を救い給え。
平和を救い給え、聖子のために。平和を救い給え。聖子は私たち全てのために空しく十字架につけられたのではなかった。
御母よ、御母よ、全ての人間たちのなかで最も苦しみに豊かだった方よ、滅びようとするこの世界を御腕に抱き給え。
私たちの周りには、かつて無かったほど惨(むご)たらしさと恐怖が支配しています。
しばしは、暗黒の長い夜は犯罪と流血を考えていると思わせるほどです。
御母よ、御母よ、私たちの平和は既に死んでいます。平和はもはや天国にしかありません。
人々が御身を取り除こうとするとき、御身は私たちと共に留まり給う。
たとえ軽蔑され給うとも、御身は愛で満たし給う。
たとえこの地上では御身の玉座はあまりにも壊れやすくすぐに崩れてしまいそうでありながら、御身は力強く留まり給う、私たちの平和を復活させるように天主に祈り給え。
願わくは、御身の墓に薔薇の花をまき散らし給た御方が、遅れることなく御身に平和の復活祭を与えて下さいますように。
羽ばたく羽根らのたつまきの内に、御身を天の輝きにおいて変容させるために天へと運び給うた御方が、すぐに御身に平和の復活祭を与えて下さいますように。
願わくは、御身の額に、私たちの将来の喜びである栄冠を被せ給う御方が、遅れることなく御身に平和の復活祭を与えて下さいますように。
御身は、生ける天主の花嫁、復活させる御方の御母、御身の天主の永遠の王国の元后。
アーメン、アーメン。はい、そうなることでしょう。
私たちの死んだ平和のための復活祭、ついにそれはあるでしょう。平和があるでしょう、不幸な世界の平和のために。


2018年12月2日待降節第一主日 サマーズ神父様お説教「待降節と世の終わり」

2019年01月08日 | お説教・霊的講話
2018年12月2日(主日)待降節第1主日のミサ
サマース神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、今日は新年の第1日目です。

私たちは去年の「典礼暦年」というイエズス様の生涯のサイクルを終わったばかりです。

ところで、今日の福音では私たちの主は、「世の終わり」と「最後の審判」について語られました。何かおかしいような感じがします。なぜかというと、新しい典礼暦年が始まるにもかかわらず、世の終わりについて話しているからです。「これは、一体どういう事だろうか?」

これには完璧な論理があります。なぜかというと「私たちが何か始める時には、一体どこに向かって始めるのか、その終わりが分かっていなければ、始める事ができないから」です。

まず私たちは、「この世には終わりがある」という事、そして「この人生にも終わりがある」という事、そしてその「終わりがある」という事が分かって初めて、そこに向かって人生を始める事ができるからです。

もしもこの世が全てであって、この世がもしも永遠に続くならば、それに従って私たちは生きなければなりません。しかし、もしもこの世が本当の一時的なものであって、数年の内に過ぎ去るものであって、終わってしまうものであるならば、私たちはそれに従った見方をしなければなりません。

私たちの主は、「私たち個人個人に終わりがあるように、この世にも終わりがある」という事を知らせています。そしてこの終わりを考えながら、私たちの主の御光来であるクリスマスを準備する3週間を始める事に致します。

そしてこのどうやって始めるかというと、私たち個人個人の人生の終わりを、まず私たち一人一人が黙想、反省しなければなりません。

聖フィリッポ・ネリが、イタリアの方ですが、この有名な話があります。ある若い青年が聖フィリッポ・ネリの元にやって来て、告解の秘跡を受けます。告解が終わった後で、聖フィリッポ・ネリは、この若い青年にいくつか質問をします。
「あなたは一体何をしているのですか?」
「神父様、私は大学で法学を勉強していて、後に法律家になります、弁護士になります。」
「おぉなるほど、頭が良いね。ではその後で何をするのかい?」
「はい神父様、その後では私は、良い弁護士として法律事務所を開いて、法律家として働きます。」
フィリッポ・ネリは答えて、「うん、それは大変よろしい。ではその後で君は何をするのか?」
「はい神父様、私はその後で、良い女性を見つけて、結婚して、良い家庭を作ります。」
フィリッポ・ネリは答えて、「おぉ大変良い話だ。ではその後では何をするのかい?」
「はい、私は家族の面倒を見て、また年を重ねていきます。」
「うん、確かに。で、その後で?」
すると青年は、「う〜ん、ちょっと分かりません。何をしようか。」
するとフィリッポ・ネリが答えて、「そこが問題なんだよ。確かに君はこの地上での生活の計画を立てているけれども、その後で何が起こるかよく分かっていない。この次の、これから起こる5分後の事についての計画は、永遠の為のものではない。」

