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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

マルセル・ルフェーブル大司教が1976年6月29日にした歴史的な説教:聖伝を維持しながらこそ、ペトロの後継者(教皇)に対する私たちの愛と素直さと従順を表すことができる

2019年01月29日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 マルセル・ルフェーブル大司教が1976年6月29日にエコンの神学校でなさった歴史的な説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日

 愛する兄弟の皆さん、あらゆる国々、四方の彼方から来て下さった兄弟たちよ、私たちは、今、私たちの聖ピオ十世会にとって、又、教会にとって、非常に重要なこのときに、兄弟たちを歓迎することが出来て、又、兄弟たちをこれほど身近に感じることができ、大きな喜びを感じています。

 私は思います。巡礼者の皆さんが非常に遠く離れたところから、この儀式に参加するために、夜昼と無く旅をする犠牲を払ったのは、皆さんに、信念があったからであると。それは、教会の儀式に参加するために、心を喜ばせる儀式に参与するために来た、と言う信念です。なぜなら、皆さんが帰路につくときには、カトリック教会は続いていると安心するであろうからです。

 はい、私はよく知っています。このことをするに困難はたくさんあることを。こんなことをするのはむちゃだと私は言われました。私たちは行き止まりの道を歩んでいるとも、言われました。なぜなら、3ヶ月前から、3月19日の聖ヨゼフの祝日から特に、ローマから懇願や要請、命令、威嚇などがありました。それは、私たちの活動を止めるように、この司祭叙階式を中止するようにとのことでした。これらの要請は、ここ数日、緊迫したものでした。特にここ12日間というもの私たちは絶え間なくローマからのメッセージや使者を受けました。この叙階式を敢えてしないようにと、言われました。

 しかし、全く客観的になって、私たちにこの司祭叙階式をするなと求める人たちを動かす本当の動機は何なのかと言うことを探してみると、その深い動機を探ってみると、それは私たちがこの司祭たちを叙階するのは、彼らが永遠のミサを捧げるためであるから、と言うことがわかります。

 彼らは知っています。これらの新しい司祭たちが教会のミサに、聖伝のミサに、永遠のミサに忠実であることを。だからこそ私たちに叙階するな、と圧力をかけるのです。私にはその証拠があります。6回、ここ3週間というもの6回にわたって私たちは、ローマと通常の関係を結ぶようにと求められました。そして、その証拠として新しい典礼様式を受け入れ、私自身これを捧げるようにと言われました。私が新しい典礼様式で共に共同司式をして、私が喜んでこの新しい典礼を受け入れたと言うことを示せ、そして、それさえすれば、ローマと私たちの関係は平らになると言われました。

 私は、手に新しいミサ典書を手渡され、「ほら、これが、あなたがしなければならないミサです。そして、あなたの全ての修道院で、捧げなければならない新しいミサです。」と言われました。また、今日この6月29日、皆の前で、私たちが新しい典礼様式でミサを捧げれば、ローマと私たちの関係は、何もなかったかのようになる、とも言われました。

 ですから、ミサの問題でエコンとローマとの間のドラマが展開されていることは、明らかではっきりとしています。

 永遠の典礼様式を守ろうと望む私たちは誤っているのでしょうか。確かに、私たちは祈り、相談し、考察し、黙想し、私たちこそが誤りのなかにいるのではないか、あるいは、新しい典礼様式を受け入れない私たちには十分な理由がないのではないかと言うことを知ろうとしました。ところが、まさにそのローマからの使者たちが私たちに典礼様式を変えるようにと要求するその要求の仕方が、私たちをして考えさせました。

 そして、私たちには確信があります。まさに、この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明していると言うことを。この新しい信仰は私たちの信仰ではないこと、カトリック信仰ではないことを。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージです。なぜなら、聖なる公教会が長い歴史のなかで、私たちに下さったこの貴重な宝、すなわち、聖ピオ五世によって聖別されたミサ聖祭の典礼様式を守ろうと望んだのは、きわめて重大な意味があったからです。

 何故かというと、このミサのなかに私たちの信仰が全て含まれているからです。全てのカトリック信仰が、すなわち、聖三位一体への信仰、イエズス・キリストのご神性にたいする信仰、私たちの主イエズス・キリストの贖いへの信仰、私たちの罪の赦しのために流された私たちの主の贖いの御血にたいする信仰、ミサ聖祭、十字架、全ての秘跡から来る超自然の聖寵への信仰が、すべてあるのです。これら全てを私たちは信じています。そして、これが永遠のミサ聖祭を捧げながら信じていることなのです。

 ミサは私たちに信仰を教えるものであり、信仰の源です。ありとあらゆる方面から私たちの信仰が攻撃にあっている現代において、私たちにとって必要不可欠のものです。私たちには、この本当のミサが、この永遠のミサが、私たちの主イエズス・キリストのいけにえが必要なのです。それは、私たちの霊魂を聖霊と私たちの主のおん力によって満たすためです。

 ところで、次のことは明らかです。新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としています。つまり、ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではありません。それは会衆です。このことのために、全てはプログラムされています。金輪際、教会の権威に取って代わるのは、会衆です。司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団です。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会です。今後、教会を動かすのは、数です。そして、そのことはミサのなかで明らかに表明されています。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからです。それは、今では多くの司祭が会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしないと言うところまでいっています。

 徐々に、聖なる教会のなかに、ミサに関するプロテスタントの考え方が導入されています。そして、このことは現代人の考え方に、近代主義者の考え方にぴったりなのです。全く一致しています。なぜなら、民主主義の理想が、現代人の考え方だからです。つまり、権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことです。

 これは非常にゆゆしきことです。なぜなら、私たちは、天主は全能で、天主に全ての権威があり、全ての権威が天主から来ること Omnis potestas a Deoを信じているからです。私たちは、権威が人民から、底辺から由来するとは信じません。しかし、これが現代人の考え方なのです。そして、新しいミサは、この考え方を、底辺に権威があり、天主にではないと言うことをはっきりと表明しているのです。このミサは位階制度的なものではなく、民主的です。これは、非常に重大なことです。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明なのです。私たちのもっとも神聖な典礼様式によって、私たちをして現代人のイデオロギーのなかに入らせようとしているのです。

 そして、これが現在、教会を全て腐敗させてしまっています。なぜなら、ミサ聖祭において底辺に権力を認めるというこの考えによって、司祭職を崩壊しています。司祭職を崩壊するのです。司祭は何をするのでしょうか。司祭に叙階の秘跡の時に授与される個人的な権力、そしてこの権能を彼らこの将来の司祭らはしばらくすると受け、天主の民の上に立つべく刻印を霊魂に受けるのです。叙階の後、彼らはもはや、自分たちは他の人々と同じだと言うことが出来なくなります。そんなことは出来ません。彼らは、もはや他の人々は全く違う人になるのです。彼らは、天主の人になるのです。彼らは、敢えて言えば、司祭の刻印によって、イエズス・キリストの天主性に参与する人となるのです。なぜなら、イエズス・キリストは、永遠の司祭、メルキセデクの位による大司祭であり、イエズス・キリストは、すなわり天主の本性がお受けになった人間の本性と一致し、いとも聖なる童貞女マリアのご胎内で、人性を受けたその瞬間、イエズスは司祭となったのです。

 これらの若い司祭たちがが参与する聖寵は、成聖の聖寵ではありません。洗礼の聖寵によって、私たちをしてイエズス・キリストに参与させるその成聖の聖寵ではありません。司祭の聖寵は、一致の聖寵です。この一致の聖寵は、イエズス・キリストだけの独自のものです。彼らは、この一致の聖寵に参与するのです。なぜなら、天主の神性、御言葉の天主性に一致することによって、イエズス・キリストは司祭となり、イエズス・キリストは王となり、イエズス・キリストは審判官となったのですから。

 これゆえに、この地上でいかなる被造物も受けたことのない崇高な聖寵である一致の聖寵のために、イエズス・キリストは、全ての人々によって礼拝されなければならないのです。ちょうど聖なる油を受ける者が聖別されるように、この天主性の聖寵自体が、イエズス・キリストの人性の中に油を注がれる如く、天から降り、イエズス・キリストの人性は天主の御言葉の天主性によって浸透され、イエズス・キリストは司祭となった、すなわち、天と人との間に立つ仲介者となったのです。そして、まさしくこの聖寵にこの若い司祭たちは参与するのです。そしてこの聖寵のために、彼らは天主の民の上に立つのです。彼らも天主と天主の民との間に立つ仲介者となるのです。

 彼らは天主の民の単なる代表ではありません。彼らは、天主の民が委任した代理人でもありません。彼らは集会の座長ではありません。彼らは永遠に司祭なのです。永遠に司祭の刻印を押された司祭なのです。彼らを敬わないと言う権利は誰にもありません。たとえ彼ら自身がこの刻印を敬っていなかったとしてもです。彼らは常にこれを持ち続けるからです。これこそが私たちの信じていることです。これが私たちの信仰です。これが、私たちのミサ聖祭を構成するものです。ミサを捧げるのは司祭です。そして信者はこの捧げものに心から霊魂を込めて参与します。ミサを捧げるのは信者ではありません。その証拠に、司祭はたった一人でもミサ聖祭を捧げ、数千人が参与すると同じように同じ価値でミサを捧げるのです。そのミサには無限の価値があります。司祭によって捧げられたイエズス・キリストの犠牲は、無限の価値があるからです。これが私たちの信じていることです。

