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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖母マリアさまの御誕生

2010年09月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖母マリアさまの御誕生です。

 原罪の汚れなく生まれた聖母マリアさま、天主の母となるべく選ばれた方、天主の御言葉である第二の天主のペルソナの生ける聖匱となるべく方、イエズス・キリストの十字架の功徳が既に適用されたインマクラータ、罪の陰さえない方、冷淡も中途半端な愛徳の行為もなく、全て天主への最高の愛徳に満ちた方、心を尽くし精神を尽くし、力を尽くし、霊魂を尽くし、全身全霊で全てを越えて天主を愛する方、聖母マリアさま!!

愛する兄弟姉妹の皆様、聖母マリアさまの御誕生日おめでとうございます。愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母マリアさまの御誕生

2010年09月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖母マリアさまの御誕生、おめでとうございます!!愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

天主に感謝!

2010年09月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様の御助けで、マニラでの修道院長の責務を果たしつつ、三週間がたちました。先週は、司祭の黙想会でした。めぐみに満ちた時でした。

 今週は、マニラで司祭たちの重要なミーティングがあります。管区長様やイロイロの修道院長様も集います。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローマ公教要理【使徒信経の部】をご紹介します(8)

2010年09月05日 | カトリックとは
第六章
第五条 古聖所 ( Inferi ) に下り、三日目に死者の中から復活された


1 この箇条の内容

 今しがた述べた、主イエズス・キリストの埋葬について知ることはひじょうに大切であるが、しかしかれが悪魔を打ち負かし地獄の住まいを荒らして得られた輝かしい勝利について知ることはそれ以上に大切である。したがってつぎにこの勝利について、また同時に復活について述べなければならない。これらはそれ自体としては当然、分離して取り扱うこともできるが、ここでは聖なる教父たちにならって両者を一緒に取り扱うことにしよう。
 この第五条の第一部はキリストの御死去のあとその魂は古聖所に下り、体が墓におかれていた間そこにとどまったことを、信ずべきこととして教えている。またこの箇条では同じキリストのペルソナが同時に古聖所と墓にあったことも宣言されている。こう言ったからといってだれもそれを不思議に思ってはならない。なぜならこれまでしばしば述べたように霊魂は体から離れても神性は霊魂からも体からも決して離れなかったからである。

2 古聖所 ( Inferi ) とは何か

 司牧者はまずここで言われた古聖所 ( 訳注:Inferi は、よみ、冥土などと訳されている ) という語が何を意味するかを教えるべきで、それによってこの箇条の説明に大きな光をもたらすことができる。ここで言われる古聖所はある人々がその不信仰と無知から言っていたように墓ではないことに注意させるべきである。もしそうだとするならばすでに前の箇条で主キリストが葬られたことを知っている私たちに使徒たちはまた同じことを前とは違った、しかも一層難解な表現で繰り返すという、意味のないことになるからである。
 古聖所という語は、まだ天国の至福を得ていない霊魂たちがとどまる隠れた場所を意味する。聖書は多くの箇所でこの語をそのような意味にとっている。聖パウロは「イエズスの御名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下( 訳注:古聖所 ) にあるものもみな膝をかがめる」(フィ2:10)と書き、聖ペトロは使徒行録で、主キリストは古聖所の苦しみから解放されよみがえったと言っている(使2:24参照)。

3 それはどのような場所か

 しかしこのような場所は全部、同一種類のものではい。そのうちのあるものは恐ろしい暗い牢獄で、断罪された人々の魂はそこで汚れた霊たちと一緒に永遠に消えない火によって苦しめられる(マ25:41参照)。これはゲヘンナ(マ5:22など参照)、深い淵とも呼ばれ(黙9:11参照)、厳密な意味での地獄である(ル16:23参照)。
 つぎに煉獄の火がある。そこでは敬虔な人々の霊魂がいかなる汚れも受け入れない(黙21:27参照) 永遠の祖国に入るため、一定の期間、苦しみを受けるところである。トリエント公会議の決議によると、この真理は聖書の証明によってまた使徒継承によって明らかであり(1)、現代は人々がもはや健全な教えを忍ばない時代である(ティ②4:3参照)だけに、司牧者は熱心にまたしばしばこの真理を教えなければならない。
 さいごの第三の場所はキリストの到来前の聖人たちの霊魂がとどまっていたところで、かれらはそこで何らの苦痛も感じることなくあがないの希望に生き、平和な生活を楽しんでいた。キリストは古聖所にお下りになり、アブラハムのふところにあって救い主を待っていたこれらの敬虔な人々の霊魂を解放したのである。

4 キリストの霊魂自体が古聖所に下った

 かれが古聖所に下られたのは、ただ力をそこに及ぼしたということで霊魂自体が下ったのではないと考えてはならない。むしろ霊魂そのものがそこに下り現存したと信ずべきである。それについてダヴィドはきわめて確かな証明を与えている。「あなたは、私の魂を、古聖所に見すてはしない」(詩16:10参照)。

5 それはキリストの尊厳を傷つけるものではない

 キリストは古聖所に下られたとはいえ、それによってその最高の権威を何ら失うことはなく、またその聖性の輝きも何らかの汚れで曇らされることもなかった。むしろこの出来事によってかれの聖性について言われていたことがたしかに真実であったこと、また以前にかれがあれほどの不思議をもって宣言されたように、かれが神の子であることがはっきりと確認されたのである。このことはキリストが古聖所にお下りになった理由と、ほかの人々がそこに下った理由とを比較してみればすぐにわかる。ほかの人々は捕らわれの身としてそこに下っていた。しかしキリストは死者の中にあって自由の身で勝利者の立場にあり、罪をたてに人々をそこに閉じ込め、つないでいた悪魔を打ち負かすためにお下りになったのである。
 さらに古聖所に下った他のすべての人々のうち、あるものは苛酷な罰に苦しめられ、あるものは苦しみを免れていたとはいえ神を見ることはゆるされず、期待していた至福の栄光を待つしかなかった。しかし主キリストは苦しむためではなく聖なる義人たちを捕らわれのみじめな状態から解放し、ご自分の受難の恵みを与えるためにお下りになったのである。したがってかれが古聖所に下られたことによって、かれの最高の尊厳や権能は決してそこなわれなかったのである。

6 なぜキリストは古聖所に下られたのか

 以上のことを説明したあと、つぎのことを教えなければならない。主キリストが古聖所にお下りになったのは悪魔からその捕虜を奪い返し、聖なる太祖たちおよびその他の敬虔な人々を牢獄から解放しご自分と一緒に天国に連れて行くためであった。このことは無限の栄光のうちに見事に行われた。実際かれの現存は直ちに捕らわれ人たちに輝かしい光をもたらし、かれらの霊魂を無限の喜びと歓喜をもって満たし、神を直観するというあれほど望んでいた至福を分け与えたのである。こうして、主が改心した犯罪人に対して「今日あなたは、私とともに天国にあるであろう」(ル23:43)とおおせられて約束されたことが実現したのである。
 この敬虔な人々の解放についてホゼアはずっと以前につぎのように預言している。「死よ、あなたのたたりは、どこにあるのか?よみの国よ、あなたのほろびは、どこにあるのか?」(ホ13:14)。預言者ザカリアも同じように述べている。「あなたについていえば、あなたと結んだ契約の血のために、私は、あなたの捕らわれ人を水のない井戸の中から、つれ戻す」(ザ9:11)。使徒聖パウロも同じように言っている。「権勢と能力とをはいで公にさらしものにし、キリストの勝利のとりことして引き連れられた」(コロ2:15)。しかしこの奥義の効果をさらによく理解するため、しばしばつぎのことを思い起こさなければならない。つまりこの敬虔な人々とは主のご到来後に生まれた人たちだけでなく、アダムからキリストの到来までに生まれた人々、また世の終わりまでに生まれる人々もキリストの御受難の恵みによって救われるのである。
 従って、彼が死に、復活されるまではすべての人にとって天の門は閉ざされていた。そして敬虔な人々の霊魂は生きている人々から離れて、あるいはアブラハムのふところに運ばれ、あるいは今日でもそうであるが、清め払わなくてはならないものをもっているものは煉獄の火によって清められていた。
 主キリストが古聖所にお下りになったいま一つの理由は、天と地と同様、古聖所においてもご自分の力と権能とを表すためであった。「それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下( 訳注:古聖所 ) にあるものもみな膝をかがめるためである」(フィ2:10)。
 このように見てくるとだれもが、人類にたいする神の寛大さに感嘆し驚かずにいられない。神は私たちのために苛酷な死をとげられただけでなく、地の低いところにまで下り、そこから最愛の霊魂たちを引き出し至福に導き入れようとされたのである。