もしもこの私たちの計画する数年の事が、永遠のものに繋がるのでなければ、繋がるようにする事が賢い計画の仕方ではないでしょうか。ちょうど子供が、何時間も、何日も、何週間もかけて、雪で、雪だるまを一生懸命冬の間、毎日毎日一生懸命作っている子供のようです。お父さんとお母さんは、「おぉ、我が子よ、この雪だるまはとっても可愛いけれども、でも春が来るのよ。お前は、お前の冬の時間と、全ての才能と、全ての熱情を、この雪だるまを作るのに使っているけれども、冬が過ぎたらどうなるの。」

私たちはこの事を言われるのがあまり好きではないのですけれども、言われなければなりません。私たちはこの嘘を信じたいといつも思っていますが、その嘘というのは、私たちがいつも若くて、美しくて、健康であるという事です。

しかし真理こそが、私たちを聖なる者として、聖人として作り上げます。その真理とは、私たちの終わりの事です。そしてこの永遠の事を思うが故に、この地上での苦しみや、大変な事、あるいは難しい事も、簡単に忍耐、この困難を克服する事ができるようになります。なぜかというと、いかに苦しい事であっても、終わりがあるからです。それは、「苦しみに終わりがある」というのは良い事ではないでしょうか?

でも、もしもこの苦しみが何十年もあって、その「苦しみに終わりがない」と言われたら、一体私はそれを耐える事ができるでしょうか。これが、罪の内に死んでいく霊魂たちの絶望の状態です。

しかしその反対は、「この地上は、本当の一時的なものだ」という事を知っている人々です。サルヴェ・レジナのお祈りにもありますように、この私たちは一時的に、涙の谷に住んでいます。確かに何らかの喜びも、幸せも、幸福もありますけれども、それは永久に続くものではありません、この涙の谷では。私たちがこの地上で願っている公平さとか、正義とかというものは、この世の終わりに満足されます。なぜかというと天主様は、私たちの全ての苦しみと、全ての悲しみをよく御存知であって、それの100倍を、後の世で報いとして与えて下さるからです。

ですからこの待降節の間、最も神聖な聖家族に、私たちの目を向ける事にしましょう。聖ヨゼフには、私たちに聖なる死を迎える御恵みを乞い求めましょう。そして私たちの主イエズス・キリストとマリア様には、私たちが聖徳に進む、その御恵みを乞い求めましょう。そして私たちが聖寵の状態において死ぬ事ができ、そして永遠の報いを受ける事ができる、という喜びの内に死ぬ事ができる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2018年12月1日(初土) 御聖体降福式にて「御告げの玄義の黙想」

2019年01月07日 | お説教・霊的講話
喜びの玄義 第1玄義の黙想
(2018年12月1日(初土)御聖体降福式にて 小野田神父)


『喜びの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、謙遜の徳をこい願わん。』


御聖体の内に真に在すイエズス様の聖心の御前で、初土の15分の黙想を致しましょう。

今日は特に、もしも皆さんよろしければ、御告げの、喜びの玄義の最初の、御告げの玄義を黙想致しましょう。

天主三位一体がどうしても、人類の力では全く無能であった罪の償いの為に、聖子は人となる事を御望みになりました。聖父は聖子をこの世に送る事を望まれました。

天使たちの犠牲でも、人類のどれほど聖なる人々の犠牲でも、私たちの罪を償う事はできませんでした。地獄へ行くばかりの、救いのない人類に、天主聖子が人となる事を御望みになりました。天主聖父を愛するが為に、私たちを愛するが為に、私たちに全てを、御自らの御命全てを与える為に、私たちを愛するがあまり、私たちと共に居たいがあまり、天主の聖子という高貴さをも顧みず、人となる事を御望みになりました。