 だからこそ、私たちは考えます。私たちにはこの新しい典礼様式を受け入れることが出来ないと。この新しい典礼は、別のイデオロギーの作品だからです。別のイデオロギー、新しいイデオロギーの作品です。この世の考え方を身につけたら、皆を引きつけることが出来ると思ったのです。信じない人々の考え、現代人の考えを身につけたら、教会に人を、信じない人を、引きつけることが出来ると思ったのです。現代人の考えとは、リベラルで、複数の宗教を受け入れ、そして、イエズス・キリストの社会的王国を受け入れない考えです。このことは私自身が、聖座から送られた使者の口から2回も聞きました。彼らは私に「イエズス・キリストの社会的王国は現在不可能だ、今後は、絶対的に複数の宗教を受け入れなければならない」と言いました。これが彼らの言ったことです。

 教皇ピオ11世によってイエズス・キリストの社会王国についてこれほど美しく書かれた回勅、「回勅Quas Primasを、今日では、教皇様は書かないだろう」と聖座の公式の使者が私に言いました。

 私たちはこの宗教を受け入れません。私たちはこの新しい宗教を受け入れません。私たちは永遠の宗教を信じるものです。私たちの宗教は、カトリックの宗教です。私たちの宗教は、現在人々の言うところの「普遍宗教」ではありません。こんなのはカトリック宗教ではありません。私たちの宗教は、このリベラルな近代主義の宗教ではありません。この新しい宗教には、それの礼拝様式、それの司祭、それの信仰、その公教要理、その聖書、エキュメニカルな聖書があります。私たちは、エキュメニカル聖書を受け入れません。エキュメニカル聖書などというものはありません。天主の聖書だけがあります。聖霊の息吹によって書かれた聖霊の聖書、天主の言葉だけがあります。私たちには天主の言葉を人の言葉と混ぜ合わせる権利などありません。エキュメニカル聖書などというものはありえません。唯一の聖霊の言葉だけです。私たちは私たちの信仰宣言をもはや公言しない公教要理を受け入れません。などなど。私たちはこれらのことを受け入れることが出来ないのです。私たちの信仰と矛盾するからです。

 私たちは本当に非常に残念です。量り知ることの出来ないほど大きな悲しみです。私たちにとって大きな悲しみです。私たちの信仰のゆえに、私たちがローマと問題があるなどと考えただけでも、悲しみです。どうしてこんな事が可能なのでしょうか。これは、私たちの想像を遙かに超えたことです。私たちはに考えることもできません。私たちはそんなことがあるなどと信ずることもできませんでした。特に私たちの子供のころ、全ては画一的で、全ての教会で一致を信じ、同じことを信じ、同じ秘跡を行い、同じミサ聖祭を捧げていました。どこでも同じ公教要理を教えていました。そして、突然、分裂のなかにあります。引きちぎられる思いです。

 ローマから来た人たちに私は申しました。教会の中で、教えられ実践されている新しい宗教によるこの分裂によって、キリスト信者は家庭の中で引きちぎられ、子供たちは分断され、心は引き裂かれている、と。司祭たちは心と霊魂のうちに大きな苦痛を感じて若死にしています。彼らは何をしてよいかわからないのです。彼らは誰に従順に従ったらよいのかわからないのです。そして、従順に従うことによって子供のころからの信仰を失い、また、叙階の時に反近代主義宣誓をした約束を反故にするか、あるいは、私たちの聖父でおられ、聖ペトロを代表する教皇様と離れてしまっているような印象を受けるか、どうしたらよいのかと。なんと司祭の心は引き裂かれていることでしょうか。多くの司祭は若くして苦しみのあまり死に至っています。司祭たちは今ではその教会から追放され、迫害を受けています。なぜなら彼らが永遠のミサを捧げているからです。

 私たちは今、本当に劇的な状況にいます。私たちは、選ばなければなりません。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかです。ところで、教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ません。それは不可能です。ですから私たちは、信仰を捨てないことを選びます。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからです。なぜなら、教会が2000年間教えてきたのです。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえません。全くありえません。

 だから、私たちはこの聖伝にしがみつくのです。聖伝は、素晴らしく、決定的に、そうです、教皇聖ピオ五世がうまく言ったように決定的に、ミサ聖祭において表明されているからです。

 もしかしたら、明日、新聞紙上に、私たちを排斥する記事が載ることでしょう。全くあり得る話です。それは今日のこの叙階式のためです。私自身、多分に聖職停止の罰を受けることでしょう。これらの若い司祭たちは、「不規則」の罰を受け、原則的にはミサ聖祭を捧げることが出来ないとされることでしょう。あり得ることです。

 それなら、私は聖ピオ五世に訴えます。聖ピオ五世はその勅書のなかで、永久にいかなる司祭もこのミサを捧げるためにいかなる教会法上の罰を受けることが出来ない、と言っているからです。従って、これらの罰則と破門など、もしそのような話が出たとしても、全く無効です。それらの罰則は、聖ピオ五世がその勅書の中で永久に有効なこととして荘厳に宣言したことと反対だからです。

 この聖なるミサを捧げた、と言うことによりいかなる司祭にも、いかなる場合でも、いつでも、いかなる刑罰も課すことが出来ない、決して出来ない、との言葉に。何故でしょうか?なぜなら、このミサは列聖されたからです。聖ピオ五世は、このミサを決定的に列聖したのです。ところで、教皇様といえども、以前列聖されたものを、聖でないと言うことは出来ません。教皇様は新しい典礼様式を造ることは出来ます、しかし、列聖されたものからその列聖を取り消すことは出来ません。教皇様は、列聖されたミサを禁止することは出来ません。ですから、ある人が列聖された場合、別の教皇様がでてきてこの聖人は聖人ではないと言うことは出来ないのと同様です。そのようなことはありえません。

 この聖なるミサは、聖ピオ五世によって列聖されました。ですから、私たちは全く平安に、安全に、このミサを捧げることが出来るのです。そして、このミサを捧げることによって、私たちの信仰を宣言し、それを維持し、又、信者たちの信仰を維持させることが出来るのだと、私たちは確信しています。これこそが、信仰維持のための最良の方法です。

 だからこそ、私たちは今しばらく後に、この叙階を執行するのです。勿論、私たちは出来ることなら、昔のように、聖座から祝福をいただけることを期待していました。昔は、新しく叙階を受ける司祭たちのためにローマからの祝福がありました。私たちは、よき天主様がいらっしゃり、全てをご覧になり、私たちのするこの叙階式を祝福されておられ、将来、確かにお望みになっておられるその実りを得ること、そして、私たちを維持し、教会を維持されることを考えます。

 特に聖母マリア様に、又、今日の聖ペトロとパウロにお願いいたしましょう。

 司祭職の母である聖母マリア様に祈りましょう。これらの若き司祭たちに、真の司祭職の聖寵をお与え下さいますように。聖霊降臨の日にご自分の取り次ぎによって使徒たちに聖霊を与えたように、彼らに聖霊を下さるように。

 聖ペトロのパウロに、私たちにおいて聖ペトロにたいする信仰を維持するように、求めましょう。おお、そうです。私たちには、ペトロにたいする信仰があります。ペトロの後継者に対する信仰が。しかし、教皇ピオ9世が教義憲章の中で、よく言ったように、教皇が聖霊を受けたのは新しい真理を作り出すためではなく、永遠の信仰において私たちを維持するためである、と。これが、第1バチカン公会議の時に教皇ピオ9世によってなされた、教皇様の定義です。

 だからこそ私たちは確信しているのです。この聖伝を維持しながら、私たちは、ペトロの後継者に対する私たちの愛と素直さと従順を表すのであると。

 聖父の聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

教皇ピオ十一世の回勅「クァス・プリマス Quas Primas」王たるキリストの祝日の制定について EPISTULAE ENCYCLICAE QUAS PRIMAS

2019年01月29日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

教皇ピオ十一世の回勅「クァス・プリマス Quas Primas」をご紹介いたします。

回勅
「クァス・プリマス Quas Primas」

使徒座との平和と交わりを持つ総大司教、首座大司教、大司教、司教たち、その他の場所の教区長たちに、
王たる私たちの主イエズス・キリストの祝日を制定することについて
教皇ピオ十一世は、
尊敬に値する兄弟たち及び愛された息子たちに挨拶と使徒的祝福を与える


一、問題の提起

 教皇になってまず第一に(Quas primas post initum Pontificatum)、私は全教会の司教に最初の回勅を送り、人類が味わっている様々な困難の主な原因がどこにあるか指摘しました。

 人類の大部分が、個人生活からも家庭や国家からも、イエズス・キリストとその貴い掟を閉め出してしまったために、これ程多くの不幸が世界に広がったのです。そして、個人と国家が救い主の支配に背き、これを拒み続ける限り、諸国民の間に永続的な平和が打ち立てられる見通しは全くありません。

 私達が追求しなければならないのは、「キリストの国におけるキリストの平和」なのです。私もこの点に関して、及ぶ限り力を尽くすことを約束しました。世界にキリストの平和を回復し、確立する最上の手段は、主に支配を委ねるよう努力することであると私は思っています。

 それでも人々のうちに、キリストおよび唯一の救いの道である教会に対する関心が芽生え、或いは盛んになってきたことは、よりよい時代への明るい希望を私の心の内に起こしました。これは救い主の支配を踏みにじり、その王国から追放されていた人々が、再び服従の義務につく準備をし、急いで帰ってくる印なのです。

 聖年を通じて行われた数々の忘れがたい出来事は、教会の創立者であり王である主に、輝かしい栄光を誉れをもたらしました。

 布教展覧会が催され、人々は教会が花婿の王国を地の果てまで拡大するため、不断の努力を傾けているのを目撃し、非常な感動を覚えたのです。そして宣教師たちの不屈の努力と犠牲によって、多くの国々がカトリックになったのを眺めると共に、まだ主の救いと慈しみの統治に服していないところがあることも知りました。