7 第五条の後半の内容

 つぎにこの箇条の後半について述べるが、この説明に当たって司牧者はいかに努力しなければならないかを示して聖パウロは、「主イエズス・キリストが死者からよみがえられたことを記憶せよ」(ティ②2:8参照)と言っている。このようにかれがティモテオに命じていることはその他の霊魂の司牧者にも命じられていることは明らかである。
 さてこの箇条の意味はつぎのとおりである。主キリストは金曜日の午後三時に十字架上で息を引きとられたあと、同じ日の夕方弟子たちによって葬られた(ヨ19:38~42参照)。かれらは総督ピラトの許可を得て主の御体を十字架からおろし、近くの庭園にあった新しい墓に運び入れたのであった。そして死んでから三日目の日曜日の朝早く(マ28:1、マル16:2、ル24:1、ヨ20:1参照)かれの霊魂はふたたび体に合わされた。こうして三日間死んでいたお方は死ぬことによって失っていた生命を取りもどし復活された。

8 キリストはご自分の力で復活された

 しかし復活ということは、単にキリストがほかの多くの人々と同じように死者の中から生き返ったことを意味すると考えてはならない。かれはご自分の力と働きによって復活したのであり、これは、かれだけができる特別なことである。自分の力で自分を死から生命にもどすことは自然的なことではなく、まただれにもそのような力は与えられなかった。これはただ神だけがその最高の権能をもってできることで、聖パウロは「かれは弱さのために十字架につけられたが、神の力によって生きておられる」(コ②13:4)と言っている。なぜなら神の御力は墓にあるキリストの御体からも、また古聖所に下ったかれの霊魂からも決して離れず、この力によって御体は霊魂にふたたび合わされ、また御霊魂もふたたび御体にもどされ、こうしてキリストはご自分の力で生き返り死者の中から復活されたのである。
 ダヴィドは神の霊に満たされて、このことをつぎのようなことばで予告している。「そのおん右、その聖いおん腕は、勝利をえた」(詩98:1)。キリストご自身、みずからそのことを確認しておられる。「私が命をふたたびとりもどすために、自分の命をあたえる……私にはそれをあたえる権利があり、またとりもどす権利もある」(ヨ10:17~18)。また主はこの真理を確証してユダヤ人に向かいこうおおせられた。「この神殿をこわしたら、私は、三日でそれを建て直そう」(ヨ2:19)。ユダヤ人は見事な石造りの神殿のことを考えていたが、かれは聖書が同じ箇所で述べているように、ご自分の御体のことを話しておられたのである(ヨ2:20~22参照)。聖書には時として、主キリストは御父によって復活させられたと書かれているが(使2:24、3:15、ロ8:11参照)、その場合のキリストとは人間としてのキリストのことである。そしてかれが自力で復活されたということは(ロ8:34参照) 神としてのかれについて言われているのである。

9 死者の中から最初に生まれたお方と言われるわけ

 さらにキリストの復活の特殊な点は、かれがすべての人々の中で最初に復活という神の恵みを受けられたことである。聖書はかれを「死者の中から最初に生まれたお方」(コロ1:18、黙1:5)と呼んでいる。また聖パウロはつぎのように書いている。「キリストは、死者の中から復活して、死者の初穂となられた。一人の人間によって死が来たように、一人の人によって死者の復活も来た。すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生きかえる。しかし、おのおの順列があり、まず初穂であるキリスト、次に来臨のときキリストのものである人々がつづく」(コ①15:20~23)。
 これらのことばは、死の必然性を全く取り去り不滅の生命へと向かわせる、完全な復活のことを言っているのである。さて主キリストはこのような復活をされた最初のお方である。もし復活が、死ぬはずの生命をふたたび取りもどすことであるとするならば、キリストよりも先に多くの人々が復活している。しかしこれらの人々はみな、生き返ってもふたたび死ななければならなかった。ところが主キリストはご自分の復活によって死に打ち勝ち、これを征服し、もはや死ぬことはありえなかった。このことを聖パウロはつぎのようにはっきりと証明している。「死者からよみがえられたキリストはもう死ぬことがないと私たちは知っている。かれに対してもはや死は、何の力ももっていない」(ロ6:9)。

10 なぜ三日目に復活されたのか

 この箇条には「三日目に」ということばが加えられているが、信者たちがキリストはまる三日間墓の中にあったと考えることのないよう、それについて説明しなければならない。かれは土曜日丸一日と、その前日の金曜日の一部と日曜日の一部を墓の中で過ごされた。したがってかれは三日間墓の中におられたとも言える。そして三日目に死者の中から復活されたのである。
 かれはご自分が神であることを示すため復活を世の終わりまでおくらせることを望まれなかった。またご自分がほんとうに人間であり実際に死んだことを証明するため、死んですぐにではなく死後三日目によみがえられた。この長さの時間は、死が本物であったことを確認するために十分であると思われたからである。

11 「聖書にあるとおり」ということばが加えられたわけ

 第一コンスタンティノープル公会議の教父たちは、この箇所に「聖書にあるとおり」ということばを加えた。このことばは聖パウロから借りたもので(コ①15:3参照) 復活の奥義がどれほど必要であったかをかれに教えられ、このことばを信経の中に入れたのである。聖パウロはこう言っている。「キリストが復活しなかったら、私たちの宣教は空しく、あなたたちの信仰も空しく………あなたたちはまだ罪の中にいる」(コ①15:14~17)。聖アウグスティヌスはこの箇条に言われている信仰に感嘆してこう書いている。「キリストが死んだことを信じることは大したことではない。これは異教徒やユダヤ人、またすべての罪人も信じている。そうだ、みながキリストは死んだと信じている。キリスト者の信仰とはキリストの復活を信じることである。私たちの信仰が偉大なのはかれが復活したと信じるからである」(3)。であるから主はしばしばご自分の復活についてお話しになった(マ16:21など参照)。弟子たちにご受難について話されるときはほとんどいつもご復活のことにふれられた。たとえば「人の子は異邦人にわたされ、あざけられ、侮辱され、つばをかけられるだろう。かれらは、人の子をむち打ち、そして殺すだろう」(ル18:32~33)と言われたあと、最後に、「それから三日目に、かれはよみがえる」(ル18:33)と付け加えておられる。またユダヤ人が、何らかのしるしまたは奇跡をもって自分の教えを証明するように求めたとき、かれは、「預言者ヨナのしるし以外のしるしは与えられない。すなわち、ヨナは三日三晩、海の怪物の腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」(マ12:39~40)とお答えになっている。
 さてこの箇条の内容と意味とをさらによくとらえるためには、つぎの三つの点を検討し把握しなければならない。まず、なぜキリストの復活は必要であったのか。つぎに、復活の目的および意図は何であったのか。最後に、復活は私たちにどのような利益と恵みをもたらしたのか。

12 なぜキリストの復活は必要であったか

 まず第一の点について言うと、キリストの復活は神の正義を表すために必要であった。すなわち神が、ご自分に従順であろうとして虐げられ、あらゆる恥辱を受けられたお方を称揚されるのは当然のことであった。聖パウロはフィリッピ人への書簡でこの理由をあげている。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった」(フィ2:8~9)。
 つぎに復活の第二の理由は、義化のために必要な私たちの信仰を強めるためである。なぜならキリストがご自分の力で復活されたことは、かれが神の子であるという最大の証明になるはずだからである。
 さらに私たちの希望をはぐくみ支えるためである。キリストが復活されたからこそ、私たちもまた復活するという確かな希望をもって生きるのである。なぜなら肢体は自分のかしらとその状態をともにするはずだからである。聖パウロはコリント人への書簡(コ①15:21参照)やテサロニケ人への書簡(テ①4:14参照)でそのように論証しているように思われる。また聖ペトロはこう言っている。「私たちの主イエズス・キリストの父なる神は、賛美されますように。神はその大いなるあわれみにより、イエズス・キリストの死者の中からの復活によって、私たちを、新たに生まれさせ、生きる希望をいだかせ、朽ちることなく、けがれることなく、しぼむこともない天のたくわえの遺産をつがせてくださった」(ペ①1:3~4)。
 最後に、主の復活は私たちの救いとあがないの奥義を完成させるために必要であった。キリストはご自分の死をもって私たちを罪から解放し、ご復活によって罪のために失っていた大切な恵みを取りもどしてくださった。そのため聖パウロは「主は私たちの罪のためにわたされ、私たちを義とするためによみがえられた」(ロ4:25) と書いている。すなわち人類の救いのために何ひとつ不足しないためには、かれの死と同様にかれの復活もまた必要だったのである。