天主聖子は、大天使聖ガブリエルを遣わして、人類の代表者であるマリア様に、その事を提案します。マリア様が、「はい」と言えば、この世の救い主は来ますが、もしもお断りになれば、それは得る事ができませんでした。

イエズス様の人類に対する、とてつもない愛を黙想する事を提案します。

イエズス様は、天主でありながら、いとも小さき人となって、私たちに「一体何が最も大切なのか」を教えてくれます。

私はどれほど、「人からすごいと言われよう」とか、「人からどのように見られよう」とか、どれほど気にしてきた事でしょうか。「この世でどれほど楽をしようか」、「どれほど面白おかしく生活しようか」、あたかも天主様がいらっしゃらないかのように、あたかも自分が王様であるかのように、あたかも従う事が嫌であるかのように、自分の思い通りにする為にしてきた事でしょうか。

天主であるイエズス様はその反対に、「天主聖父からどのように思われるか」、「世の罪の償いをどのようにして果たすか」、「聖父をどのようにして愛するか」、「人類を私たちを愛するか」従う事、慎ましい、謙遜である事、永遠の価値だけを考えておられました。

光はこの世に来られたのですが、この世はそれを悟ろうとしませんでした。

「私の心の闇を取り去ってください。イエズス様を受け入れる事が、良いクリスマスを迎える事ができますように、イエズス様の愛を理解する事ができますように、最も大切な事が何かを理解する事ができますように。」

15分間の黙想の終わりに、ファチマの第2の祈りを、3回唱えます。

2018年12月1日(初土) アジア管区長パトリック・サマーズ神父様 大阪のお説教「待降節の始めに」

2019年01月06日 | お説教・霊的講話
2018年12月1日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
アジア管区長 サマース神父様御説教(大阪)
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、このマリア様の汚れなき御心の偉大な祝日を、このマリア様の汚れなき御心の聖堂で今、祝っています。

特に12月の最初の日で、12月はマリア様の祝日でいっぱいに詰まっています。一週間後には、マリア様の祝日の中で偉大なものの内の1つである、無原罪の御孕りの祝日が待っています。それからその数日後には、メキシコでマリア様が御出現になった大きな祝日があります。そしてこの御出現のおかげで、インディオたちが数百万人とカトリックに回心しました。

そしてこの12月のこの全ては、マリア様が幼きイエズス様を胎内に御宿しになったその最後の日々を祝っています。9ヶ月の間、天主の聖子をご自分の胎内に宿してそして一緒におられたという事は、何という大きな特権でしょうか。ですから私たちが御聖体拝領する時にも、マリア様の御助けを求めるのを必要としています。なぜかというと、私たちも同じイエズス・キリスト様を私たちの体に運ばなければならないからです、御聖体拝領の後には。

では、マリア様には一体どうしてこのような偉大な特権が与えられたのでしょうか?

天主は、永遠の昔から、唯一の完璧な被造物を準備して、計画していました。罪によって一つも触れられた事のない一人の人間を、永遠の昔から御計画されていました。天主聖父と天主聖子がその愛したその対象は、私たちの人間の言葉では描写する事ができないほどの深い愛があります。永遠の昔から、「最も完璧な被造物が、天主聖子をお産みになる」という計画がありました。

この事を考えると、マリア様、童貞聖マリア様の価値がどれほど偉大なものであるか、という事を推定する事ができます。天主聖父が最も愛する聖子をお産みになるべき、完璧な被造物としてデザインされて、計画されたのが、このマリア様です。

ですからマリア様は、私たちがあるべき、そして私たちがありたいと思うべきの、最高の模範としてあります。つまりマリア様の美しさ、マリア様の清らかさ、そして慎ましさがそうです。マリア様の聖徳、そしてその力強さ、そして天主への愛がそうです。なぜならマリア様は、天主の最高の被造物だからです。

