アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き2)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き2)
(C)内的生活こそは、使徒的活動のエネルギーと功徳を増進する
「わたしの子よ、あなたは、キリスト・イエズスにおける恩寵によって、強くなりなさい」Tu ergo, fili mi, confortare in gratia.(ティモテオ後2・1)
聖パウロは、愛弟子のティモテオに、こう書きおくった。
ここにいっている恩寵とは、天主の人イエズス・キリストのご生命に参与することである。
被造物は、ある程度の強さの力は、持ってはいるだろう。しかもそれが、どんなに弱いものであっても、これを“力”(force)の部類に入れることができる。これを“力”と定義することができよう。
だが、イエズスこそは、その本質上、“力”そのものでいらっしゃる。
イエズスのうちにこそ、御父の力は、実体的に充満してやどっている。
イエズスのうちにこそ、天主の全能の活動力は、あふれるばかりに宿っている。
さればこそ、イエズスの霊は、“力”の霊、“剛毅”の霊とよばれるのだ。
「ああ、イエズスよ、ただあなたのうちにこそ、わたしのすべての力は、やどっているのです」ナジアンズの聖グレゴリオは、こう叫んでいる。
O Jésus, s'écrie saint Grégoire de Nazianze, en Vous seul réside toute ma force.
「ああ、イエズスよ、あなたが助けてくださらなければ、わたしは無力そのものです」とは、聖イエロニモの言葉である。
En dehors du Christ, dit à son tour saint Jérôme, je ne suis qu’impuissance.
熾天使的博士聖ボナヴェントゥラは、その著『神秘神学大要』のなかで、イエズスのお力がわれわれに帯びさせる、五つの主な特長を列挙している。その特長のおのおのについて、以下にかんたんに述べれば――
第一、 それは人をして、ひじょうに困難な仕事に、着手させる。また、仕事のじゃまとなる障害物があれば、断固たる勇気をふるって、これに立ち向かわせる。詩篇に、「強くあれ、心を雄々しくせよ」(詩篇30・24)とあるのは、このことをいっている。
第二、 それは人をして、はかない地上の事物を軽べつさせる。聖パウロが、「キリストのゆえに、わたしはすべてをうしなったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(フィリッピ3・8)といっているのは、このことである。
第三、 それは、苦しいときに、忍耐の徳をあたえてくれる。「愛は死のように強い」(雅歌8・6)
第四、 それは人をして、誘惑に抵抗させる。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、食いつくすべきものを求めて、あるきまわっている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」(ペトロ前5・9)
第五、 それは、心の殉教(le martyre intérieur)である。血こそ流さないが、生命のすべてをささげつくしての、愛のあかしである。その心は、たえまなくイエズスにむかって、こう叫んでいる。「主よ、わたしは、わたしの生命のすべてをささげつくして、あなたのものでありたい!」Je veux être tout à vous. と。
心の殉教とはなにか。――欲情にむかって、はげしく戦うことである。内心にわだかまる悪徳を、根だやすことである。善徳の獲得にむかって、必死に努力することである。
「わたしは、りっぱな戦いを、たたかい抜いた」(ティモテオ後4・7)
聖パウロがいった、この“りっぱな戦い”とは、とりもなおさず、心の殉教のことである。
外的な人は、生まれつき自分にそなわっている自然の能力に、あまりに信用をおいている。これに反して、内的な人は、そんなものを第一義にはおかず、それをただ、天主の恩寵の補助機関ぐらいにしか考えていない。
それはたしかに、役には立つだろう。だが、それだけでは、不十分なのだ。
一方に、自分は弱い者である、ということを確信している。
他方に、天主は全能である、ということを信じている。
この二つの確信こそは、かれに、自分の能力にかんしての、適確な評価をあたえてくれる。
たとえば、聖パウロがそうだった。