 また、聖年の間に、司教や司祭の引率でローマに来た人々は、ただ一つの目的、すなわち、聖ペトロ、聖パウロ両使徒の墓と私の前で、キリストへの忠誠を誓うために来たのです。そして私が六人の証聖者、および童貞女を、その英雄的な徳を立証して聖人の位に上げたとき、キリストの王国の上に光が注がれたと感じました。聖ペトロ大聖堂における荘厳な列聖宣言の後、感謝の祈りを唱える信者の群が「キリストよ、御身は栄光の王なり!」と叫んだとき、私の心は言いようもない喜びと慰めに満たされました。天主を離れた人々や国々が妬みと不和にあおられ、滅びと死に向かって急ぐときも、天主の教会は聖なる男女の家系を絶えずキリストのために、生み育てています。この地上の御国で忠誠と従順を示す人々を、天国の永遠の幸福にキリストは招きます。

 それに、この祝いの年は、ニケア公会議から数えて千六百年目にあたりましたので私は記念の催しを行うように命じ、私自身バチカンの大聖堂でこれを行いました。それは特別に喜ばしいことです。というのは、ニケア公会議は信ずべきカトリック教義の一つとして、御一人子が御父と一体であることを、公言し、決定した上、使徒信経に、「その国は終わることなし」という言葉を付け加え、キリストの王としての権威を確認したからです。

 この聖年は、キリストの王国を称える数々の機会を提供してくれました。ですから、多くの枢機卿、司教、信者がた個々の、或いは連盟の願いをいれて、私達の主、イエズス・キリストの王たる尊厳を祝う特別の祝日を典礼に加えて、この聖年を完結するのは、教皇権に相応しいことだと思います。

 尊敬する司教、司祭の皆様、このキリストの王位こそ私の大きな喜びであり、これについて少しお話ししたいと思います。私がキリストの王位について語ることを全て信者にわたりやすい方法で説明して下さい。そうすれば、私の宣言しようとする祝祭日が毎年祝われ、現在も将来も豊かな実りをもたらすことになるに相違ありません。

二、教義の解説、王たるキリストの支配権

1 キリストの王位の2つの意味

 キリストは、全てのつくられたものに優る、最高の地位を占めておられますから、比喩的な意味で「王」として称えられるのは、かなり以前からの習慣です。

 この意味で、キリストは「王として人々の知性を支配する」と言われます。これは、その知性の鋭さや知識の広さのためばかりではなく、キリストが真理そのものであり、すべとの人間がその真理をくみ、心から受け入れねばならないからなのです。

 キリストはまた「王として人々の意志をも司っておられる」のです。それは、キリストが、御自分のうちに聖なる天主の意志と人間としての完全に正しい意志を合わせて持っておられるため、ばかりでなく、キリストが霊能を持って、私達の自由意志をもっと高い行いに向かわせ動かしているからです。

 キリストが私達の心の王であると言われるのは、「一切の知識を越える愛」(エフェゾ3:19)そのものであり、主の慈悲と温良が、全ての人を引きつけているからです。まことに、イエズス・キリストほど強く広く愛された人間は今まで存在しなかっただけでなく、これからも存在しないでしょう。

 しかし、もし一層深く考えるなら、王の称号と権能は、比喩だけではなく、本来の意味で、人としてのキリストに属することを認めなければなりません。というのは、御父から「権力と栄光と御国」(ダニエル7:13ー14)を与えられているということは、人たるキリストについてだけしか言い得ないからです。つまり、<天主の御言葉>として見れば、御父と一体であり、既に万物を御父と共有し、全被造物の上に最高絶対の主権を有しておられるからです。

2 聖書からの証明

 キリストが王であることは聖書の至る所に現れています。彼こそヤコブから出た統治者であり(民数4:19)、聖なる山シオンを統べる王として御父に任命され、全ての国民を遺産として与えられ、地の果てまでもその領土とされた御者(詩編2)です。また婚宴の賛歌は将来のイスラエルの王を最上の富と権力をもつ王と称え「おお天主よ、御身の王座はとこしえに続き、御身の王国の杖は正義の杖なり」(詩編44:7)と歌っています。これと似た句は他にも沢山見いだせます。

 もっとはっきりキリストの君臨が示されている句を見ましょう。主の王国は境が無く、正義と平和によって栄えると詠まれています。「彼の世、正義が栄え、深い平和があるだろう、彼は海から海まで、川から地の果てまで治めるだろう」(詩編71:7ー8)。

 預言者の証言もこれに劣らず沢山あります。まず、よく知られているイザヤの預言を挙げましょう。「一人のみどりごが我々のために生まれた。一人の男の子が我々に与えられた。その肩に王の印があり、その名は霊妙、顧問、大能の天主、とこしえの父、平和の君と唱えられる。彼の治めるところは広大、限りなき平和のうちに、ダヴィドの座を、その国を、法を正義を持って今もいつまでも固め強められる」(イザヤ9:6ー7)。他の預言者たちもイザヤと同様なことを言っています。エレミアはダヴィドの家から出る「正しい枝」が「王となって世を治め、栄え、公平と正義を世に行う」(エレミア23:5)と預言し、ダニエルもまた、天上に天主がお築きになる王国を告げています。「これはいつまでも滅びることなく、・・・立って永遠に至る」(ダニエル2:44)と。また少し後の章では、次のように言っています。「私はまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が雲に乗ってきて、日の老いた者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを給い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、無くなることが無く、その国は滅びることがない」(ダニエル7:13ー14)。ザカリアは慈しみの王が「ロバに乗る、すなわちロバの子である子馬に乗る」と言い、エルザレムに入るにあたって、群衆が彼に向かって「正しい者、救い主」と叫ぶだろうと預言しています(ザカリア9:9)。後に福音史家によって、これが全うされたことが認められました。

 旧約聖書の中で見いだしたキリストの王位についての教えは、新約聖書のうちに一層はっきり教えられ、認められています。

 例えばお告げの史実に簡単に触れると、大天使はマリアに向かって子を産むことを告げて、その子は「主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は無窮のもの」(ルカ132ー33)と言っています。

 なおキリストも御自ら王としての権能について話しています。すなわち、義人と悪人の永遠の報いと罰について群衆に行った最後の説教の時、また、ローマ総督の公の質問にお答えになった時、また御復活の後使徒たちに全ての国民に教え、それに洗礼を授ける使命をお与えになったときなどです。このような機会にキリストは自分が王であると言われ(マテオ25:31ー40)、その称号をはっきりと示し(ヨハネ18:37)、天においても地においても、一切の権能が自分に与えられていることを荘厳に宣言されました(マテオ28:18)。特に最後の言葉は、彼の権能の偉大さと王国の無窮の広さを物語るものです。ですから、聖ヨハネが「地上の王の君」(黙示録1:5)を見て、「その上衣と股とに<王の王、主の主>という名が書かれていた」(黙示録19:16)と言ったのも不思議ではありません。御父が「万物の世継ぎにお定めになった」(ヘブレオ1:2)のは、このキリストなのです。キリストはこの世の終わりに「全ての敵を父なる天主の御足の下に置かれるまでに支配される」(コリント:25)のです。

 <すべての国に広がるべき、地上のキリストの国>であるカトリック教会が、毎年種々の典礼を使って、その創立者を、王、主、或いは諸国の王として一つの心をもって称えてきましたが、これも上述の聖書の教えから見れば当然でしょう。

 昔から詩篇を詠うとき儀式の中でキリストの王位を表す様々な称号を使ってきた教会は、今なお公式の祈りや、ミサ聖祭を捧げるとき、毎日これを用いています。この王たるキリストを絶え間なく賛美する点では東方典礼も私達の典礼と完全に一致しています。やはりこの場合においても「祈りの法は信仰の法」を示すのです。

3 キリストの王権の根拠

 主のこの尊厳と権能が何に基づくかと言うことをアレキサンドリアのチリロは次のようにはっきり示しています。すなわち「キリストが全被造物の上に主権を有しておられるのは強奪によって獲得したり、譲り受けたものではありません。御自らの本性と存在とによって、御自分のものなのです」(ルカ聖福音書注解)と。キリストの主権は位格的結合に基礎をおいています。従って天使や人間はキリストをただ天主として礼拝するのみでなく、人としてのその支配にも服しなければなりません。人たるキリストはその威嚇的結合によって全被造物の上に権力を獲得されているからです。

 しかし、私達に一層大きな喜びと慰めを与える考えがあります。キリストが生まれながらの権利だけでなく、救い主として獲得された権利によっても私達を支配すると言うことです。救い主にどれほどの恩を被っているかを忘れたものは次の言葉を思い出していただきたいものです。「あなたたちが・・・贖われたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、傷もなくしみもない子羊のようなキリストの貴い御血による」(ペトロ前1:18ー19)。

 私達はもはや自分自身のものではありません。なぜなら、キリストが私達を「高値で」(コリント:20)買われたからです。そして私達のからだも「キリストの肢体」(コリント:15)なのです。

4 キリストの王権の本性

 ここでキリストの主権の意味と本質を簡潔に説明しておきましょう。今さら言うまでもないことですが、主権には3つの権能[立法・司法・行政権]が必要です。これを持っていないとその王権は無意味になります。贖い主の普遍的支配権については既に引用した聖書の箇所がはっきり証明しております。

 またイエズスが人間の贖い主であるのみでなく、(1)人々が服従すべき立法者でもあるということは信仰箇条として認めなければなりません(トリエント公会議VI-21)。福音書は主が法を既にお立てになったということを伝えていると言うよりもその法を定めたイエズスの姿を私達に示しています。その掟を守る人々はイエズスに対して自分たちの愛を示し、様々の形でその愛のうちに留まると言われています(ヨハネ14:15ー15:10)。