私たちにそのような真似るべき模範が与えられた、という事は何という大きな慰めでしょうか。

明日から、イエズス様の御誕生を準備する待降節が、23日間が始まります。私たちはその最初に、マリア様に助けを求めるという特権が与えられました。ですから、マリア様のようにイエズス様をクリスマスの日に、私たちもイエズス様を受ける事ができる準備ができるように、お祈り致しましょう。

聖母の汚れなき御心よ、我らの為に祈り給え。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

明日、1月5日は初土曜日です。聖伝のミサの後、ファチマの聖母行列を日本と世界の平和のために御捧げいたしましょう。

2019年01月04日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は2019年の初金曜日です。大阪では、イエズスの至聖なる聖心の随意ミサを聖伝のミサで行い、その直後にいつものように聖時間を御捧げいたしましょう。

 明日、1月5日は初土曜日です。去年のように、聖伝のミサの後、簡単な軽食(おにぎりなど)をいただいた後、ファチマの聖母行列を行いましょう。特に、日本と世界の平和のために御捧げいたしましょう。多くの愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2019年1月6日には東京で主の御公現(一級祝日 典礼色:白)の聖伝のミサがあります。ミサの固有文をご紹介いたします。

2019年01月04日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 2019年1月6日には東京で主の御公現(一級祝日 典礼色:白)の聖伝のミサがあります。ミサの固有文をご紹介いたします。

ミサ聖祭(指定巡礼聖堂 聖ペトロ大聖堂)
四世紀末までに東方教会では、御降誕の大祝日の日に御公現を祝っていたが、五世紀に入ってから、ローマ公教会の習慣に従うようになった。そこでローマ公教会では、御公現の祝日を取り入れて、一月六日に祝うことに定めた。
御公現は、人間の中に天主の御子が出現したこと、特に、キリストの天主性を表す出来事、すなわち、博士らの礼拝、鳩のような形で聖霊の下り給うたイエズス受洗のとき、カナにおける奇蹟、などを祝うのである。遠い東国から礼拝に来た博士たちの事件は、イエズスがこの世にもたらした救いこそ、万民のものであることを表している。貧しい御誕生の有様であったが、しかしキリストは、王としてこの世に来給うた。<入祭文>
イエズスの貧しさは、イエズスの王国がこの世のものではないことを、人間に告げる。イエズスが重視することは、人間の重視しているものと同じではない。<書簡>で語られるエルザレムは、王にして大司祭なるキリストの光栄と勢力とに満ちた聖なる公教会のことである。洗礼・堅振・聖体によって、キリスト信者は、主イエズスに完全な礼拝をせねばならぬ。われらは、愛の黄金、祈りの乳香、労苦の没薬をもって、礼拝せねばならぬ。キリストと一致して捧げるこの供え物は、必ず天主に嘉せられるであろう。
希腊原文“爱比法尼”、意即“显现”,因而称为“主显节”。在圣诞瞻礼、我们庆祝天主圣子显现给犹太人,在主显节所庆祝的,是祂显现给代表普世万民的三王。祂因着天上奇异的星光、呼唤及引导了三王归向于己,这便是祂肯定自己降临于世,是为拯救一般的人,并为聚集他们于祂的王国之中。这个王国便是教会,也便是今天书信中所指新的耶路撒冷。罗马的圣伯多禄堂,也即整个教会元首——教宗的堂,被称为“普世万民堂”。我们一般的人该在精神上会聚在那里,以庆祝召唤万民归向信德及数恩于基督王国中的佳节。
弥撒:今天圣教会向天主呼求的,不外下列主要的两点:为一般尚坐在罪恶的黑暗、及死亡的阴影之中的教外人,她求信德的特恩,使他们获得基督的真光,并列入于祂的王国之中。至于为一般的基督信徒、圣教所祈求的,便是一个更强烈的忠实之恩宠,为追随基督的真光。追随真光的终点,便是天主在天将完全显示自己使,我们将享见祂固有的荣耀。目前追随主的星光,便是指我们应遵循心中圣宠的灵感。我们追随主的星光,应有一个正比例:我们越追随,它便越显示给我们;(若14:21)它越显示,我们便越向光明;这样到了最后,便达到天上具有万福万乐的“主显”。