かれは、こもごもおしよせてくる困難の激浪にもてあそばれても、謙遜な誇りをもって、「わたしが弱いときにこそ、わたしは強いのだ」(コリント後12・10)と叫んでいる。
聖なる教皇ピオ十世の言葉が、ここにある。
「内的生活がなければ、使徒職も長続きしない。使徒職には、倦怠はつきものである。それを辛抱づよく耐えしのんでいくためには、どうしても超人的の力が必要である。内的生活のいとなみがないなら、この力はじきに欠けてくる。
使徒職はまた、善人からさえ、白い目をもって見られる。まして、協力なんぞほとんどしてもらえない。敵どもからは、さかんに悪口をいわれる。時としては、友人たちからさえ、ねたまれることもある。官憲からは、暴力をもって迫害される。……
これらの困難を遠ざけてくれるもの、またはその深刻さを和らげてくれるもの、それは、内的生活から生じる忍耐づよい、美徳以外のなにものでもない。善のうちに堅固にされた、同時に甘美で優雅な、忍耐の徳以外のなにものでもないのだ」
Sans vie intérieure, dit Pie X, les forces manqueront pour supporter avec persévérance les ennuis qu’entraîne avec lui tout apostolat, la froideur et le peu de concours des hommes de bien eux-mêmes, les calomnies des adversaires, parfois même les jalousies des amis, des compagnons d’armes... Seule, une vertu patiente, affermie dans le bien et en même temps suave et délicate, est capable d’écarter ou de diminuer ces difficultés.
(一九〇五年六月十一日ローマの諸司教にあてた教書)
念禱の生活によってこそ、天主のお力は、使徒の霊魂に、そそぎ入れられるのではないか。
天主のお力は、使徒の“知性”を強めて、ますます信仰に堅固ならしめる。
それはちょうど、ぶどうの木の樹液が、根から枝へとじゅんかんするのに似ている。
かれは、霊的生活に進歩する。
信仰が、最もかがやかしい光りをもって、霊生の道を照明してくれるからである。
かれは、断固たる決意をもって、前進する。
自分がどこへ行きたいと思っているのか、どうしたら目的地に達することができるのか、それをよく知っているからである。
知性が、このように照明されると、それにともなって、強烈な意志の超自然的エネルギーが、霊魂に浸透してくる。そして、この強烈なエネルギーのおかげで、どんなに弱い、どんなに変わりやすい性格の人でも、一躍して、英雄的行為ができるようになる。
そんなわけだから、「わたしに、とどまりなさい」(ヨハネ15・4)と仰せられたイエズスとの一致――この不変不動の御者、「ユダ族のライオン」と黙示録によばれているイエズス、「強い者をつくりだすパン」とよばれているこのイエズスとの一致が、どれほど人をして、不屈の堅実性と完全なねばり強さに富む者となすか、この点こそは、この種の奇跡を解明するカギともなる。そのみごとな範例を、われわれは感ずべき使徒、聖フランシスコ・サレジオに見いだすことができる。
かれこそは、その剛毅に、たぐいなき柔和と謙遜を加えた人である。
天主への愛が、ますます強くなっていくにつれ、この愛を基調とする内的生活によって、精神も、意志も、同様に強くなっていく。
イエズスは、この愛をきよめてくださる。みちびいてくださる。だんだんに増してくださる。ご自分のみ心の同情に、奮発に、自己放棄に、無私無欲に、すべての感情に、かれをあずからせてくださる。もしこの愛がふっとうして、一種の“熱情”にまで達するなら、そのとき愛は、イエズスのみ心にとけ入った右の諸感情――同情、奮発、自己放棄、無私無欲――を、最高の度合いまで高揚してくれる。そして、人が持っている自然の力も、超自然の力も、すべてこれをおのれの利益に、役立てるのである。
だからして、念禱の生活――内的生活――をいとなめば、霊的エネルギーがふえる。霊的エネルギーがふえれば、当然の結果、功徳もふえる、ということが、自然に理解されよう。なぜなら、すべて功徳というものは、仕事をなしとげるために克服しなければならない困難の度合いよりはむしろ、仕事をするときの、愛の強さ深さに存するからである。