 また(2)裁判権も御父から与えられたことをイエズスはおん自ら言明されました。例えば安息日に奇跡で病人をいやしたと言ってユデア人たちがイエズスを訴えたとき「父は裁判なさらず、子に審判のことを全くお任せになった」(ヨハネ5:22)と言われたのです。この権能と一体となって全ての人々に対しても賞罰を与える権利があります。

 それから、(3)行政権もキリストに属しています。それは違反者が避けることのできない制裁を命ずるキリストに誰もが従わなければならないからです。

 しかしこの王国は何よりもまず精神的なものであり、精神的な事柄に関するのです。先に挙げた福音書の引用がこのことを十分に証明していますが、キリストは自らの行いによってそれを確証されました。当時はユデア人だけでなく使徒たちでさえ、メシアはイスラエルの自由を回復しその王国を再建するだろうと言う誤った期待を持っていました。イエズスはその様な空しい意見や希望を排斥されたのです。群衆が歓呼して取り囲み、イエズスを王にしようとした時も主はその栄誉を振り切って身を隠し群がる人々から逃げれられました。

 そして最後にローマ総督の前で自分の王国がこの世のものでないとはっきり宣言されました。

 その国に入るには生活を改めて準備し信仰と洗礼によらなければならないと福音書は言っています。その洗礼は外的な儀式ではあっても内的な再生をしるしもたらすのです。つまりキリストとその王国はただサタンと暗闇の力にだけ対立しています。そしてこの王国の国民は、富と地上の事物からの離脱、心の柔和、正義に対する飢え渇きを持つだけでなく、自分を捨て十字架を担って行かなくてはならないのです。

 キリストは御自分の御血で教会を贖い取られ、また人類の罪のために自分自身をいけにえとして捧げられ、常に捧げ続ける司祭なのです。ですから主の王職は贖い主と司祭の性格を帯びるのではないでしょうか。

 しかしキリストの王職がそうであるからと言ってこの世の事柄について人たるキリストが何の権威もないと考えるのは大きな誤りです。

 というのはキリストは御父から被造物に対する絶対の権利を与えられ全ての者を意のままにすることがお出来になるからです。それにもかかわらずこの世で生活された間は、主はこの支配権を行使されませんでした。そしてこの世の事物を所有したり管理したりすることをあえて望まず、それを所有者に当時も今も委ねておられるのです。「天昇の王国を与えるものは、地上の王国を奪おうとされない」(御公現の賛歌より)。

 こうして贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。

 この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。

 従ってキリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。

 キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。

 従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。

 教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。

「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。

5 その王国から生じる効果

 人間が公私両生活において、一度キリストの王権を認めるならば、信じがたいほどに社会は真実の自由、秩序と静穏、調和などの恩恵で満たされるのです。例えば主の主権は元首や為政者の人間的権威に宗教的な意味を与え、市民の服従の義務を高めるに違いありません。

 使徒聖パウロは妻は夫のうちにキリストを敬い、奴隷は主人のうちにキリストを崇めるよう命じましたが、人間として崇めるのではなく、ただキリストの代理者であるから服従するようにと忠告しました。「あなたたちは高く買われたのである。人間の奴隷にはなるな」(コリント:23)。なぜなら、キリストによって贖われた人が人間に服属するということは道理に適っていないからです。

 もし正しく選出された元首や為政者が支配権は自分のものではなく天主である王の命令によってその代理者としてこれを行っているに過ぎないのだという確信に満たされるなら、これらの人たちは必ずその権威を敬虔に賢明に行使するに違いありません。また法律を作成しそれを実施するうえにも共同善と国民の人間的尊厳を忘れることはないでしょう。そうすれば反逆の原因もなくなり静穏な秩序が確立され、社会が繁栄するでしょう。その場合には、国民が元首や為政者のうちに天主であり人であるキリストの姿と権威とを見るようになるのですから、元首や為政者が同じ人間であり、たとえ不適任で非難すべき点があるのが分かっても、それだけの理由で服従を拒むようなことはなくなります。

 更に一致と平和については一般に次のことが言えるでしょう。王国が広がり人類全体に及ぶようになれば人類も一致の絆を一層自覚するようになるに違いないでしょう。この自覚があれば、数々の闘争は予防され、全くその跡を絶ってしまうか、少なくともその過激さはなくなるでしょう。

 ですから、もしキリストの王国が権利として及ぶと同じく実際にも全ての国民に及ぶようになれば、王たるキリストがこの世にお与えになった平和について失望する理由は全くなくなります。この平和の王は「全ての者を和睦させ」るために「仕えられるためではなく、仕えるために来られ」ました。そして全ての者の主であられたのに、自ら謙遜の模範を示し、愛の掟に加えて謙遜の徳を自分の国の第一の法と定められたのです。しかも「私のくびきは快く、私の荷は軽い」といわれました。もし個人や家庭や国家が全てその支配をキリストに委ねるなら、非常に大きな幸福を得ることが出来るでしょう。先任者教皇レオ13世も、25年前、全教会の司教に宛てて次のようにいわれました。

「万民がキリストの支配権を喜んで受け入れ、それに服し、また『全ての舌が主イエズス・キリストは父なる天主の光栄のうちにましますことを公言する』(フィリッピ2:11)時のみ、私達はこの多くの傷を癒すことが出来ましょう。その時こそ、一切の法は昔の権威を取り戻し平和が回復して剣と武器は手放されるでしょう」(回勅アンヌム・サクルム1899年5月25日)。

三、王たるキリストの祝日の設定

 全ての人々の上にこれらの祝福が豊かに実り、また、キリスト教的社会のうちにそれがいつまでも続くためには、救い主の王としての尊厳が出来るだけ広く認められなければなりません。

 このためには王であるキリストの特別な祝日を設けるのが一番良いでしょう。なぜなら、人々の心に信仰を起こさせ、内的な生活の喜びを感じさせるようにするには、教会のどんな公文書よりも信仰の奥義を毎年くり返して祝うほうが効果があるからです。そういう公文書が、信者の中でも比較的学識のある少数の人にしか理解されないのに反して、祝日はすべての信者を励まし教えます。書き教えるのはただ一度だけでしょうが、祝日は毎年、いいえ永久に語り続けるのです。文書は主に知性に働きかけるのみですが、祝日は知性と心、つまり人間全体によい影響を与えるのです。人は肉体と霊魂から成り立っています。従って目に見える盛大な祝日によって感動させられ、内的刺激を与えられるのです。そして様々の美しい儀式を通して天主の御教えを一層豊かにくみ入れ、自分のものとし、霊的生活の完成に役立てるようになるでしょう。

1 新しい祝日の制定は珍しくない

 時代の流れのうちに、このような祝祭日がキリストの民の必要に応じて次々と設定された来たことは歴史が教えています。例えば信者が一般的な危険にさらされ、これに対抗する力が必要となったとき、或いは忍び寄る異端の誤りを防ぐため、或いはまた、信仰の奥義や天主の恵みに対する尊敬を強めるために必要なときなどです。

 それで、キリスト教とがひどく迫害された初代教会の時代に殉教者に対する信心が行われ始めたのです。聖アウグスチヌスは「殉教者を祝うことが殉教への励ましとなるためである」といっています。また後に証聖者、童貞女、更に、寡婦に対して典礼による祝祭が始められました。これも各人に必要な徳を信者が熱心に求めていく上に非常に大きな効果をもたらしました。しかしそれより一層豊かな実りを生じたのは聖母マリアの種々の祝日を設けたことです。その結果人々は天主の御母、身近な代願者に対する信心に大いに成長したばかりでなく、贖い主が十字架から与えた聖母を自分たちの母として、更に熱心に愛するようになったのです。聖母マリアや聖人達に対する公の正しい信心に由来する多くの祝福のうちでも特に著しいものは、教会が誤謬や異端からいつも完全に守られた来たことです。この点に関する天主の御摂理はただ感嘆するほかありません。天主は悪からでも常に善をお引き出しになります。天主は人々の信仰や敬虔さが弱められたり、カトリックの真理が誤った教えによって攻撃されるようなことさえ、たびたびお許しになりました。しかし常にその結果真理が新しい光を帯びて輝き、人々の信仰や信心は惰眠からさまされ、一段と強くなっていくのです。

 比較的近代になって教会暦に入れられた祝日も、同じような理由で起こり、同じような効果をもたらしています。御聖体の秘蹟に対する尊敬と信心が冷えてきたとき、御聖体の祝日が設けられました。これは荘厳な行列やそれに続く八日間の祈りによって、キリストを再び公に礼拝するように人々を促すためでした。またイエズスの聖心の祝日が設けられたのは、ヤンセニズムの暗さと陰鬱な厳格さに圧倒され、人々の心が冷たくなり、天主の愛と救いの希望を全く失ってしまったときでした。

2 世俗主義に反対してこれを設定する

 ですから全カトリック信者がキリストを王として崇敬することを私が定めたのも、現代的要求に応えるものであり、同時に社会を毒しつつある病害に対する特別な薬としたいからです。

 現代の病、それは、いわゆる世俗主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。

 そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。

 そしてついに、キリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。

 その上、教会は国家の権力のもとにおかれ、元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。

 また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。

 このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。

 つまり、このような人々と国々の反逆の結果、広範囲にわたる国家観の激しい敵意や憎しみの不和の種を生じ、あらゆる和合と平和を阻害してきました。また共通善とか愛国心とかの美名に隠れた飽くことを知らない欲望やそれによる個人間の争い、或いは過度の盲目的自己愛などを生じ、人々は自分の安楽と利益のみを求め、全ての物事をそれで測るようになってしまいました。そしてまた、義務を忘れたり軽んずることから家庭の不和を生じ、家庭の一致も安定も弛みました。こうして一言でいえば人間社会は揺らぎ、正に滅びに向かっているのです。