IN EPIPHANIA DOMINI (Die 6 Ianuarii) 主の御公現(一月六日) 主显瞻礼
I classis 一級祝日 一等复式【白】
Statio ad S. Petrum 指定巡礼聖堂。聖ペトロ大聖堂 集合祈祷于圣伯多禄堂
Ant. ad Introitum. Malach. 3, 1 ; 1 Par. 29, 12. 入祭文  マラキア3ノ1、歴代史略上29ノ12 台咏(拉3:1;咏71:1)
Ecce, advénit dominátor Dóminus : et regnum in manu eius et potéstas et impérium. 見よ、王なる主が来給うた。その御手には、王権と勢力と統治とがある。 看哪!天地的主宰已来掌有王、能力和权势
Ps. 71, 1. 詩篇71ノ1 咏71:1
Deus, iudícium tuum Regi da : et iustítiam tuam Fílio Regis. 天主よ、王に審判の権を与え給え。王の子に、立法権を与え給え。 天主啊!求祢将判的赐给王,将祢的正义赐与王的儿子。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)。 光荣于父…
Ecce, advénit dominátor Dóminus : et regnum in manu eius et potéstas et impérium. 見よ、王なる主が来給うた。その御手には、王権と勢力と統治とがある。 看哪!天地的主宰已来掌有王、能力和权势
Oratio. 集祷文 集祷
Deus, qui hodiérna die Unigénitum tuum géntibus stella duce revelásti : concéde propítius ; ut, qui iam te ex fide cognóvimus, usque ad contemplándam spéciem tuæ celsitúdinis perducámur. Per eúndem Dóminum nostrum. この偉大な日に、星をもって異邦人を導き、彼らに御独り子を示し給うた天主よ、願わくは、信仰によって主を認めたわれらにも、主のみいずの輝きを眺めさせ給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において・・・。 天主,祢当日曾藉异星的引示了祢的独子于外邦人。我们现在既因信德之光而认识了祢,求祢引直至将来能觐见祢——至高者的圣容。因我主……。
Léctio Isaíæ Prophétæ. イザイア予言書の朗読。
Is. 60, 1-6. イザイア  60ノ1-6 依60:1-6
Surge, illumináre, Ierúsalem : quia venit lumen tuum, et glória Dómini super te orta est. Quia ecce, ténebræ opérient terram et caligo pópulos : super te autem oriétur Dóminus, et glória eius in te vidébitur. Et ambulábunt gentes in lúmine tuo, et reges in splendóre ortus tui. Leva in circúitu óculos tuos, et vide : omnes isti congregáti sunt, venérunt tibi : fílii tui de longe vénient, et fíliæ tuæ de látere surgent. Tunc vidébis et áfflues, mirábitur et dilatábitur cor tuum, quando convérsa fúerit ad te multitúdo maris, fortitúdo géntium vénerit tibi. Inundátio camelórum opériet te, dromedárii Mádian et Epha : omnes de Saba vénient, aurum et thus deferéntes, et laudem Dómino annuntiántes. エルザレムよ、起きて輝け。汝の光、主の光栄は汝の上に現れた。見よ、闇は地上を覆い、暗さは地上の民を覆う。しかし、汝の上に主は上り給うた。そして、汝において、主の光栄は明らかにされるであろう。諸国は、汝の光のうちを歩み、王たちは、汝のあかつきの光のうちを歩む。目を上げて、あたりを見回せ。皆は集まり、汝の方に来る。汝の子は遠くより集い、汝の娘たちは四方に生まれるであろう。見よ、汝は、人々の集い寄るのを見て、驚くであろう。海の幸がこちらに流れ、強い民が汝に集まるとき、汝は心騒ぎ、かつ喜ぶであろう。マディアンとエファとのらくだと幇牛(ほうとう)の群れは、大波のように汝の方に集まるであろう。皆、黄金と乳香とを持ち、主を讃美しつつ、サバより来るであろう。 耶路撒冷啊!起来炫耀!因你的光明已来到,上主的光照耀在你身上。看哪!黑暗罩着大地,阴云蒙蔽着万民;但上主却照耀着你,的荣耀在你身上。万民都要奔赴你的光明,王必要投你的光起你的眼来望吧!他都聚集起来,到你里来:你的众子要来自,你的女儿要被人在怀中抱回来。那、你情形,必要喜形于色,你的心灵必要激而舒,因海洋的珍宝都要属于你,万民的富都要于你。成群结队骆驼,以及由米德和赫法来的独峰,要遍于你境内,色巴人都要来,他都要着黄金和乳香,来称上主的荣耀。