(この章 続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き2)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き2)
(C)内的生活こそは、使徒的活動のエネルギーと功徳を増進する
「わたしの子よ、あなたは、キリスト・イエズスにおける恩寵によって、強くなりなさい」Tu ergo, fili mi, confortare in gratia.(ティモテオ後2・1)
聖パウロは、愛弟子のティモテオに、こう書きおくった。
ここにいっている恩寵とは、天主の人イエズス・キリストのご生命に参与することである。
被造物は、ある程度の強さの力は、持ってはいるだろう。しかもそれが、どんなに弱いものであっても、これを“力”(force)の部類に入れることができる。これを“力”と定義することができよう。
だが、イエズスこそは、その本質上、“力”そのものでいらっしゃる。
イエズスのうちにこそ、御父の力は、実体的に充満してやどっている。
イエズスのうちにこそ、天主の全能の活動力は、あふれるばかりに宿っている。
さればこそ、イエズスの霊は、“力”の霊、“剛毅”の霊とよばれるのだ。
「ああ、イエズスよ、ただあなたのうちにこそ、わたしのすべての力は、やどっているのです」ナジアンズの聖グレゴリオは、こう叫んでいる。
O Jésus, s'écrie saint Grégoire de Nazianze, en Vous seul réside toute ma force.
「ああ、イエズスよ、あなたが助けてくださらなければ、わたしは無力そのものです」とは、聖イエロニモの言葉である。
En dehors du Christ, dit à son tour saint Jérôme, je ne suis qu’impuissance.
熾天使的博士聖ボナヴェントゥラは、その著『神秘神学大要』のなかで、イエズスのお力がわれわれに帯びさせる、五つの主な特長を列挙している。その特長のおのおのについて、以下にかんたんに述べれば――
第一、 それは人をして、ひじょうに困難な仕事に、着手させる。また、仕事のじゃまとなる障害物があれば、断固たる勇気をふるって、これに立ち向かわせる。詩篇に、「強くあれ、心を雄々しくせよ」(詩篇30・24)とあるのは、このことをいっている。
第二、 それは人をして、はかない地上の事物を軽べつさせる。聖パウロが、「キリストのゆえに、わたしはすべてをうしなったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(フィリッピ3・8)といっているのは、このことである。
第三、 それは、苦しいときに、忍耐の徳をあたえてくれる。「愛は死のように強い」(雅歌8・6)
第四、 それは人をして、誘惑に抵抗させる。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、食いつくすべきものを求めて、あるきまわっている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」(ペトロ前5・9)
第五、 それは、心の殉教(le martyre intérieur)である。血こそ流さないが、生命のすべてをささげつくしての、愛のあかしである。その心は、たえまなくイエズスにむかって、こう叫んでいる。「主よ、わたしは、わたしの生命のすべてをささげつくして、あなたのものでありたい!」Je veux être tout à vous. と。
心の殉教とはなにか。――欲情にむかって、はげしく戦うことである。内心にわだかまる悪徳を、根だやすことである。善徳の獲得にむかって、必死に努力することである。
「わたしは、りっぱな戦いを、たたかい抜いた」(ティモテオ後4・7)
聖パウロがいった、この“りっぱな戦い”とは、とりもなおさず、心の殉教のことである。
外的な人は、生まれつき自分にそなわっている自然の能力に、あまりに信用をおいている。これに反して、内的な人は、そんなものを第一義にはおかず、それをただ、天主の恩寵の補助機関ぐらいにしか考えていない。
それはたしかに、役には立つだろう。だが、それだけでは、不十分なのだ。
一方に、自分は弱い者である、ということを確信している。
他方に、天主は全能である、ということを信じている。
この二つの確信こそは、かれに、自分の能力にかんしての、適確な評価をあたえてくれる。
たとえば、聖パウロがそうだった。