13 キリストの復活による恵み

 以上の説明から主キリストの復活が信者たちにどれほどの恩恵をもたらしたかが把握できる。まず復活によって、神は不滅で、栄光に満ちたお方であり死と悪魔に対する勝利者であることが明らかにされており、私たちはキリストこそはまさにこのような神であることを何らの疑いもなく信じ告白するのである。
 つぎにキリストの復活は私たちの体の復活をもたらす。つまりかれの復活は私たちの復活の能動因であり、また私たちはみな主の復活にあやかって復活するはずである。聖パウロは、「一人の人間によって死が来たように、一人の人によって死者の復活も来た」(コ①15:21)と教えている。実際、神は私たちのあがないの奥義のすべてにおいて、キリストの人性をいわば道具因としてお用いになったのである。したがってキリストの復活は私たちの復活を実現するための手段であった。
 さらにキリストの復活はすべての復活のうちもっとも完全なもので、私たちの復活の模範であるとも言える。またキリストの御体が復活することによって不滅の栄光に入ったように、今は弱く滅ぶべきものである私たちの体も復活によって栄光と不滅に包まれるであろう(コ①15:42~44参照)。聖パウロはこう教えている。「私たちの国籍は天にあり、そこからこられる救い主イエズス・キリストを待っている。かれは、……私たちの卑しい体を、栄光の体のかたどりに変えられるであろう」(フィ3:20~21)。
 復活するのは善人だけでなく、罪をもったまま死んだ人々も復活する。かれらにとってもまたキリストの復活は模範であり聖パウロはつぎのように書いている。「……御父の栄光によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた、新しい命に歩む……。実に私たちがキリストの死にあやかって、かれと一体となったなら、その復活にもあやかるであろう」(ロ6:4~5)。そしてその少しあとで、「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことがないと私たちは知っている。かれに対してもはや死は、何の力ももっていない。キリストにおいて死んだものは、永久に罪に死に、生きるものは、神のために生きる。同様にあなたたちも、自分は罪に死んだもの、キリスト・イエズスにおいて神のために生きるものだと思え」(ロ6:9~11) と言っている。

14 キリストの復活にあやかること

 したがって私たちはキリストの復活から二つのことを学ぶべきである。まず私たちは、罪の汚れを洗い去ったあと、非の打ちどころのない生活、清さ、聖性、節制、正義、慈愛、謙遜に秀でた新しい生活をしなければならない。つぎにこの新しい生活を堅持し、主のお助けのもとに一度歩きはじめた正義の道からそれることのないようにしなければならない。
 さて右にあげた聖パウロのことば(ロ6:9~11参照)によると、キリストの復活は私たちの復活の模範であるだけでなく、実際に私たちに復活する力を与え、また私たちが聖性と正義にとどまり神の掟を守るための力と霊とを与える。私たちはキリストの御死去から罪に死ぬことを学んだだけでなく、罪に死ぬ力をもくみ取った。同様にキリストの復活は私たちに正義を得るための力をもたらし、以後、敬虔と聖性とをもって神に仕え、新しい生活に復活し、それを生きるようにさせる。主はご自分の復活をもってとくに、以前かれとともに罪とこの世とに死んだ私たちが、またかれとともに全く新しい規律ある生活に復活するようにされたのである。

15 キリストとともに復活した人のしるし

 このような復活をした人々のもつおもなしるしは何か。それについて聖パウロはこう言っている。「あなたたちがキリストとともによみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、神の右に座しておられる」(コロ3:1)。かれは、キリストがおられるところで生命、栄誉、安息、富を得ようとする人々こそキリストとともに復活したものであると明言している。また「あなたたちは地上のことではなく、上のことを慕え」(コロ3:2)と付け加えているが、これは私たちがキリストとともに実際に復活したかどうかを知るための、もう一つのしるしである。一般に味覚は体の調子や健康状態を表すものであるが、それと同じようにある人がすべてのまこと、すべての気高いこと、すべての正しいこと、すべての聖なること(フィ4:8参照)を味わい、また天上の事柄について心の中に喜びを感じるならば、それはかれがイエズス・キリストとともに新しい霊的な生命に復活したという大きな証拠である。

訳注  (1) Conc. Tridentinum, Sess. ⅩⅩⅤ, DS 1820 参照
(2) Conc. Constantinopolitanum , Symbolum Constantinopolitanum , DS 150 参照
(3) S. Augustinus, in Psalmum 120, 4




ローマ公教要理【使徒信経の部】をご紹介します(7)

2010年09月04日 | カトリックとは
第五章
第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる


1 第四条の意味

 聖パウロは、この第四条を知ることがどれほど必要であるか、また信者たちが主の御受難についてしばしば黙想できるよう、司牧者はどれほど入念に努力しなければならないかを教えて、イエズス・キリストのこの十字架に付けられたもの以外は何も知らないと言っている(コ①2:2参照)。したがってあらゆる配慮と努力をもってこの真理を浮き彫りにし、信者たちがこれほどの恩恵を思い起こしてそれに刺激され、全身全霊をあげて、私たちに対する神の愛と寛大さを受け入れるようにすべきである。
 この箇条の第一部 (第二部については後述する) は、主キリストはポンシオ・ピラトがティベリウス帝の命によってユダヤ地方を治めていたとき十字架に付けられたことを信ずべきこととして教えている。キリストは逮捕され、嘲笑され、あらゆる侮辱や責め苦を受け、ついに十字架に付けられたのであった。

2 キリストは魂全体で十字架の苦しみを感じられた

 キリストの魂の下部構造は苦しまなかったなどと考えてはならない。かれがほんとうの人性をおとりになったのであるから、当然その魂においても非常な苦しみを感じられたと言うべきである。実際かれは、「私の魂は、死なんばかりに悲しんでいる」(ヤ26:38)と言っておられる。人性は神のペルソナに一致していたとはいえ、あたかも一致がなかったかのように受難の苦痛を味わわれたのである。イエズス・キリストという一つのペルソナに合わされた神性と人性はそれぞれの特性を保ち、苦しみ死ぬことができるものは苦しみ死ぬことができるものとしてとどまり、苦しみ死ぬことができないものつまり神性はその特性をそのまま保持していたのである。

3 ユダヤ総督のもとで受難したと言われるわけ

 キリストが受難されたのはポンシオ・ピラトがユダヤ地方の総督であった時であると言われているが、それはこれほど重大で必要とされた出来事が、それが起きた確実な時 (これは聖パウロによって確認されている〔ティ①6:13参照〕) をしるすことによって、すべての人に一層はっきりと知られるようにするためである。この信経の表現はまた、「かれらは、人の子に死を宣告し、異邦人に渡し、嘲弄させ、むち打たせ、十字架に付ける」(マ20:19)というキリストご自身による預言が成就したことを示している。

4 十字架上での死は偶然ではない

 キリストがことさら十字架の木の上において死んだのは、これもやはり神のご計画によるもので、それは死がはじまったところからふたたび生命をよみがえらせるためであった。木によって人祖に勝利をおさめたへびは、十字架の木によってキリストに打ち負かされたのである。聖なる教父たちは、私たちのあがない主がことさら十字架上での死を選ばれたことが妥当であったことを多くの理由をあげてくわしく説明しているが、それらを取りあげることもできよう。しかしキリストがそのような死を選ばれたのは、人類のあがないにもっともふさわしくまた適していたからであるという信仰をもつだけで十分でそれを信者たちに教えるべきである。たしかに、この刑罰ほど恥ずべきもの、卑しむべきものはない。十字架の刑は、異教徒の間では呪うべきもの、屈辱的で不名誉なものとされており、モイゼの律法でも「木につるされた人は、呪われたものである」 (第21:23、ガ3:13) 。

5 キリストの受難についてしばしば説教すること

 司牧者たちはまた、福音書記者たちがあれほど入念に書きとめている受難の物語を信者たちに教えることを怠ってはならない。それによって信者たちは私たちの信仰の真実性を確認するために必要な、この奥義の要点だけでも知るようになるであろう。実際キリスト教の信仰はこの箇条をいわば基礎としており、それが確立されるならば、他のすべての点は確立されるのである。なぜならもし人間の心と知性にとって何か問題があるとすれば、十字架の奥義こそは最大の難問題であって、私たちの救いが十字架とそれに付けられたお方から来るということはなかなか納得しがたいからである。しかし聖パウロによると、ここにこそ神の最高の摂理をみることができるのである。「この世は、自分の知恵によりたのみ神の知恵〔の業〕において神を認めなかったから、神は宣教の愚かさをもって信じるものを救おうとおぼしめされた」(コ①1:21)。したがってキリスト到来前の預言者たちや、キリスト復活後の使徒たちが、かれこそは世のあがない主であることを人々に納得させようとし、また十字架に付けられたお方の権能を認めさせ、これに従わせようとして、あれほど努力したのも不思議ではない。
 このように、十字架の奥義ほど人間の考え方からかけ離れたものはないところから、神は人祖の罪のあと表象や預言者のことばをもって、御子の死を絶えず予告された。その表象のいくつかをあげると、兄にねたまれて殺されたアベルがいる(創4: 8参照)。またイザアクのいけにえ(創22:1~8参照)、ユダヤ人が出エジプトのときに屠った子羊(出12:3~28参照)、モイゼが砂漠で高く上げた青銅のへび(民21:8~9参照) があり、これらは主キリストの受難と死の前表であった。預言者について言うと、キリストの受難と死について預言したものは非常に多く、それらは周知のことであり、ここで説明するまでもない。私たちのあがないのおもな奥義を詩篇の中で歌っているダヴィドは言うに及ばず (とくに詩2、22、69、110参照)、とくにイザヤの預言以上に明白ではっきりしたものを見いだすことはできないであろう。かれは、未来のことを預言するというよりはすでに実現されたことを述べているのではないかと思われるほどである(たとえばイ53参照)。