Graduale. Ibid., 6 et 1. 昇階誦 イザイア 60ノ6,1 咏(依60:6,1)
Omnes de Saba vénient, aurum et thus deferéntes, et laudem Dómino annuntiántes. 皆、黄金と乳香とを持ち、主を讃美しつつ、サバより来るであろう。 色巴人都要来,他都要着黄金和乳香,来称上主的荣耀。
V/. Surge et illumináre, Ierúsalem : quia glória Dómini super te orta est. V/. エルザレムよ、起きて輝け。主の光栄は汝の上に現れた。 耶路撒冷啊!起来炫耀吧!因上主的的光照耀在你身上。
Allelúia, allelúia. V/.Matth. 2, 2. Vídimus stellam eius in Oriénte, et vénimus cum munéribus adoráre Dóminum. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。 V/.マテオ2ノ2 われらは、東で、彼の星を見、礼物を持って、彼を拝みに来た。アレルヤ。 阿肋路,阿肋路。(2:2)我方看到了的星,我们带着礼物来朝拜。阿肋路
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。 福音
Matth. 2, 1-12. マテオ 2ノ1-12 2:1-12
Cum natus esset Iesus in Béthlehem Iuda in diébus Heródis regis, ecce, Magi ab Oriénte venerunt Ierosólymam, dicéntes : Ubi est, qui natus est rex Iudæórum ? Vidimus enim stellam eius in Oriénte, et vénimus adoráre eum. Audiens autem Heródes rex, turbatus est, et omnis Ierosólyma cum illo. Et cóngregans omnes principes sacerdotum et scribas pópuli, sciscitabátur ab eis, ubi Christus nasceretur. At illi dixérunt ei : In Béthlehem Iudæ : sic enim scriptum est per Prophétam : Et tu, Béthlehem terra Iuda, nequaquam mínima es in princípibus Iuda ; ex te enim éxiet dux, qui regat pópulum meum Israël. Tunc Heródes, clam vocátis Magis, diligénter dídicit ab eis tempus stellæ, quæ appáruit eis : et mittens illos in Béthlehem, dixit : Ite, et interrogáte diligénter de púero : et cum invenéritis, renuntiáte mihi, ut et ego véniens adórem eum. Qui cum audíssent regem, abiérunt. Et ecce, stella, quam víderant in Oriénte, antecedébat eos, usque dum véniens staret supra, ubi erat Puer. Vidéntes autem stellam, gavísi sunt gáudio magno valde. Et intrántes domum, invenérunt Púerum cum María Matre eius, (hic genuflectitur) et procidéntes adoravérunt eum. Et, apértis thesáuris suis, obtulérunt ei múnera, aurum, thus et myrrham. Et responso accépto in somnis, ne redírent ad Heródem, per aliam viam revérsi sunt in regiónem suam. そのころ、イエズスは、ヘロデ王の時、ユダヤのベトレヘムに生まれ給うたが、見よ、東からある博士たちがエルザレムに来て、「生まれ給うたユダヤ人の王は、いずこにましますか。