かれは、こもごもおしよせてくる困難の激浪にもてあそばれても、謙遜な誇りをもって、「わたしが弱いときにこそ、わたしは強いのだ」(コリント後12・10)と叫んでいる。
聖なる教皇ピオ十世の言葉が、ここにある。
「内的生活がなければ、使徒職も長続きしない。使徒職には、倦怠はつきものである。それを辛抱づよく耐えしのんでいくためには、どうしても超人的の力が必要である。内的生活のいとなみがないなら、この力はじきに欠けてくる。
使徒職はまた、善人からさえ、白い目をもって見られる。まして、協力なんぞほとんどしてもらえない。敵どもからは、さかんに悪口をいわれる。時としては、友人たちからさえ、ねたまれることもある。官憲からは、暴力をもって迫害される。……
これらの困難を遠ざけてくれるもの、またはその深刻さを和らげてくれるもの、それは、内的生活から生じる忍耐づよい、美徳以外のなにものでもない。善のうちに堅固にされた、同時に甘美で優雅な、忍耐の徳以外のなにものでもないのだ」
Sans vie intérieure, dit Pie X, les forces manqueront pour supporter avec persévérance les ennuis qu’entraîne avec lui tout apostolat, la froideur et le peu de concours des hommes de bien eux-mêmes, les calomnies des adversaires, parfois même les jalousies des amis, des compagnons d’armes... Seule, une vertu patiente, affermie dans le bien et en même temps suave et délicate, est capable d’écarter ou de diminuer ces difficultés.
(一九〇五年六月十一日ローマの諸司教にあてた教書)
念禱の生活によってこそ、天主のお力は、使徒の霊魂に、そそぎ入れられるのではないか。
天主のお力は、使徒の“知性”を強めて、ますます信仰に堅固ならしめる。
それはちょうど、ぶどうの木の樹液が、根から枝へとじゅんかんするのに似ている。
かれは、霊的生活に進歩する。
信仰が、最もかがやかしい光りをもって、霊生の道を照明してくれるからである。
かれは、断固たる決意をもって、前進する。
自分がどこへ行きたいと思っているのか、どうしたら目的地に達することができるのか、それをよく知っているからである。
知性が、このように照明されると、それにともなって、強烈な意志の超自然的エネルギーが、霊魂に浸透してくる。そして、この強烈なエネルギーのおかげで、どんなに弱い、どんなに変わりやすい性格の人でも、一躍して、英雄的行為ができるようになる。
そんなわけだから、「わたしに、とどまりなさい」(ヨハネ15・4)と仰せられたイエズスとの一致――この不変不動の御者、「ユダ族のライオン」と黙示録によばれているイエズス、「強い者をつくりだすパン」とよばれているこのイエズスとの一致が、どれほど人をして、不屈の堅実性と完全なねばり強さに富む者となすか、この点こそは、この種の奇跡を解明するカギともなる。そのみごとな範例を、われわれは感ずべき使徒、聖フランシスコ・サレジオに見いだすことができる。
かれこそは、その剛毅に、たぐいなき柔和と謙遜を加えた人である。
天主への愛が、ますます強くなっていくにつれ、この愛を基調とする内的生活によって、精神も、意志も、同様に強くなっていく。
イエズスは、この愛をきよめてくださる。みちびいてくださる。だんだんに増してくださる。ご自分のみ心の同情に、奮発に、自己放棄に、無私無欲に、すべての感情に、かれをあずからせてくださる。もしこの愛がふっとうして、一種の“熱情”にまで達するなら、そのとき愛は、イエズスのみ心にとけ入った右の諸感情――同情、奮発、自己放棄、無私無欲――を、最高の度合いまで高揚してくれる。そして、人が持っている自然の力も、超自然の力も、すべてこれをおのれの利益に、役立てるのである。
だからして、念禱の生活――内的生活――をいとなめば、霊的エネルギーがふえる。霊的エネルギーがふえれば、当然の結果、功徳もふえる、ということが、自然に理解されよう。なぜなら、すべて功徳というものは、仕事をなしとげるために克服しなければならない困難の度合いよりはむしろ、仕事をするときの、愛の強さ深さに存するからである。
(この章 続く)