6 「死に、葬られた」という意味

 このことはイエズス・キリストが十字架に付けられたあと、実際に死に、葬られたことを教えており、司牧者はこれを信ずべきこととして信者たちに説明しなければならない。これは二つの信ずべきこととして分けて示されているが、それは理由のないことではない。キリストが十字架上で死んだことを否定するものもおり、使徒たちはその誤謬を排除するための信仰のこの点を強調しようとしたのである。
 この箇条の真実性については疑問の余地は全くない。福音書記者たちは全部、イエズスが息を引き取られたという点で一致しているからである(マ27:50、マル15:37、ル23:46、ヨ19:30参照)。さらにキリストはまことの完全な人間であったのであるから、実際に死ぬことがおできになった。霊魂が体から離れるとき人は死ぬ。したがってイエズスが死んだということは、かれの霊魂が体から離れたことを意味する。しかし神性が体から離れたとは言わない。むしろキリストの霊魂が体から離れたのちも神性は墓にある体および古聖所にある霊魂と常に一致していたことを固く信じ告白する。
 さて、「死の力をもつ悪魔を、死によって亡ぼし、死の恐怖によって生涯、奴隷となったすべてのものを解放するため」(ヘ2:14~15) に神の子の死が求められたのであった。

7 キリストの死は強制されたものではない

 しかしキリストの死の特殊な点は、ご自分でお決めになった時に死なれたことである。またかれの死は外部からの暴力によるものではなく、ご自分でお望みになった死であった。このように死はもちろんのこと、さらに死ぬ場所、時もご自分で決められた。イザヤはかれについて、「かれは自分で望んでささげられた」(ヴルガタ訳 イ53:7)と言っている。イエズスご自身も受難のまえご自分について、こうおおせられている。「私が命をふたたび取りもどすために、自分の命を与える。その命は、私からうばうものではなく、私がそれを与えるのである。私にはそれを与える権利があり、また取りもどす権利もある」(ヨ10:17~18)。またキリストは、ヘロデがご自分の命を奪おうとしてわなをかけているのを知ったとき、「あの狐にこう言いにいけ。私は今日と明日、悪魔を追い出し、病気を治し、そして三日目に完成する。しかし、今日も、明日も、次の日も、私は歩きつづけなければならない。預言者がイエルザレム以外で死ぬことは、ふさわしくないことだから」(ル13:32~33)とおおせられて、ご自分の死の時と場所について預言された。
 したがってかれは決してご自分の意志に反して、あるいは強いられてではなく、むしろ自らすすんでご自分をおささげになったのである。ご自分から敵の前に進み出て、「私がそうだ」(ヨ18:5)とおおせられ、そして不当に課せられるあらゆる残酷な責め苦をお受けになったのである。
 かれのすべての責め苦や苦しみを熱心に黙想すること以上に私たちの心を動かすものはない。もしだれかが、希望してではなくやむをえずしていろいろな苦しみを耐え忍んだとした場合、それは大して有り難いものではないかもしれない。しかしひたすら私たちのためだけを思って、避けることができたのに喜んで死を選んだ人があったとするならば、どれほど義理がたい人でも、これほどの恩にふさわしい感謝の気持ちを十分に表すことはもちろん、そのような気持ちをもつことさえできないであろう。このことから、イエズス・キリストの愛の格別の深さと、私たちのためのかれの神的功徳の偉大さを明察することができるであろう。

8 ことさら埋葬について述べるわけ

 さらに私たちはかれが葬られたことを告白する。しかしこれはすでに死について述べた説明と別のものではなく、また新しい問題をもち出すものでもない。キリストの死を信じている私たちには、かれが葬られたことは容易に納得できる。それでもこのことばが加えられているのは、まず、かれの死を疑問視する口実を与えないためである。なぜなら死んだという最大の証拠は、その体が葬られることだからである。つぎに、復活の奇跡をより一層明らかにするためである。
私たちはキリストの体が死んだことを信じているが、第四条のこのことばはさらに、神が死なれた、神がマリアからお生まれになったというようなカトリックの信仰表現に基づいて、神が葬られたことを信じるように求めている。実際、神性は墓に葬られたキリストの体から離れなかったのであるから、神が葬られたと告白するのは当然のことである。
 
9 キリストの死と埋葬においてとくに留意すべきこと

 埋葬の方法や場所の説明に当たって司牧者は福音書記者たちが述べていることを読むだけで十分な知識を得ることができるであろう(マ27:57~61、マル15:45~47、ル23:52~55、ヨ19:38~42参照)。しかしとくに二つのことに留意しなければならない。その一つは墓におさめられたキリストの体は、「あなたの友が腐敗をみるのを許されない」(詩16:10)と預言されたとおり決して腐敗しなかったことで、他の一つはこの箇条全体に関することであるが、受難や死、埋葬は神としてのキリストについてではなく、人間としてのキリストについて言われているということである。実際、苦しむことや死ぬことは神に帰せられるとはいえ、すべて人性だけに起きることである。したがってそのようなことは、完全な神であると同時に完全な人間であったお方について当然言えることは明らかである。

10 キリストの受難の理由は何か

 以上のことを述べたあと司牧者はキリストの受難および死について説明し、信者たちがこれほど深遠な奥義を理解するまでには至らなくとも少なくとも黙想できるようにすべきである。
まずこれらの苦しみをお受けになったのはだれかを説明しなければならない。しかしどれほどことばを尽くしても、このお方の尊厳は説明することも把握することもできないであろう。聖ヨハネは、「みことばは神とともにあった」(ヨ1:1)と言い、聖パウロはつぎのように述べている。「このおわりの日々には、子を万物の世つぎと定め、また、よってもって万物をつくられたその子を通じて語られた。神の光栄のかがやき、神の本性である子は、その勢力あるみことばによって宇宙を保ち、罪のきよめをおこなって、高いところの〔神の〕みいつの右にすわられた」(ヘ1:2~3)。一言でいうと、お苦しみになったのは神であり人間であるイエズス・キリストである。創造主がその被造物のために苦しみ、主人が奴隷のために苦しみ、天使、人間、天体をお造りになったお方つまりかれにおいて、かれによって、かれからすべてが存在するお方(ロ11: 36参照)がお苦しみになったのである。創造主があれほどの苦痛にいためつけられたのであるから、被造物全体が動揺したとしても不思議ではない。聖書は、地はふるえ、岩はさけ(マ27: 51参照)、太陽はくらみ、闇が全地を覆ったと言っている(ル23:44参照)。このようにもの言わぬ物や感覚のないものが自分たちの創造主の受難を悲しんだとするならば、いわば神の家の生きる石(ペ①2: 5参照)である信者たちはどれほどの涙を流して自分の悲しみを表さなければならないであろうか。

11 なぜキリストはあれほどまでに苦しまれたのか

 つぎに、御受難の原因について述べ、私たちに対する神の愛の偉大さと強さを一層明らかにするようにしなければならない。神の子があれほどまでに過酷な苦しみをお受けになった原因は何か。それは(人祖から受け継ぐ原罪のほかに)とくに人類が世の初めから今日まで犯し、さらに世の終わりまでに犯す罪や過ちのためであった。私たちの救い主である神の子がその受難と死をもって目指しておられたことは、すべての時代の罪をあがない、それを消し、御父に対して豊かで完全な罪の償いをすることであった。
 さらにキリストは罪人のために苦しまれただけでなく、かれが受けたすべての苦しみの張本人や執行人のためにも苦しまれた。聖パウロはヘブライ人への書簡でこう言っている。「これほど罪人からのさからいをたえ忍ばれたお方を考えよ。それは、あなたたちを、あかせないように、また失望させないようにするためであった」(ヘ12:3)。
 したがって、罪にしばしば陥る人々はみな、この犯罪の責任者であると考えるべきである。実際、私たちの罪が主キリストに十字架の苦しみを押し付けたのであるから、罪や過ちにとどまるものは「自ら神の子を十字架にふたたびくぎづけて、侮るものである」(ヘ6:6)。ユダヤ人は「もし知っていたら、栄光の主を十字架につけなかっただろう」(コ①2:8)と聖パウロが言っているように、知らなかったユダヤ人よりも私たちの方が罪が重いと言える。私たちはかれを知っていると宣言しながら行いをもって否定し、いわばかれに暴力をふるうからである。