われらは東で彼の星を見、彼を拝みに来た」と尋ねた。これを聞いてヘロデ王は悩み惑い、彼と同じくエルザレムの皆もそうだった。王は、すべての司祭長と民間の律法学士らを集めて、キリストはどこに生まれるのかと問いただした。彼らは答えた、「ユダヤのベトレヘムに、予言者が次のように書いているからであります。『ユダの地ベトレヘムよ、汝はユダの町の中で最も小さいものではない、なぜなら、汝から、わが民イスラエルを牧すべき一人の君が出るからである』」と。そこでヘロデは、ひそかに博士たちを招いて、星の現われた時を詳しく聞きただし、彼らをベトレヘムに遣わそうとして言った、「行って、細かに幼児(おさなご)のことを尋ね、彼を見出すならば予に告げよ、予も行って彼を拝もう」。彼らは王の言葉を聞いて出かけたが、見よ、東で見た星が先立ち、幼児のましますところの上に止まった。彼らは星を見て喜びにあふれ、家に入って、幼児がその母マリアと共にましますのを見、(ここで、ひざまずく)ひれ伏して拝し、宝箱を開けて、黄金、乳香、没薬の礼物を献げた。そして夢の中に、ヘロデのところに帰るなと御告げを受けたので、他の途をとって自分の国に去った。 在黑落德王的代,耶稣诞生在犹大的白冷。有几个士从方来到耶路撒冷。他们说:“新生的犹太王在那里?因方看的星,我来朝拜。”黑落德王听了,不安起来,整个的耶路撒冷同他不安。他就召集众司祭和民经师,向他们询问基督生在那里。他回答他:“在犹大的白冷,因先知记载说:‘而你,白冷,犹大之地,你决不是犹太城中最小的一座,因一位袖将从你那里出来;将牧我伊撒民族。’”于是黑落德暗暗地召了士来,仔细盘问星出日,然后遣他到白冷去、:“你去仔细寻访孩,到了,回我,好叫我也去朝拜。”他听了王的去了。在到的星、走在他之前,一直到孩所在的地方,停在上面。他们见了星,就非常的欣喜入屋内,他们见孩和的母亲玛,就俯伏朝拜孩;再打开他的宝盒,献上礼物:黄金、乳香、没。此后,因梦中受到指示,不要回到黑落德那里,他就从的路、回
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 71, 10-11. 奉献文 詩篇 71ノ10-11 奉献(咏71:10-11)
Reges Tharsis, et ínsulæ múnera ófferent : reges Arabum et Saba dona addúcent : et adorábunt eum omnes reges terræ, omnes gentes sérvient ei. タルシスと島々の王は、捧げ物を彼に捧げる。アラビアとサバの王たちは、礼物を持って来る。地上の王たちは彼を拝し、すべての民は彼に服従する。 施与海王、要献礼物;阿刺伯及色巴的王必要前来进贡王必要崇拜,万民必要奉事
Secreta. 密誦 密祷
Ecclésiæ tuæ, quæsumus, Dómine, dona propítius intuere : quibus non iam aurum, thus et myrrha profertur ; sed quod eisdem munéribus declarátur, immolátur et súmitur, Iesus Christus, fílius tuus, Dóminus noster : Qui tecum vivit. 主よ、願わくは、主の公教会の捧げ物をかえりみ給え。この捧げ物をもって、われらはもはや黄金・乳香・没薬を捧げるのではなく、われらの主なる御子イエズス・キリストが、意味され、捧げられ、拝領されるのである。御身と共に、天主として、聖霊との一致において・・・。 主,求祢垂祢教会的礼物。我们现在所献的已不是黄金、乳香和没,却是藉此三礼所表示、做神粮的祢的子、我主、耶基督。和祢……。
Præfatio et Communicántes propria. 序誦  御公現の序誦  
Ant. ad Communionem. Matth. 2, 2. 聖体拝領誦  マテオ 2ノ2 主咏(2:2)
Vídimus stellam eius in Oriénte, et vénimus cum munéribus adoráre Dóminum. われらは、東で、彼の星を見、礼物を持って、彼を拝みに来た。 方看到了的星,我们带着礼物来朝拜
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Præsta, quǽsumus, omnípotens Deus : ut, quæ sollémni celebrámus officio, purificátæ mentis intellegéntia consequámur. Per Dóminum nostrum. 全能の天主よ、願わくは、われらが、荘厳な典礼によって祝い奉った奥義を、浄められた心でもって受けうるようになし給え。天主として、聖霊との一致において・・・。 全能的天主,求祢恩,能以化了的心智、悟我在今日的大典中所祝的奥迹。因我主……。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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