Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

最後の晩餐で始まって十字架上の最後の息で終わったのは、一つの同じもの。私たちの救いをもたらした、主の命のいけにえだった。

2024年04月10日 | お説教・霊的講話

聖木曜日(大阪)

ワリエ神父 2024年3月28日

親愛なる兄弟の皆さん、今日のミサは、夕方の最後の晩餐とほぼ同じ時刻に行わなければなりません。
キリストは最後の晩餐で、いわゆる「過ぎ越しの小羊」を食べられました。
その何百年も前、ファラオの頑なな心のせいでエジプト人の初子が殺された一方で、ヘブライ人は、小羊をいけにえとして捧げて食べるように言われ、小羊の血が彼らを天主の御怒りから守りました。
そして毎年、「過ぎ越しの祭り」(つまりユダヤ教の復活祭)の時に、ユダヤ人は記念の儀式として、家で過ぎ越しの小羊を食べなければなりませんでした。
そのため、キリストは、使徒たちとともに最後の晩餐をなさったのです。

そのほふられた動物は、聖書が「世の罪を取り除く天主の小羊」と呼ぶお方のかたどりでした。
ですから、キリストは、ご聖体の秘跡を制定するために、そのユダヤ人の祭りの時を選ばれたのです。しかし、単に聖体拝領としてのご聖体ではなく、何よりもまず、ミサのいけにえとしてのご聖体なのです。
実際、最後の晩餐で始まって、十字架上のキリストの最後の息で終わったものは、一つのものであり、同じものでした。それは、私たちの救いをもたらした、私たちの主の命のいけにえだったのです。

ノブス・オルドの聖職者たちは、最後の晩餐は単なる食事にすぎないと述べて、食事としての新しいミサという考え方を正当化しています。そして彼らは、聖伝の奉献の祈りを、食事の前のユダヤ教の祈りに置き換えるまでに至ったのです!

事実およびカトリックの教理を率直に述べましょう。第一に、過ぎ越しの小羊を食べることは、普通の食事だったのではなく、定められた儀礼のある、家で行われる宗教的な儀式でした。第二に、ご聖体の制定とキリストのご受難およびご死去は、二つの異なる行為でも、二つの異なるいけにえでもありません。それは、キリストが最初は(ミサを考慮して)血を流さない方法でお捧げになり、最後に本当に御血を流された、一つの長く続くいけにえなのです。
したがって、ミサとは、血を流さない方法で捧げられるカルワリオのいけにえの更新、あるいは再現なのです。

今日のミサの最後に、「祭壇布の剥ぎ取り」の儀式があります。これは、私たちに、キリストが衣服を剥ぎ取られたことを思い起こさせます。また、私たちの心にも、キリストの肉体的、精神的な苦しみを思い起こさせましょう。

そのあと、私たちは、ご聖体を礼拝します。この聖なる夜のすべての出来事、つまり、最後の晩餐でのキリストの愛徳、ゲッセマニの園での恐ろしい苦悩、キリストの逮捕と屈辱的な夜の裁判、使徒たちによって見捨てられたことに、思いをはせましょう。

詩篇には、次のような預言があります。「私は共に悲しんでくれる人を求めたが、私を慰めてくれる人はいなかった。その人を探したが、見いださなかった」。

親愛なる兄弟の皆さん、今晩は、私たちが過去にしばしば行ってきたような、キリストを見捨てることがないようにしましょう。

キリストの傍らにとどまって、御悲しみの聖母との一致のうちに、キリストのご受難と一致しましょう。アーメン。



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