12 キリストは御父によって渡され、また自らご自分を渡された

 聖書は、キリストは御父によって渡され、またご自分でご自分をお渡しになったと言っている。イザヤ書では、「かれは、私の民の罪のゆえに、打ちころされた」(イ53:8)と言われている。預言者イザヤはまた、傷と怪我に覆われた主の御姿を主の霊によってながめ、こう言っている。「私たちは、みな、羊のようにさまよい、おのおの、自分の道を歩んでいたが、主は、私たちみんなの罪をかれの上に、負わせられた」(イ53:6)。そして御子については、「かれは、あがないとしてわが身をささげることによって、末長く子孫を見るだろう」(イ53:10)と書いている。聖パウロは一層荘重なことばで同じことを表現し、また同時に神の無限の慈しみと善良さにどれほど期待できるかを示そうとして、つぎのように言っている。「ご自分の御子を惜しまずに私たちすべてに渡されたお方が、かれとともにほかのすべてを賜らないはずがあろうか」(ロ8:32)。

13 キリストは霊魂と肉体において苦しまれた

 つぎに司牧者は主の御受難がどれほど過酷なものであったかを説明すべきであろう。主はまさに受けようとする責め苦と拷問のことを思われただけで血の汗を地面に滴らせたのであった(ル22:44参照)。このことを思い起こすならば、かれの苦しみがそれ以上の苦しみはありえないほどのものであったことがだれにも理解できるであろう。実際、血の汗が示しているように受難がさし迫っていると思われただけでそれほど苦しまれたとするならば、受難そのものはいかほどのものであったろうか。
 主キリストが霊魂と肉体の最大の苦しみを受けられたことは明らかである。まずかれの体で苦しみを受けなかった部分はどこもない。足と手は十字架にくぎづけにされ、頭はいばらで刺されまた葦で打たれ、顔はつばきで汚され、そして平手打ちを食わされ、全身をむち打たれた。
 さらに、あらゆる身分や階層の人々は、「王とその注油されたものとに逆らって共謀する」(詩2:2)のであった。異邦人とユダヤ人は受難の煽動者、張本人であり実現者であった(マ26~27、マル14~15、ル22~23、ヨ13~19参照)。ユダはキリストを裏切り、ペトロはかれを否んだ。そのほかの弟子たちはかれをおきざりにした。
 さて十字架には苦しみの苛酷さをみるべきであろうか、それとも恥辱をみるべきであろうか、あるいはその両方をともにみるべきであろうか。たしかに十字架の刑はきわめて有害な極悪の犯罪人に課せられていたもので、これ以上屈辱的で苛酷な死を考えることはできない。またこの刑は死ぬまでに時間がかかり、そのため苦痛と責め苦をさらに一層感じさせるものであった。
 またイエズス・キリストの体格や体質ほその苦しみをさらに大きくした。かれの体は聖霊の働きによって形成されたもので、他の人々の体よりもはるかに完全で繊細であった。そのため他の人々にまして敏感な感受性を持ち、ほかの人々以上に苦しみを強く感じたのである。
 キリストの霊魂における内的苦悩が最高のものであったことはだれも疑うことはできない。責め苦や拷問にかけられた聖人たちには神からの霊的慰めがあり、それに支えられて忍耐づよく苦痛を耐え忍ぶことができた。なお多くのものは責め苦のさなかにあって心の喜びさえ感じていた。聖パウロは、「私はいま、あなたたちのために受けた苦しみを喜び、そこで、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところをみたそうとする」(コロ1:24)と言っている。またほかのところでは、「私は慰めにみたされ、どんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コ②7:4)とも書いている。しかし主
キリストはもっとも苦い受難の杯(マ26:39参照)を何らかの甘美さでうすめることなく、飲み干された。かれはあたかも神ではなく人間にすぎないかのように、おとりになった人性においてすべての苦しみを味わわれたのである。

14 キリストの受難による恵み

 このあと司牧者は、私たちが主の受難によって得た恵みと善についてくわしく説明しなければならない。主は受難によってまず、私たちを罪から解放された。聖ヨハネによるとかれは、「私たちを愛し、その御血によって私たちを罪から洗い清められた」(黙1:6)。聖パウロは、「神は、あなたたちのすべての罪をゆるし、かれとともに生かされた。私たちを責めて、私たちに反していた戒めの書を消し、それを取り去って十字架につけられた」(コロ2:13~14)と書いている。
 つぎに、キリストはその受難によって私たちを悪魔の暴虐から救い出された。主ご自身つぎのようにおおせられた。「今、この世の審判がおこなわれ、今、この世のかしらが追い出される。私は地上からあげられて、すべての人を、私のもとへ引きよせる」(ヨ12:31~32)。
キリストはまた私たちの罪の罰を償われた。さらにこのいけにえは、これ以上ふさわしくまたこころよいいけにえを神にささげることのできないほどのいけにえであり、これをもってキリストは、神と私たちとを和睦させ(コ②5:18参照)、神をなだめ私たちに好意をもたれるようにした。
さいごに、私たちの罪を取り去り、こうして、人類共通の罪のために閉ざされていた天国の門を開いた。このことを聖パウロは、「私たちはキリストのおん血によって、聖所に自由に入ることができる」(ヘ10:19)と言っている。旧約聖書にもこのような奥義の象徴や表象がないわけではない。たとえば、人々は大司祭が死ぬまえに祖国に帰ることを禁じられていたが、このことは、たとえ信心深い正しい生活をしたとしても、だれもあの最高永遠の司祭キリスト・イエズスが死ぬまで天の祖国の門をくぐることはできなかったことを示している。そしてキリストが死んですぐに、諸秘跡によってあがなわれ、信仰、希望、愛を身につけ、キリストの御受難にあずかる人々のために天の門が開かれたのである。

15 キリストの受難がこれほど効果的であったわけ

 司牧者は、これらすべての偉大な神の恵みは主の受難によってもたらされたことを教えなければならない。それはまず、キリストが感嘆すべき方法で私たちの罪のために神なる御父にささげた償いが、すべての償いにまさる完全なものであったからである。またかれが私たちのために払われた価は私たちの負債に相当するものであっただけでなく、それをはるかに超えるものであった。
 つぎに、かれのいけにえは神にもっともよみせられるものであった。御子が十字架の祭壇上でこのいけにえをささげるとすぐに御父の怒りと憤りは完全になだめられた。聖パウロはこのことを、「キリストは私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして神にご自分を渡された」(エ5:2)と表現している。
 キリストの受難は、また聖ペトロが言っているように、あがないであった。「あなたたちが、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、きずもなくしみもない子羊のような、キリストの尊いおん血によるのであることを、あなたたちは知っている」(ペ①1:18~19)。聖パウロも、「キリストは私たちのために呪いとなって、律法の呪いから私たちをあがなわれた」(ガ3:13)と書いている。

16 キリストの御受難にはすべての徳の手本が見出される

 キリストの御受難にはこれらの測りしれない恵みのほかに、もう一つの大きな恵みが含まれている。すなわちこの一つの受難にはもっともすばらしい徳の模範がある。忍耐、謙遜、並はずれた愛、寛容、従順、正義の徳を実行するためには、苦しみはもちろん死さえもいとわぬ不屈の精神が示されている。したがって私たちの救い主は、宣教の全期間を通じてお与えになった生命の教え全部を、受難の一日で身をもってお示しになったと言える。
 以上、救いのための主キリストの御受難と御死去について簡単に述べた。私たちはこれらの奥義を絶えず黙想し、主とともに苦しみ、死に、葬られることを学びたいものである。こうしてはじめて、罪のすべての汚れから清められ、キリストとともに新しい生命をもって復活し、ついにいつの日か、かれの慈愛と恩恵によって天の王国を受けてその栄光にあずかるに足るものとされるのであろう。


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2010年09月03日 | カトリックとは
第四章
第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた


1 第三条の意味

 前章の説明から信者たちは、神がもっとも過酷な暴君の奴隷となっていた人類を解放して自由の身とし、多くのすぐれた恵みをお与えになったことを理解できたことであろう。しかしながらそれをなしとげるためにお用いになったご計画や手段について考えるとき、私たちに対する神の善良さと慈愛はさらに一層明らかにまた見事にうきぼりにされてくる。
 したがって司牧者は第三条の説明をもってこの奥義の偉大さを示さなくてはならない。聖書は私たちの救いの、主要点としてこの点をあげそれを黙想するようにひんぱんに勧めている。
 この箇条の意味はつぎのとおりである。私たちの主イエズス・キリスト、神のおん独り子は私たちのためにおとめマリアの胎内で人間の体をおとりになり、他の人々のように男性の働きによってではなく、自然の秩序を全く超えて、聖霊の力によって宿されたこと(マ1:18、ル1:35参照)、こうして同じ一つのペルソナが永遠からそうであったように神としてとどまりながら、しかも同時に今までもたなかった人間性をおとりになったこと(ヨ1:14参照)を信じ告白する。
 この箇条がいま言ったとおりの意味であることは、聖なるコンスタンティノポリス公会議の信仰告白から明らかである。「かれは私たち人間のためまた私たちの救いのために天から下り、聖霊によっておとめマリアから肉を受け人となられた」。(1) また救い主ご自身の胸によりかかってこの崇高な奥義の知識を得た聖ヨハネも、同じように述べている。かれは「初めにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった」(ヨ1:1)ということばでみことばの本性を説明したあと、さいごに、「みことばは肉体となって私たちのうちに住まわれた」(ヨ1:14)と結論している。