 しかし、私はこれから毎年行われる王たるキリストの祝日が社会をして、愛する救い主に立ち戻らせるだろうと言う希望を抱いております。

 そこでカトリック信者は様々の活動や自らの業によって、この復帰を早め準備させるように務めるのが義務でありますが、実際に多くの信者は社会に真理の光を掲げるために当然持つべき地位も権威も持っていません。こういう悪条件は恐らく善良な人々の持つ一種の弱さと臆病によるものでしょう。これらの人たちは、反対するのを断念するか、抵抗はしても余り強くはしないのです。従ってこの当然の結果として教会の敵の厚かましさや大胆な計画は更に力をふるうのです。

 ですから信者が一般に王たるキリストの旗のもとに勇ましく戦い続けねばならないことを悟るなら、使徒的熱意に燃え上がり、主に背いたり或いは主を知らない人々を主と和解させるように努め、主の権利を守るために努力するに違いありません。

 確かに、王たるキリストの祝日を毎年全教会で行うことは世俗主義によりもたらされた社会の諸悪を責め、何らかの方法でそれを癒すのに大いに役立つことでしょう。贖い主のいとも甘美な御名が、国際会議や国会において不当に黙殺されていますから私達はそれに対し一層声を大にして主の御名を称え、王としてのキリストの尊厳と権能を広く確認するように努めなければならないのです。

3 その設定の準備

 この祝日の設定のために、前世紀の末以来、幸いにも準備がよく整えられてきました。ご存じの通り、世界各地でこの信心を裏付けるたくさんの本が種々の国語で書かれ、またイエズスの聖心への家庭奉献によって、キリストの主権と支配が認められてきました。今やこの美しい習慣に従って無数の家庭が聖心に奉献されています。家庭だけではありません。都市も国家もこの奉献を実行に移してきました。いいえ、全人類も至聖なる聖心に奉献されたのです。この奉献は千九百年の聖年にあたりレオ13世教皇によって行われました。

 また最近頻繁に行われている聖体大会も、人間社会に対するキリストの王権が荘厳に認められる上に大いに寄与しました。聖体大会の際には、各教区、地方、国家さらに全世界の人々が、秘蹟のうちに隠れてましますキリストを、こぞって尊敬し礼拝するために集まります。教会で一緒に説教を聞いたり、顕示された御聖体を公に礼拝したり、荘厳な行列を行ったりして、天主から王として与えられたキリストを皆共に称えるのです。不敬虔な人々は主が自分のほうにおいでになったとき、受け入れるのを拒みました。しかしキリスト教徒は今、そのイエズスを教会の沈黙の隠れ家からお連れして、歓呼のうちに町を歩み、全ての王的権能を再び主のものにしようとしています。これは天主から来る一つの息吹によるものと言えましょう。

 これらの計画を完成するために、まさに終わろうとしている聖年はこの上ない機会となりました。というのは、この聖年の間慈悲に富まれる天主は信者の知性と心に、あらゆる理解を超える天の祝福への招きと、成聖の聖寵を再び与え、またより高い賜物を望む新たな刺激を起こして正しい道を歩み続けるように強めて下さったからです。私に宛てられた数々の願いを見、或いはこの聖年に行われた様々なことを顧みるにつけても、キリストを全人類の王として祝う、特別な祝日を定める喜ばしい時がついにやってきたと考えられます。最初に述べたように、全ての聖人のうちで感嘆されるこの王は今年地上でも光輝溢れるみいつを称えられました。それはこの王の軍隊の一部が新たに聖人の列に加えられたからです。また、人々が展覧会の出品物から御国を発展させるための宣教師たちの事業や苦労を眺め、それらによってもたらされたキリストの勝利に感嘆したのも、やはり今年でした。そして今年はまたニケア公会議千六百周年を荘厳に祝うことによって、キリストの王国の基礎である、<となられた御言葉>と御父の同質性が決議されたことを新たに記念しました。

 そこで、私はここに王である私達の主イエズス・キリストの祝日を設け、毎年、十月の最後の日曜日、すなわち諸聖人の祝日のすぐ前の主日に、全世界でこの祝日が祝われるように定めます。前任者ピオ十世が毎年更新することを命じた至聖なるイエズスの聖心に対する全人類の奉献の更新も、毎年この日に行うように定めます。しかし、今年に限り、それは今月31日に行います。なお当日、王たるキリストの誉れのため、私は教皇ミサを執行し、その奉献が私の前で行われるようにします。この聖年を閉じるにあたり、永久不滅の王であるキリストに私の心からの感謝を表すのに、これ以上ふさわしい方法はないと思います。この機会に私は全カトリック信者と共に、この聖年の間、教会、全カトリック信者に注がれた聖寵に対して私自身感謝の念を表したいと思います。

4 その設定の動機

 ところでキリストの王としての権威を間接に示し祝う祝日が他にもあるのにどうしてこれとは別に王たるキリストの祝日を制定したかということは、今さら説明する必要もないと思います。これについてはただ一つのことに注意すれば十分でしょう。すなわち、今までの主の祝日は全部その礼拝の対象、いわば素材的対象(対象そのもの)はキリストのペルソナですが、形相的対象(観点)は、キリストの王権と王の称号ではありませんでした。

 私がその祝日を日曜日にしたのは、ただ聖職者のみがミサ聖祭や聖務日課によって礼拝を捧げるのではなく、信者たちも参加することが出来るようにしたために他なりません。日曜日ならば信者たちは日々の仕事から解放され聖なる喜びの精神をもってキリストに対する服従を公に表明することが出来るからです。また他の面でも十月の最終の日曜日はこの目的のために最も適した日ではないかと思います。なぜならその日が典礼暦の終わりに近いので、その一年を通じて記念されたキリストの御生涯の数々の玄義の上に、あたかも光栄の冠を戴かせるのがこの王たるキリストの祝日ということになるからです。それにまた、諸聖人の光栄を祝う前に、聖人として選ばれた全ての人々のうちに勝利を占めるキリストの光栄を宣言し称揚することにもなるからです。

 尊敬する司教の皆様、そこで毎年その祝日の前に、各小教区で何日か特別に説教が行われるように配慮して下さい。これはあなたたちの義務です。そうすれば信者たちもその祝日の性質、意味、また重要性を聞いたはっきり分かり、天主である王の支配に忠実と熱誠を捧げるものにふさわしく自分の生活を律し、整えることだ出来るでしょう。

5 その祝日から生じる効果

 尊敬する皆様、私は今この書簡を結ぶにあたって、王であるキリストに対する公の崇敬から期待される教会と社会とに対する効果、個人に施される恵みを簡単に列挙してみたいと思います。

 まずこのように、キリストの主権に誉れを帰するならば人々はキリストによって完全な社会として創設された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずに入られないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のためにいかなる他の権力にも服してはならないのです。

 また国家は同様の自由を男女両修道会にも与えなければなりません。これら修道会は司教達の有力な助け手となって、キリストの王国を広げ、確立するために大きな働きをしています。というのは、修道者たちは聖なる三つの誓願を持って、この世の三つの欲望と戦い、一層完全な生活を公言することによって天主なる創立者が教会の印とされたあの聖性が絶えず人々の前に輝きを増し、認められるように力を尽くしているからです。

 毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを全ての国々に思い出させるでしょう。そして人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。

 キリストの王としての権威は全ての国家が天主の掟をキリスト教の原則に従い、それによって法を作成し、裁判を行い、青少年には健全な知識と道徳を教えるのを要求する以上それは当然なのです。

 その上信者は、これらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは私たちの能力は主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。私達の主キリストには、(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、私達がキリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。

 従ってキリストが人間の知性を支配するのはふさわしいことです。それで人間の知性は謙遜に啓示された真理と、キリストのみ教えに完全に従い、これを奉じなければなりません。

 そしてまた、キリストが意志をも支配するのはふさわしいことです。意志は、天主の法と掟に従わねばなりません。

 更にまた、キリストは心の王でもなければなりません。従って心のなすべきことは本能的な要望を捨てて全てに越えて天主を愛し天主だけを追い求めることです。

 また手足と身体においてもキリストを王としなければなりません。それらは道具であり、使徒パウロの言うように、天主のために正義の武器となって(ローマ6:13)、霊魂の内的聖化のために仕えなければならないからです。

 信者がこれらの真理をよく考えよく悟るようにすれば、人々はもっと容易に完徳に向かって進むでしょう。それで未信者たちが自分の救いのためにキリストの甘美なくびきを求めてこれを受け入れるように、また天主の慈悲によって信者となった私達もそのくびきを不承不承耐えるのではなく、かえって望みと愛と信心を持って担うように私は切に願っています。そして私達が天主の王国の法と一致した生活を営み、その実りを溢れるばかりに受け、キリストによって忠実な良い僕のうちに数えられ、天上の王国においてキリストと共に永遠の幸いと栄光に与ることが出来ますように、私は切望しています。

 主イエズス・キリストの御降誕の大祝日が間近に迫っているこの時にあたり、尊敬する皆様、この書簡を父の愛の印として受け取り、天主の恵みをもたらす教皇掩祝をお受け下さい。私はこの掩祝を愛の心をもって聖職者の皆様、ならびに信者の皆様に送ります。

 聖年の1925年12月11日

ローマ、ヴァチカン宮殿において 教皇在位四年目

ピオ十一世教皇

【聖伝のミサ、トリエント・ミサ、ラテン語ミサ、Traditional Latin Mass】御公現後第四主日のミサ聖祭の固有文を紹介します

2019年01月29日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2019年2月3日は御公現後第四主日(二級祝日 緑)です。
この日は、元アジア管区長のシュテーリン神父様が来日され、聖マキシミリアノ・コルベの精神に従った「無原罪の聖母の騎士会」について、汚れなき聖母の道具になるとはどれほど素晴らしいことかをお話してくださいます。愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお待ちしております。