2 キリストの神性と人性は混合したのではない

 神のヒュポスタシス( Hypostasis )であるみことばが人性をおとりになったのであるが、その場合神性と人性は同じ一つのヒュポスタシスつまりペルソナをもっているのである。この感嘆すべき一致において二つの本性はそれぞれの行為と特性とを保持している。大教皇聖レオは、「神性の栄光がより低いもの(人性)を消滅させず、また、御託身がより高いもの(神性)を低めないようにされた。」と言っている。(2)

3 聖霊だけが御託身の業を行われたのではない

 信経のことばの説明において欠けるところがあってはならない。そのため司牧者は、神の子は聖霊の力によって宿されたと言われているが、それは三位のうちの第三のペルソナだけが御託身の奥義を実現させたという意味ではないことを教えるべきである。つまり御子だけが人性をおとりになったとはいえ、この奥義の実現者は御父と御子と聖霊の三つのペルソナである。
 というのは、神がご自分のそとつまり被造物に対して行われることはすべて三つのペルソナに共通で、一つのペルソナは他のペルソナ以上にあるいは他のペルソナなしに独りで行うことはないというのが、キリスト教の信仰だからである。しかし一つのペルソナが他のペルソナから出生することは三つのペルソナに共通ではありえない。御子は御父からだけ生まれ、聖霊は御父と御子から発出する。これに対して三位のそとになされる事柄においては三位は互いに何らの差異なしに働かれる。神の子の御託身はまさにこの種類の働きである。
 とはいえ聖書は三位に共通のある働きを、とくにあるペルソナに帰することがある。たとえば万物に対する最高の権能は御父に、英知は御子に、愛は聖霊に帰せられている。そして御託身の奥義は私たちに対する神の格別な無限の慈愛を表しているところから特別に聖霊に帰せられるのである。

4 キリストの御託身は多くの点で自然の秩序を超えている

 この奥義のある点は自然の秩序を超えており、ある点は自然の力によってなされている。たとえばキリストの体はおとめマリアの清い血によってつくられ、こうして人性が与えられたと私たちは信じているが、体が母親の血によってつくられることはすべての人に共通のことである。しかしおとめマリアが、「私は主のはしためです。あなたのおことばのとおりになりますように」(ル1:38)と答えて天使のことばに同意するや否やただちに、いとも聖なるキリストの体が形成され、これに理性を備えた霊魂が合わされ、その瞬間に完全な神でありながら完全な人間になったということは、自然の秩序および人間の理解を超えている。さてこの前代未聞の感嘆すべき出来事が聖霊の御業であったことはだれも疑うことはできない。なぜなら自然の法則によると、どんな体もある一定の期間を経ないかぎり霊魂と一致することはできないからである。
 もっとも感嘆に価することは、キリストの霊魂が体と一致するとすぐに神性そのものが体と霊魂とに一致したことである。すなわち体が形成され生かされるとすぐに、神性が体と霊魂とに一致したのである。
 したがってキリストはその同じ瞬間に完全な神、完全な人となられたのである。そのため聖なるおとめは、同じ瞬間に神と人とを宿したところから、まことにまた実際に神と人の母なのである。天使はそのことをマリアに教え、つぎのように言っている。「あなたはみごもって子を生むでしょう。その子をイエズスと名づけなさい。それは偉大な方で、いと高きものの子、といわれます」(ル1:31~32)。こうして預言者イザヤの預言が実現された。「みよ、おとめがみごもり、ひとりの子を生み、それを、エンマヌエルとよぶだろう」(イ7:14)。同様にエリザベトもマリアに神の子が宿されているのを見て、聖霊に満たされて「主のおん母が私を訪問してくださったのですか!」(ル1:43)と叫んでいる。
 右に述べたようにキリストの体は男性の働きなしに、ただ聖霊の力によって全きおとめの清い血をもって形成されたのであるが、他方かれの霊魂はかれが宿された瞬間から神の霊の充満を受け、すべての霊能を豊かに授けられたのであった。聖ヨハネによると神はかれに他の人々のようには、かつて霊をお与えになったのではなく(ヨ3:34参照)、私たちみんながその満ちあふれるところから受けるほどにすべての恩恵を豊かにかれの霊魂に注がれたのである(ヨ1:16参照)。

5 キリストは神の養子ではない

 キリストは、聖人たちを神の養子にする聖霊をもっておられたとはいえそのためにかれを神の養子と呼ぶことはできない。かれはその本性によって神の子であったのであるから、養子としての恩恵や名称は決してかれにふさわしいものではない。

6 御託身の奥義について黙想すべきこと

 感嘆すべき御託身の奥義については、以上の諸点を説明しなければならない。そしてこれらの説明から霊的利益を引き出すため、信者は、私たちの肉をおとりになったのは神であること、かれは私たちの知性で理解することもことばで表現することもできない方法で人となられたこと、かれが人となられたのは私たちが神の子として再生するためであったことを思い起こし、またしばしば黙想しなければならない。信者はこれらのことを熱心に黙想することによって、この箇条に含まれているすべての奥義を謙遜ですなおな心をもって信じあがめるようになり、ほとんどいつも危険を伴う、好奇心にかられた詮索や探求はしなくなるであろう。

7 キリストはおとめマリアから生まれた

 「童貞マリアから生まれた」。これが司牧者が説明しなければならない第三条の第二点である。実際、信者たちは主イエズスが聖霊の力によって宿されたことだけでなく、処女マリアからお生まれになってこの世に来られたことも信じなければならない。この信仰の奥義をどれほどの心の喜悦と歓喜とをもって黙想すべきか、それはこの最良の知らせを世にもたらした天使のことばに示されている。「すべての人々のための大きなよろこびの知らせを、私はあなたたちに告げよう」(ル2:10)。また天の軍勢が歌っていたことばからも容易に理解できる。「いと高き所には神に栄光、地には善意の人々に平和」(ル2:14)。こうしていつかその子孫によってすべての民は祝福されるであろうという、アブラハムに対する神の約束が実現されたのである(創22:18参照)。なぜなら神であると同時に人間であるお方を生み、神のまことの母として認めあがめられているマリアはダヴィド王の子孫だからである。

8 キリストの誕生は自然の秩序を超えている

 キリストの懐胎そのものが自然の秩序を全く超越していたように、その誕生もまた全く超自然的なものであった。さらに、これ以上のことを言うことも、考えることもできないほどすばらしいことは、キリストが御母の処女性を少しもそこなうことなくお生まれになったことである。かれは復活のとき密閉され封印された墓から出られたように(マ28:2参照)、また戸は閉じてあったのに弟子たちのいる家に入って来られたように(ヨ20:26参照)、さらに自然現象から例をとって言うと、太陽と光線がガラスを割ったりいためたりせずにそれを貫くように、さらにそれ以上にすぐれた仕方で、御母の処女性をそこなわずしてお生まれになったのである。そのため、私たちはマリアの全き永遠の処女性を賛美したたえるのである。これは聖霊の力によってなされたことである。聖霊は御子の懐胎と誕生に当たってマリアに働きかけ、子を生む能力を与えると同時に永遠の処女性を保たせたのである。

9 キリストは第二のアダムで、マリアは第二のエヴァである

 使徒聖パウロは時としてイエズス・キリストを第二のアダムと呼び、第一のアダムと比較している(ロ5:12~19、コ①15:21~58参照)。実際、すべての人は第一のアダムにおいて死ぬものとなったが、第二のアダムにおいて生命に召された。アダムは自然的秩序による全人類の親であったが、キリストは恩恵と栄光をもたらすものである。第一のアダムと、第二のアダムであるキリストとの間になされるような比較は、第一のエヴァと第二のエヴァであるマリアとの間にもすることができる。エヴァはへびの言うことを信じ人類に呪いと死をもたらした (創3:4~24参照)。マリアは天使のことばを信じ、神の慈愛によって祝福と生命が人々に与えられるようにした(エ2:4参照)。私たちはエヴァのために怒りの子として生まれるのであるが、マリアをとおしてイエズス・キリストを受け入れ、かれによって恩恵の子として生まれ変わるのである。エヴァは、「あなたは、子を生むのに苦しまねばならない」(創3:16)と言われたが、マリアはこの定めを免れていて、先述したように処女性を完全に保ったままで、苦痛を全く感じることなく神の子イエズスを生んだのであった。

10 イエズスの懐胎と誕生を示す表象と預言

 この懐胎と誕生の奥義はきわめて偉大で感嘆すべきものであるので、神はみ摂理をもって多くの表象と預言をもって前もって表された。
 聖なる博士たちによると、この奥義は聖書の多くの箇所で示されている。とくに、エゼキエルが見た閉じられてある神殿の門(エゼ44:1~3参照)、ダニエル書にも言われている、人手を借りずに山から離れ大きな山のようになって金地を満たした石(ダ2:34~35参照)、イスラエルの族長たちの杖の中で一本だけ花を咲かせたアアロンの杖(民17:21~23参照)、モイゼが見た燃えあがっていたが燃え尽きないやぶ(出3:2参照)などがそれである。
 イエズスの誕生の次第についてはルカがくわしく伝えている。司牧者はそれを手近に参考できるので、ここで大して付け加えることもない。

11 御託身の奥義についてしばしば説明すべきこと


 司牧者は、私たちの教訓のために書きしるされたこの奥義(ロ15:4参照)を信者たちの精神と心に浸透させるように努力すべきである。まずこれほどのお恵みを思い起こし、それをお与えになった神に何らかの感謝をささげるようにさせ、またこれほどすぐれた謙遜の模範をかれらに示し模倣させるようにすべきである。
 実際、ご自分の栄光を人々に分かち与え、また人類の無能と弱さをご自分のものとされるまでに神がご自分を低くされたこと、神が人間になられたこと、聖書が言っているようにそのご命令によって天の柱がゆれるほどの最高無限の尊厳をもつお方が(ヨブ26:11参照) 人間にお仕えになったこと、天使たちが天において礼拝するお方が地上にお生まれになったことなどをしばしば黙想すること以上に私たちにとって有益で、また私たちの心の傲慢や不遜を抑えうるものはない。神が私たちのためにこれほどのことをされたのであれば、私たちはかれに仕えるために何も拒むことはできないであろう。またどれほど喜び勇んで謙遜の命ずるところを愛し受け入れ、実行すべきであろうか。信者たちは、キリストは何らかの声を発するまえ、生まれること自体によって、どれほど有益な教えをお与えになったかを知るべきである。かれは貧しいものとしてお生まれになった。旅人として、真冬に、さむざむとした馬屋でお生まれになった。聖ルカはつぎのように書いている。「そこにいる間に、マリアは産期みちて、初子を生んだので、布につつんで、まぐさおけに子を横たえた。それは旅館にかれのための部屋がなかったからである」(ヴルガタ訳 ル2:6~7)。福音書記者は、天地を満たすご威光と栄光をこれ以上つつましいことばで述べることができたであろうか。ルカは旅館に部屋がなかったとは書かず、かれのための部屋がなかったからであると書いている。そのかれとは、全地とそれを満たすものはすべて私のもの、とおおせられたお方のことである(詩50:12参照)。このことをほかの福音書記者は、「かれはご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった」(ヨ1:11)と言っている。
 信者たちはこれらのことを考えるとき、神が肉として私たちの卑賎さと弱さとを引き受けられたのは、人類に最高の尊厳をお与えになるためであったことを思うべきである。実際、神がその慈愛によって人間にお与えになった崇高な尊厳と卓越性を理解するためには、人となられたお方がまことの神であったことをみるだけで十分である。すなわち神の子は私たちの骨の骨、私たちの肉の肉(創2:23参照)であると誇ることができるほどで、これは天使たちにさえ与えられなかったものである。聖パウロも、「たしかにかれが助けるのは、天使ではなく、アブラハムの子孫である」(ヘ2:16)と言っている。
 さらに、キリストがお生まれになったときベトレヘムの旅館にはかれのための部屋がなかったが、それと同じように、肉においてではなく霊においてお生まれになろうとするキリストのために私たちの心の中にも場所がなく、こうして私たちの上に最大の不幸を招くことのないように注意しなければならない。実際キリストは私たちの救いを熱望し、この霊的誕生をはげしく望んでおられるのである。ところでかれは、聖霊の働きにより自然の秩序を超えて人となりお生まれになった聖なるお方で、まさに聖性そのものである。したがって私たちは血統によってではなく、また人や肉の意志によってでもなく、ただ神によって生まれなくてはならない(ヨ1:13参照)。そして新しい人として(ガ6:15参照)、新しい精神によって歩み(ロ7:6参照)、神の霊によって再生した人にふさわしい聖性と心の完全さを保つようにしなければならない。こうして神の子の懐胎と誕生を自分のうちにいくらか再現できるであろう。私たちはこれらの奥義を固く信じ、この信仰をもって神の隠された、奥義による英知(コ①2:7参照)を受け入れ礼拝するのである。

訳注  (1) Conc. Constantinopolitanum , Symbolum Constantinopolitanum , DS 150 参照
    (2) S. Leo, Sermo de Nativitate Domini , conf. Dam , lib. 3,cap. 17

ローマ公教要理【使徒信経の部】をご紹介します(5)

2010年09月02日 | カトリックとは
第三章
第二条 われらの主、イエズス・キリストを信じます


1 第二条の告白によってもたらされる恵み

人々はこの箇条を信じ告白することによって素晴しい恵みを受ける。そのことを聖ヨハネはつぎのように証言している。「イエズスが神の御子であると宣言するものには、神がその中にとどまられ、かれは神にとどまる」(ヨ①4:15)。使徒たちのかしらが主キリストから至福を公に告げられたことも、同じことを証明している。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いな人だ。その啓示は、血肉からのものではなくて、天にまします私の父から出たのである」(マ16:17)。実際、この箇条は私たちの救いとあがないの確固たる基礎をなすものである。

2 人類の罪とキリストによるあがない

この箇条に示されている感嘆すべき恵みは、とくに最初の人間が神から受けた至福の状態を失ったということから理解させるのであるから、司牧者は信者たちに人類全体に共通の苦悩と不幸の原因とを知らせるようにしなければならない。アダムは、「園のすべての木の実を自由にたべてもよい。だが、善悪の知識の木の実を食べてはいけない。それを食べたら、きっと死ねばならなくなるからである」(創2:16~17)という神のご命令に背き禁令を犯して、創造のとき与えられていた聖性と義を失い、その他の悪を受け、最大の不幸に陥った。それについてはトリエント公会議がくわしく説明している。(1) そして、かれの罪とその罰はアダムだけにとどまらず、種あるいは原因のような作用をして、かれのすべての子孫に伝ったことを思い起すべきである。

3 キリストだけが人類を救うことができる

こうして人類はあれほどの尊厳の高みから転落したのであるが、それを助け上げ以前の状態に返すことは人間や天使の力の及ぶところではなかった。したがってこの破滅と不幸から立ち上がる手段としては、神の御子の無限の力しかなかった。かれは私たちの肉の弱さをおとりになり罪の限りない暴力を排除し(ヨ1:29参照)、ご自分の御血をもって私たちを神と和ぼくさせた(ロ5:10参照)。

4 キリストに関する預言

 さて人類にとって、キリストによるあがないに対する信仰とその告白は救いを得るために常に必要であった。そのため神は世の初めからキリストのことを予告された。罪を犯してすぐ人間が断罪されたとき、つぎのようなことばであがないの希望が示され、人間が解放されることによって悪魔自身が断罪されることが告げられている。「おまえとかの女の間に、またおまえの子孫とかの女の子孫との間に、私は敵対をおこう、かれはおまえの頭をふみくだき、おまえは、かれのかかとをかむであろう」(創3:15)。
 その後神はしばしば同じ約束を確認され、特別に愛する人々にご自分の計画を一層明らかにされた。なかでも太祖アブラハムにこの奥義をしばしばお示しになったが、かれがご自分の命令に従い自分の息子イザアクをいけにえにささげようとしたそのとき、さらにはっきりとそれをお示しになった。「あなたが、このようにして、その息子、そのひとり子を惜しまなかったので、私はあなたをゆたかに祝福し、その子孫を空の星、浜のまさごのようにふやそう。あなたの子孫は、敵の門をうちとり、地のすべての民は、あなたの子孫によって、あなたが私の声にしたがったむくいとして、祝福のあいさつをかわすだろう」(創22:16~18)。このことばから推して、恐るべき悪魔の支配からすべての人を解放し救いをもたらすお方がアブラハムの子孫から出ることが容易に結論できる。さてこの預言された解放者とは、アブラハムの子孫から人としてお生まれになる神の子であった。その後まもなく神はこの約束の記憶を保っていくため、アブラハムの孫ヤコブと同じ契約を結ばれた。聖書の伝えるところによるとヤコブは、一つの階段が地上に立てられ、その頃は天にまで達し、神の天使たちが上ったり降りたりしているのを夢で見た(創28:12参照)。そして主がこの階段によりかかって、かれにこう言われるのを聞いた。「私はあなたの父アブラハムの神、イザアクの神、主である。あなたがよこたわっている地を、私は、あなたとあなたの子孫とにあたえよう。その子孫は土のちりのようにふえて、東西、南北にひろがり、あなたとあなたの子孫のことで、地上のすべての国民は祝福のあいさつをかわすだろう」(創28:13~14)。
 その後も神はご自分の約束の記憶を新たにされ、アブラハムの子孫およびその他の人々に救い主の待望をかき立てることをおやめにならなかった。すなわち救い主にして私たちの主であるイエズス・キリストがもたらされるはずの善がどのようなもので、またどれほどのものであるかを、ものを言わぬ物は表象によって、人々は預言をもって表わしたのである。預言者たちは天からの光に心を照らされ、神の子の誕生、人間としてお生まれになるかれの感嘆すべき御業、教え、習慣、生活、死、復活などその他のかれの奥義について、それらすべてをあたかも目撃したかのようにはっきりと教え、人々に預言した。それは、預言者による預言と使徒たちによる説教、また昔の太祖たちの信仰と私たちの信仰との間には未来と過去という時間の隔たりを除いて何の相違もないと思われるほどである。つぎにこの箇条のそれぞれのことばを説明することにしよう。