では以下に御公現後第四主日のミサ聖祭の固有文をご紹介いたします。
本日のミサの<集禱文>は、五・六世紀ごろ、ローマが占領されたり掠奪されたりしていたころの、悲惨な状態を暗示する。<書簡>には、隣人愛が社会義務であるばかりでなく、キリストの掟の中心であることをものべている。<聖福音>では、嵐をおさめ、大自然を従える力をもつイエズスを紹介する。ここに出る舟は、公教会を象る。イエズスは、時としてねむっておられるように見えても、常に舟の中にあって、舟を保護し、安全な港へとみちびき給うのである。

Dominica Quarta post Epiphaniam 御公現後第四主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ps. 96, 7-8. 入祭文 詩篇、96ノ7-8
Adoráte Deum, omnes Angeli eius : audívit, et lætáta est Sion : et exsultavérunt fíliæ Iudæ. 主の全ての天使らよ、天主を礼拝せよ。シオンは[これを]聞いて喜んだ、そしてユダの娘たちは喜び踊った。
Ps. ibid., 1 詩篇、96ノ1
Dóminus regnávit, exsúltet terra : læténtur ínsulæ multæ. 主は支配した。地は喜びおどれ、多くの島々は喜ばんことを。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦)
Adoráte Deum, omnes Angeli eius : audívit, et lætáta est Sion : et exsultavérunt fíliæ Iudæ. 主の全ての天使らよ、天主を礼拝せよ。シオンは[これを]聞いて喜んだ、そしてユダの娘たちは喜び踊った。
Oratio. 集祷文
Deus, qui nos, in tantis perículis constitútos, pro humána scis fragilitáte non posse subsístere : da nobis salútem mentis et córporis ; ut ea, quæ pro peccátis nostris pátimur, te adiuvánte vincámus. Per Dóminum. 天主よ、御身はかくも多くの危険において成り立つ我らが人間的なもろさゆえに自存しえぬことを知り給う。我らに心と肉体の健康を与え給え。そは、我らの罪ゆえに我らが苦しむことを、御身が助け給うことによりて我らが打ち勝たんがためなり。天主として(…)
Léctio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Romános. 使徒聖パウロの、ローマ人への書簡の朗読。
Rom. 13, 8-10. ローマ 13ノ8-10
Fratres : Némini quidquam debeátis, nisi ut ínvicem diligátis : qui enim díligit próximum, legem implévit. Nam : Non adulterábis, Non occídes, Non furáberis, Non falsum testimónium dices, Non concupísces : et si quod est áliud mandátum, in hoc verbo instaurátur : Díliges próximum tuum sicut teípsum. Diléctio próximi malum non operátur. Plenitúdo ergo legis est diléctio. 兄弟たちよ、たがいに愛を負う以外には、だれにも負い目をもつな。人を愛するものは、律法を果たすからである。「姦通するな、殺すな、盗むな、偽証するな、むさぼるな」、そしてその他のすべての掟は、「隣人を、自分とおなじように愛せよ」という言葉に要約される。愛は隣人をそこなわない。したがって、愛は律法の完成である。
Graduale. Ps. 101, 16-17. 昇階誦     詩篇、101ノ16-17
Timébunt gentes nomen tuum, Dómine, et omnes reges terræ glóriam tuam. 主よ、異邦の民は御名を畏れるだろう、そして地の全ての王たちは御身の光栄を[畏れるだろう]。
V/. Quóniam ædificávit Dóminus Sion, et vidébitur in maiestáte sua. V/. なぜならば主はシオンを建て、その御稜威(みいつ)において見られ給うだろうが故に。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 96,1. アレルヤ、アレルヤ V/. 詩篇、96ノ1
Dóminus regnávit, exsúltet terra : læténtur ínsulæ multæ. Allelúia. 主は支配した。地は喜びおどれ、多くの島々は喜ばんことを。アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦
Matth. 8, 23-27. マテオ 8ノ23-27
In illo témpore : Ascendénte Iesu in navículam, secúti sunt eum discípuli eius : et ecce, motus magnus factus est in mari, ita ut navícula operirétur flúctibus, ipse vero dormiébat. Et accessérunt ad eum discípuli eius, et suscitavérunt eum, dicéntes : Dómine, salva nos, perímus. Et dicit eis Iesus : Quid tímidi estis, módicæ fídei ? Tunc surgens, imperávit ventis et mari, et facta est tranquíllitas magna. Porro hómines miráti sunt, dicéntes : Qualis est hic, quia venti et mare obédiunt ei ? そのとき、イエズスが舟におのりになると、弟子たちは主に従った。すると見よ、海がひどく荒れだし、舟は波にのまれそうになったが、イエズスはねむっておられた。弟子たちが近づいて起し、「主よ、お助けください!私たちは死にそうです!」といった。イエズスはかれらに向かって、「なぜ、おそれているのか。信仰うすい者よ」とおおせられ、起き上がり、風と海とをいましめられると、すぐ、大なぎになった。人々は感嘆して「この人はなんだろう?風も海も服従しているこの人は!」といった。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 117, 16 et 17. 奉献文 詩篇 117ノ16、17
Déxtera Dómini fecit virtutem, déxtera Dómini exaltávit me : non móriar, sed vivam, et narrábo ópera Dómini. 主の右手は力を行い給うた、主の右手は私を高め給うた、私は死なぬ、いや生きる。そして主の御業を語るだろう。
Secreta. 密誦  
Concéde, quǽsumus, omnípotens Deus : ut huius sacrifícii munus oblátum fragilitátem nostram ab omni malo purget semper et múniat. Per Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、このいけにえの捧げられたるものが、われらのもろさを、全ての悪より常に浄め、助けんことを。天主として。
Praefatio de sanctissima Trinitate 三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Luc. 4, 22. 聖体拝領誦 ルカ、4ノ22
Mirabántur omnes de his, quæ procedébant de ore Dei. 全ての人々は、天主の御口から出ていた事々に感嘆していた。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Múnera tua nos, Deus, a delectatiónibus terrenis expédiant : et cæléstibus semper instáurent aliméntis. Per Dóminum.  天主よ、御身の賜がわれらをして、この世の快楽らからとき放たんことを。また、常に天の糧(かて)らにおいて養わんことを。天主として(…)。

2016年聖母小黙想会 霊的講話【14】 8月14日 シュテーリン神父様「マリア様への自己奉献」

2019年01月29日 | お説教・霊的講話
2016年8月14日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【14】
同時通訳:小野田圭志神父


今日は、聖マキシミリアノ・コルベ神父様の天への凱旋の日ですから、そのたくさんの御恵みを下さるはずです。

今まで、マリア様へのまことの信心がどのようなものであるか、という事を黙想しました。

マリア様の一番大きな、私たちの人生における唯一の役割を見ました。
聖グリニョン・ド・モンフォールの素晴らしい論理、私たちが天主様へとどのように戻って行くかというこの論理を、よく理解されたと思います。

第1に、私たちの人生における、マリア様の救いの業の原理と基礎を確認しました。
次に、終末の時代における役割を黙想しました。終末におけるイエズス様とマリア様の使徒はどのようなものであるか、という事を描写してみせました。

その無原罪の聖母の騎士となる為にはどのような道を通らなければならないかも黙想しました。それは、まことの信心を通して到達する、という事です。まことの信心は何かと知る為に、偽りの信心をまず点検してそれを排除しました。まことの信心と偽りの信心とを区別して、その良いものを選ぶ事をしました。

その次に、このまことの信心とはどういうものか、という事を説明しました。
まことの信心は3つのステップがあって、1つは出発点、第2は道、第3は到達点です。
出発点は私たちの本当の姿を知るという事で、私たちが一体何なのか、グリニョン・ド・モンフォールはたとえそれを聞く人が嫌に思うとしても、本当の事をズケズケと言いました。そのありのままの姿を見ると私たちは、私たち自身の力だけでは天主の元に戻る事ができない、と結論付けられました。

私たちが天主に行く為には、私たちの技術でもなければ、力でもなく、私たちの知識でもなければ、私たちが全くできないという事が分かりました。天主に行くには、マリア様が必要です。

では、マリア様の仲介、マリア様の役割は何か、という事を説明します。なぜかというと、天と地の間には唯一の仲介者しかいない、つまりイエズス様しかいないからです。この唯一の仲介者に到達する為には、マリア様を通らなければなりません。

では、マリア様はどうやったら私たちが天主様へと行く道になるでしょうか。それは言葉の本当の意味において、私たちの母親となり、私たちの女王様、元后となる事です。そして同時に、私たちの方ではそれを受け入れる、私たちはそれを受け止める決意がなければなりません、意志がなければなりません。

マリア様が私たちの母である、という事を受け入れるという事は、私たちがそのマリア様の子供であるという事に同意する事です。マリア様が私たちの女王であるという事は、私たちがマリア様の臣下であって、兵士であって、しもべであって、奴隷となる事に同意する事です。私たちがマリア様を素晴らしい御母として受け入れれば受け入れるほど、女王様として受け入れれば受け入れるほど、イエズス様へと到達します。

マリア様を通して、マリア様において、私たちはイエズス様をより良く知る事ができます。イエズス様の事を知れば知るほど、ますます愛するようになります。イエズス様とますます一致すればするほど、私たちの聖徳が高められます。

イエズス様を知るという事は3つの部分に分かれます。まず第1に、それはイエズス様の現存であって、私たちを圧倒するような現存です。イエズス様の魅力的な美しさと優しさです。この事を喜びの玄義で黙想します。

第2の段階は、イエズス様の御行為、行動であって、それはイエズス様の御苦しみです。これは苦しみの玄義で黙想します。イエズス様の行為、御受難を黙想すればするほど、私たちも天主の方に立ち戻る為には、天主の御旨、つまり十字架の道を行かなければならないと分かります。

この道が、十字架の道が、目的地に到達させます。これが永遠の凱旋であって、復活であって、天国です。これを栄えの玄義で黙想します。イエズス様の御復活、天国における栄光を黙想して、私たちも遂にここに到達するのだ、と思います。

これで私の仕事は終わりました。では皆さん、家に帰りましょう。と言いたいのですけれども、まだです。グリニョン・ド・モンフォールはまだ、私たちにたくさんの事を言っています。今まで申し上げたのはこの本の25%ぐらいで、あとまだ残りがあります。

「聖グリニョン・ド・モンフォールよ、あなたは私たちにまだ何を教えたいのですか?言って下さい。」グリニョン・ド・モンフォールは神学者であって、神秘家です。と同時に、具体的な実践家の宣教師です。宣教師は非常にこう具体的に、実践的に教えてくれます。なぜかというと、この美しいこう黙想した後に、家に帰ると何をしたら良いか分からなくて、途方に暮れるからです。

では一体、何を今からしたら良いでしょうか?「マリア様は私たちの御母で、私は子供になりたい。マリア様は私たちの女王で、私はそのしもべに奴隷になりたい。うん、では何をしたら良いか。では具体的に、この信心を実践するにはどうしたら良いのか?」というその具体的な内容を、今日1日を使って黙想しましょう。

私たちの始める事は全て、始まりから始まります。ミサに与るにはミサが始まらなければ与れません。何か旅行をして、さぁどこかに出かけようという時には、最初に車の中に座ったり、あるいはバスに乗ったり、それから始まります。

マリア様に対するまことの信心を実践するには、毎日毎日、マリア様を通して天主へと戻る事です。この天主へと戻るというのは、ちょうど旅に出ることであって、旅路に出る事であって、巡礼であって、大阪から秋田に歩いて巡礼するという事です。

今日はところで、ワルシャワからチェンストホーヴァまで歩く巡礼の最終日なのです。私はこれを20回やりました。300km歩きます。8月4日から始まって15日に終わるのですけれども、私たちは14日に到着します。
今年はこの巡礼に行くつもりだったのですけれども、皆さんにこの黙想会を指導する為に巡礼行きをやめて、ここに来ました。皆さんの為でした。

巡礼に話を戻しますと、巡礼には、皆さんが一緒になって行きます。8月4日、毎年ワルシャワの修道院の前に皆さんが集まって、10時半、その出発の時刻になると、皆さんリュックサックなどを準備して集まって、旗を持って、十字架を持って来ます。
10時半になると鐘が鳴ります。ゴーンゴーン!と鐘が鳴って、そして十字架の印をして、皆で声を張り上げて「Christus vincit!」と歌を歌って、そしてザク、ザク、ザク、と歩き出します。

巡礼の参加者としては、大体200名ぐらいが「参加したい」というのですけれども、最初の日に来るのは150名です。なぜかというと、何名かは遅れて来て、一生懸命走って来て、「あぁ、巡礼団はどこですか!?」「もう行っちゃいました。」あるいは、他の人たちは来ません。

ではこの150名、ちゃんと時間通りに来た人は、何でちゃんと来たのでしょうか?強い意志があったからです。

その意志が、「何が起こっても、嵐が起こっても、何が起こっても、10時半に教会の前のあそこに立って、巡礼団と一緒にChristus vincitと歌うんだ!」という意志があったからです。もしもその強い意志がなければ、遅れてしまって、この巡礼団がもう既に行ってしまったという事になってしまいます、あるいは決して来る事はありませんでした。

私たちは小さな子供で、天主様へと戻る為には、マリア様のお母様の手を握らなければなりません。

では、まことの信心の最初のこの第1のステップは何でしょうか?それはマリア様の手を取る為に、この自分の手をマリア様に差し出す事です。「マリア様、さぁ手を、ここに手を取って下さい」と言う事です。マリア様にお願いして、懇願して、寄り頼んで、ひたすらに乞い願って、「私の手を決して離さないで下さい」と、「私はそれを望むのです」と頼む事です。

この、手を差し出してマリア様にお願いするのを、「奉献」と言います。あるいは「聖別」と言います。これは堅固な意志の行為です。

今まではこう言っていました、「マリア様、私はマリア様の事を知っているし、愛していますが、でも私の自分のやり方を貫きます。この大海原を危険な所を、私は自分の力で自分のやり方で航海するので大丈夫です」と言いながら、成功しませんでした。今までは自分一人で山を登ろうとしていましたけれども、もうそれは無理でした。

ですからこれからは、「絶対一人ぼっちではできない。必ずマリア様と一緒にやりたい」と決心する事です。「マリア様、私の船の船長になって下さい。マリア様がこれからは船長様です。」これが奉献の祈りです。「今から山に登る為には、マリア様こそが道案内で、ガイドです。ですから指導者です。ですからマリア様の気に入らないような足ぶみは絶対しません。マリア様は私よりもよくご存知です。マリア様、私は弱い、頑固な、愚かな子供です。私は一人では決してできません。いつも手から離れようとしています。時々私はマリア様をこう押し寄せて、自分でこう運転しようとしたりもします。お願いします。もしもこれをまたやろうとしたら、美しい鞭を持って、テーブルの上に私を置いて、私をお仕置きして下さい。でもその後では、私の方を向いて微笑んで下さい。私の心に接吻して下さい。」

マリア様への奉献は、私たちの人生の最も大切なものの一つです。この奉献は、他のとは違っています。奉献というのは、この奉献は違う、他のとは違うというのは、特別の目的の為に奉献する、「目的が違う」からです。

この聖グリニョン・ド・モンフォールによる奉献の祈りは、このまことの信心を実践する為のものです。つまり洗礼の約束を生きる為の手段です。これは、「私がマリア様と一緒に、天主へと立ち戻る為」のものです。

明日は、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父様が作ったMIの奉献を更新しますが、これは違っています。もちろん両方とも、全てをマリア様に与えるという事です。でも別の目的の為です。コルベ神父様の作った奉献文は、「私たちがマリア様の道具となりたい」という奉献です。他の隣人を救う為の道具です。

ところが、グリニョン・ド・モンフォールの奉献は、私たちが全てに超えて天主を愛する為に行ないます。ところがコルベ神父様の奉献の祈りは、隣人を救う為、隣人を愛する為にやるものです。

このマリア様への全てを奉献するには、モデルがあります。この人生、この歴史の中で、マリア様に全てを捧げたのは、たった一人です。そしてこの人は、全くマリア様の奴隷となりました。それがイエズス・キリストです。マリア様の唯一の御一人子でした。「私はあなた達に模範を示した。」私たちはイエズス様に従って、イエズス様を真似て、イエズス様の後に、マリア様に奉献しなければなりません。

では、このグリニョン・ド・モンフォールの奉献の祈りは、一体どんなもので出来ているでしょうか?

実は奉献には2つの種類があります。第1は、「敬虔な望み、敬虔な願い」です。あるいは敬虔なお願いで、「そうありますように、そうでありますように」という事です。第2の種類は、「契約」としての、「約束」としての奉献です。

私たちが為した一番多いのは奉献は、第1の願いで、「そうありますように」という奉献です。例えば朝の祈りがそうです。例えば朝、「マリア様、私は全て御身に捧げます。御身に属します。どうぞ私を導いて下さい。」多くの国々では、赤ちゃんが洗礼を受けた後にすぐにマリア様の御像の元に跪かせて、お母さんとお父さんが子供をマリア様に奉献します。あるいはある国々では、初聖体の後に同じような事をします。あるいは例えばベルギーで私は見ましたけれども、結婚したての婚姻の秘跡を受けたばかりのカップルが、すぐにマリア様の元に行って、家族としてマリア様に自己奉献をする。多くの聖人たちによって作られたそういうような奉献の祈りが、お祈りの本の中にはたくさんあります。とても良い事です。

この事をよく理解する為に、例を挙げてみます。ある女性が、修道生活に入りたいと思います。ある日、「将来、シスターになりたい」と思います。そしてこの女性がイエズス様に手紙を書いて、「私の親愛なる花婿なるイエズス様。私はあなたに…」と言って、最後にサインをして、「あなたの親愛なる花嫁、誰それ」と書きます。そして既にこの彼女は、イエズス様の花嫁であって、イエズス様が花婿であると考えています。幼きイエズスのテレジアも既ににそういう事を書いています。子供の時そう書いたのですけれども、でも現実に、それが現実となる為には、行動しなければなりません。なぜかというと、それが本当に実現するのは、誓願を立てるその時であって、その前ではないからです。

誓願を立てる時には、それが「契約」となります。契約というのは、教会の権威の前で、そのように荘厳に、それを愛する事です。それは自己贈与の事です。贈与するというと、例えば韓国で、自分の家を誰かに教会に与える、奉献する、贈与するという時には、その時に、「確かにそういう贈与が行なわれた」という事で証人が立ちます。この贈与する与える人から、受け取る人へと所有権が移された、という事を記録されます。もしも「それを元に戻せ」というのはそれは犯罪です。これが第2の、祈りにおける奉献です。

この奉献の祈り、ですから第2の意味における奉献の祈りは、単純にこの「さぁこのページを開いて、奉献する」というわけにはいきません。準備が必要です。まずこの契約の条件とか、契約の内容について深く知らなければなりません。例えば「マリア様の奴隷になる、その奴隷とはどういう意味か」という事をこの本に書きましたし、私も説明しました。グリニョン・ド・モンフォールが、この奉献をするように、と招いているのですけれども、これは私たちの人生においてとても荘厳な瞬間です。これはちょうど、修道生活に入って誓願を立てるとか、あるいはそのような荘厳な瞬間に似ています。あるいは婚姻の秘跡にも似ています。ですからその修道生活や荘厳な誓願や婚姻の為には、何年もの準備が必要です。誓願を立てるには何年もの修練期が必要です。この奉献の祈りを荘厳になす時には、特別の準備の期間が必要です。ですから、この奉献の祈りの内容について深く知らなければなりません。この内容をよく知った後に、33日間の特別の黙想の後に、準備の後に、この奉献をする事ができます。

この奉献は、マリア様の特別な祝日になされなければなりません。グリニョン・ド・モンフォールは、「3月25日の御告げの日にこれをする事が良い」と言っています。でもこのマリア様の大きな祝日であれば、どの日でも構いません。私は5月31日に、元后なるマリア様の祝日にこれをしました。

グリニョン・ド・モンフォールは、「この自己奉献の祈りを、自分で手で書いてやるべきだ」と言っています。多くの人々はこの奉献文にサインをしますけれども、このグリニョン・ド・モンフォールのこの奉献の歴史を見ると、この手でまず奉献の祈りを書いて書き出して、最後の所には自分の血でサインをしたそうです。でも皆さんはそれをしないで下さい、この昔、この奉献の祈りはどれほど大切で重要であるかという事を示したいという事で、実例を挙げてこの昔の人はこうやったという事ですが、皆さんは真似しないで下さい。

グリニョン・ド・モンフォールが作った修道会、モンフォール会の司祭たちは、「この奉献の祈りを、できる限り荘厳に行なうように」と要求しました。聖グリニョン・ド・モンフォールはこの奉献を、聖体拝領の後にする事を望みました。グリニョン・ド・モンフォールの修道会の司祭たちは後に、固有の儀式を捧げました。まず“Veni Creator”あるいは“Ave Maris Stella”を歌います。司祭は御聖櫃を開きます。なるべきマリア様の奴隷たちは、祭壇の前に跪きます。そして奉献の祈りを唱えます。それが唱え終わると、御聖櫃を閉じます。それから奴隷たちは祭壇の上に昇って、書簡側に行って、そこでその祭壇の上でサインをします。これは、「奉献が、ミサのいけにえと一致している」という事のシンボルです。なぜかというと、この書簡側では、司祭がミサの時に水をワインの中に一滴落として、その私たちとの一致を聖父との一致を示しているからです。

この自己奉献の祈りは公の行為ですので、司祭は、その奉献に司祭もサインをしなければなりません。ある所では、この奉献の祈りがあまりにも荘厳なので、この奉献の祈りにサインして、この手書きの奉献文を、その直後のミサの中にミサを捧げる時に、司祭がコルポラーレという物を祭壇に置きます、カリスの下に置くのですけれども、そのコルポラーレの下に敷いて、ミサを捧げた、といいます。

これらを見ると、この自己奉献の祈りがどれほど荘厳で、重大であるかという事が分かります。最も大切なのは、私たちの意思を表明する事であって、契約を結ぶ事です。この口先だけで美しい言葉を述べるだけで、心の中にそれが入り込んでいないならば駄目です。このグリニョン・ド・モンフォールが作った奉献の祈りは、教会がかつて見た事がないほど美しい祈りの一つです。

この本に書かれてある全ての事を数行にまとめて、お祈りの形で表現してあります。今からこの講話の後に、聖母への自己奉献の祈りがこの本の最後にありますから、それを黙想してみて下さい。この奉献の祈りは、ただ今は黙想するだけで、この奉献をすぐするというわけではありません。この聖母の黙想会全体が、奉献を皆さん将来いつか私は期待するのですけれども、それをする事をその日の為の導入であって、紹介の黙想会です。

日本語の本では352ページから奉献の祈りがあります。この奉献の祈りは、それ自体で奇跡だと私は思っています。グリニョン・ド・モンフォールはこのお祈りをこういう形で書く為には何年も何年もかかったはずです。これを見れば見るほど奇跡だと思います。このお祈りを私は30年間唱えています。このお祈りを唱える度にいつも、新しい事を発見します。

奉献の祈りの最初は、私たちの主に関するクレドの使徒信経の要約のようです。イエズス・キリストがどなたであるか、という事を信仰告白します。これは必ず、「永遠の天主が人となった、永遠の知恵イエズス・キリスト」について語られます。天主としては永遠の聖父の御一人子、そして人間としては終生童貞なる聖マリアの子供。

いつも、「マリア様の奴隷としての奉献」という風によく言われますけれども、でも実はよく分析すると、「イエズス様への奉献」なのです。実は、この元々のグリニョン・ド・モンフォールの手による原稿には、「マリアの手を通して、人となった永遠の知恵イエズス・キリストに自分を奉献する」とあります。

次には、ミサの4つの目的の適用が現れます。つまり、祈りの全てがここに含まれています。つまり「礼拝」「感謝」「罪の償い」それから「願い」。

ですから最初に聖グリニョン・ド・モンフォールは、「礼拝致します」という言葉を付けます。これは信仰告白の第一部をなしています、「御身こそが私の全てであって、私は御身を我が人生の中心として、全てとして礼拝します。」グリニョン・ド・モンフォールはいつも、天主聖父と御母聖マリア、天主聖父、元后マリア、というこの2つの観点をいつも身に離しません。

その次に「感謝」が来ます。なぜ感謝するのでしょうか?この感謝はいつも、自己奉献の為の感謝になっています、「なぜ感謝するかというと、私がその事を考える前に、あなたがまず奴隷になったからです。主であり、創造主であり、支配者であるあなたが奴隷になったからです。王であるあなたが、私の奴隷状態を、悪魔の奴隷状態から解放する為に奴隷になりました。マリア様の奴隷とさえなって、私の為に奴隷とさえなりました。」

その感謝の後には、「罪の赦しの求め」があります。その美しい現実、美しい理想とイエズス様のなさった事の前に、私の現実があります。まず私は約束を破った、という事を告白します、「私は御身を裏切った。私は御身をこの自分の生活から蹴飛ばした。私は御身の子供と呼ばれる資格もないし、ましてや奴隷とさえ言われる事もできない。私はもう捨てられて、こう憎まれ、嫌われるしかない。私が御元に戻るには、1つのチャンスしかありません。このチャンスは御身が私に下さったもので、それは御身の御母です。私はマリア様に立ち向かって、マリア様が私の為に特別な恵みを勝ち取って下さるように祈ります。憐れみと赦しを、そして天主へと立ち戻るように、私の内に御身がまた戻る事ができるようにお祈りします。」

次には、マリア様の方に目を向けます、「あぁマリア様、今からあなたの方に目を向けます、無原罪のマリア様。まず御身に挨拶して、御身がどなたであるかを告白します。」マリア様の素晴らしい特権を告白します。マリア様に関する特権ですけれども、特に私が今置かれている状況に関わる特別の特権を讃美します、「天主の生ける聖櫃、罪のない聖母マリア。私が見つける事ができないものも、御身に見つける事ができる。天地の元后。罪人の拠り所。そして私は御身にお願いします。どうぞ私の願いを叶えて下さい。私の完全な奉献を受け入れて下さい。」

それから契約の瞬間がやってきます。不忠実な罪人なる私は何をしたら良いでしょうか。本日、洗礼の約束を真面目に、真剣に更新します。この事について昨日説明しました。私は何度も何度も洗礼の約束を破り続けてきたので、このまま破り続ける事はできません。ですからこの約束をもう一度更新しなければなりません。「本日、私はあなたを選びます。」これが契約の行為です。「私は今から、あなたを母として、女王として選び、私は奴隷として、子供として捧げます。私と私に属するもの全てをあなたに捧げ尽くします。」先ほど奴隷とは何か、という事を黙想しましたが、この事です、全てを捧げる、と。「私自身と私に属する全てのものを、残りくまなく、お望みのままに、自由に処理する全権をお与えします。」これが奉献の本質です。

そしてこの後に、なぜこの奉献をするかというその動機を説明します、「このささやかな贈り物を受け止めて下さい。第1のこの奉献の動機は、それは、イエズス様があなたになさった服従を、従順を讃える為です。第2は、もちろんそうしなくても、御身は私の上に持っているのですけれども、イエズス様とマリア様が私の上に持っている権利を、もう一度確認する為に、という第2の動機があります。第3の動機は、聖三位一体がマリア様になさった特別の特権を認識する為です、確認する為です。」

それから、3つの事をお願いします。この3つのお願いは、マリア様の偉大さを表しています。マリア様の素晴らしさ、マリア様の徳を表しています。それを、「このマリア様の素晴らしさとこの力強さを、私の為に使って下さい」と言います。「いとも素晴らしい、いとも忠実な乙女よ、いとも素晴らしい母よ、」その素晴らしい母よ、その母がどれほど素晴らしいかを私たちは黙想しました。「私の無を受け止めて下さい。御身はこの全ての良い母を合わせたよりももっと私を愛して下さっています。その御身は私と一致して下さっています。」

御母、「母」というのは命を子供に与えます。「御身は母として私にキリストを下さいました。憐れみの母よ、御身の愛を私はますます理解します。この御身は愛を、無である私に注いで下さいました。どうぞ天主の知恵を私に満たして下さい。御身の愛する者の中に私を加えて下さい。そして教えて下さい。導いて下さい。養って下さい。保護して下さい。」この5つは母親としての役割ですけれども、これについてはすでに黙想しました。

「忠実な童貞、いとも忠実なる童貞。私も終わりまで忠実でありますように。それは、その為に私が創られた創造された、その究極のゴールに到達する事ができますように。」

まずこの奉献の祈りを黙想して、この内容について考えて下さい。そして、いつの日かこれを本当の契約として、マリア様となさる事を期待しています。

(「マリアの御手をとおして、人となった永遠の叡智イエズス・キリストに、自分自身を奉献する」日本語訳全文)

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