5 イエズスという語について

 イエズスとは神であると同時に人であるお方の名前で、救うものという意味をもっている。これは偶然にあるいは人間の判断や意思によるものではなく、神のご計画に従いそのご命令によって付けられたのである。天使は母マリアに向かってこう言っている。「あなたはみごもって子を生むでしょう。その子をイエズスと名づけなさい」(ル1:31)。その後マリアの夫ヨゼフに対しても子供にこの名前を付けるように命じ、さらにそのわけを説明している。「ダヴィドの子ヨゼフよ、ためらわずに、マリアをあなたの妻としてむかえよ。マリアは、聖霊によってみごもっている。かの女は子を生むから、あなたは、その子をイエズスと名づけよ。なぜなら、かれは、み民をその罪から救うお方だからである」(マ1:20~21)。

6 ほかの人の場合とは違うこと

 聖書によると多くの人がこの同じ名前をもっていた。ヌンの子もイエズスと呼ばれていた。かれはモイゼのあとを継ぎ、モイゼがエジプトから解放しながら約束の地に導きえなかった選民を、かれに代わってそこに導き入れた。心の英知を書き残したイエルザレムのシラの子や、大祭司ヨセデクの子もイエズスと呼ばれていた。しかしこの名前はどれほど私たちの救い主に適した名前であろうか。かれはある一民族だけでなく全時代のすべての民族に、またエジプトでの飢餓やバビロンの圧制に苦しめられている人々だけでなく死のかげに座している人々、罪と悪魔への過酷な隷属にあえいでいる人々にも、光、自由、救いをもたらした。また天の王国に入る権利とその遺産をかれらに得させ、かれらを父なる神と和睦させたのである。イエズスと呼ばれたこれらの人々は、いま述べたような恵みを人々にもたらした私たちの主イエズス・キリストの象徴にすぎない。また神のご命令によって神の子を呼ぶために用いられたその他の名前は、すべてこのイエズスという一つの名前に集約される。なぜならそのような名前は、かれによる救いのある点を表明しているのに対して、イエズスという名前はそれだけで全人類の救いの効果とその広さを表わしているからである。

7 「キリスト」という語の意味

イエズスという名前にキリストという名称が付け加えられている。これは注油されたものという意味で、敬称でありまた職名でもある。固有名詞ではなく多くの人々に共通して用いられる名詞である。たとえば私たちの先祖は司祭(出29:7、40:13、詩105:15参照)や王たち(サ①12:5参照)をキリストと呼んでいた。それは神がかれらの職務の尊厳のために注油することをお命じになっていたからである。つまり司祭は絶え間ない祈りをもって民を神にゆだね、神に祈りをささげまた民のために祈る。王は民の支配を託されている。またかれは法を守らせ、罪のない人々の生活を保護し犯罪人の横暴を罰する役目を帯びている。このように両者の役務はともに、この地上における神の威光を表わしているところから、王位や司祭職のために選ばれたものは注油されていたのである。また預言者は永遠の神の代弁者および仲介者として天の奥義を私たちに明かし、有益な教えと未来の預言をもって生活の改善を勧めるもので、かれらもまた注油されるのがならわしであった。
 さて私たちの救い主イエズス・キリストはこの世に来られ、預言者、司祭、王という三つの役割および役務をお引き受けになった。そのためかれはそれらの役務のための注油を受け、キリストと呼ばれたのである。しかしそれは人の手によってではなく天の御父ご自身によってなされ、物質的な油ではなく霊的な油つまり聖霊の充満と恩恵およびすべてのたまものがかれの聖なる魂に、どのような被造物も受けることのできないほど豊かに注がれることによってなされた。預言者ダヴィドはあがない主ご自身に話しかけながら、このことをつぎのように言っている。「あなたは正義を愛し、悪を憎んだ。そのため、あなたの神なる主は、あなたに油を注ぎ、あなたのともがらの誰にもまさって、あなたによろこびの油をそそがれた」(詩45:8)。預言者イザヤはさらにはっきり、こう言っている。「神なる主の霊は私の上にある。主は私に、油をそそがれた。くるしむものによい便りをつげ、くだかれた心のきずをまき、どれいに自由を、とらわれ人に出獄をつげるために」(イ61:1)。
 このように、イエズス・キリストは預言者であり最高の師であって、私たちに神の御旨を伝え、かれのみ教えによって人々は天の御父を知るようになった。預言者という名称をもっていたものはすべてイエズスの弟子であり、すべての人を救いに来られる預言者キリストの到来をとくに予告するために送られたのであった。したがってこの預言者という名称はイエズスにもっとも正確にまた明白にあてはまるものであった。
 キリストはまた司祭である。しかしかれは旧約におけるレヴィ族の司祭たちの位階による司祭ではなく、「あなたは永遠の司祭、メルキセデクの位にひとしい」(詩110:4)と預言者ダヴィドが歌っている。あの位階による司祭である。聖パウロはヘブライ人への書簡の中で、この詩篇の一節をくわしく説明している(ヘ5:6参照)。
 なお私たちは、キリストが神としてだけでなく私たちと同じ本性をもつ人間としても王であることを認める。天使はキリストについて、「永遠にヤコブの家をおさめ、その国はおわることがない」(ル1:33)と言っている。キリストの王国は霊的な永遠の王国で、この地上ではじまり天国で完成される。キリストは王としての役務を感嘆すべき配慮をもってご自分の教会に対して果たされる。教会を治め、敵の攻撃から守り、また教会に法をお与えになる。さらに聖性と正義をお与えになるだけでなく、存続していくための能力と手段もお与えになる。この王国には善人も悪人も含まれているので、原則的にはすべての人がこの王国に属しているとはいえ、神の掟を守り完全で罪のない生活をするものが他のものにまして私たちの王の慈愛と恵みを享受するのである。またキリストはたしかに偉大な王の子孫であったとはいえ(マ1:6~8、ル3:31参照)、かれがこの王国を得たのは世しゅうや人間的な権利によってではない。人間性がもちうる最高の力、尊厳、偉大さを神がかれにお与えになったからこそ、かれは王である(マ28:18参照)。全世界の支配はかれにゆだねられており、すべては裁きの日に完全に全面的にかれの下におかれるであろう。そしてそれはすでにはじめられている。

8 イエズス・キリストは神のおん独り子である

「そのおん独り子」ということばは、イエズスに関するさらに深い奥義を示しており、信者たちはこれを信じ黙想しなければならない。キリストは神の子で、かれを永遠においてお生みになった御父と全く同じまことの神である。私たちはさらに、かれが聖なる三位一体の第二のペルソナで、他の二つのペルソナと全く平等であることを告白する。実際、三つのペルソナは同一の本質、意志、能力をもっており、したがってかれらの間に不平等や差異はありえないし、また考えることもできない。このことは聖書の多くの箇所で明らかにされているが、とくに聖ヨハネはつぎのように証明している。「はじめにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった」(ヨ1:1)。 ところでイエズスが神の子であるとは言っても、かれの誕生について現世的なことや人間的なことを決して考えてはならない。永遠において御父が御子をお生みになった行為は、理性によって把握することも完全に理解することも決してできない。固くそれを信じ最大の信心をもってそれをあがめるべきである。そしてこの奥義を前にしていわば感きわまって、かの預言者と一緒に、「だれが、かれの誕生について語るだろうか」(ヴルガタ訳 イ53:8)と言うだけである。したがって御子は御父と同一の本性、同一の能力、同一の英知をもっておられることを信ずべきで、ニケア公会議の信経はつぎのように明確に宣言している。「また唯一の主、神のおん独り子イエズス・キリストを信じる。かれはよろずの世の先に父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、父と一体なり。すべては主によりて造られたり」(2)。

9 キリストにおける二つの誕生および父子関係について

 永遠の誕生の方法および性質を説明するためにはいろいろの比較が用いられているが、そのうちもっとも適当と思われるのは、私たちの知性の認識作用である。そのため聖ヨハネは御子を神の「みことば」と呼んでいる(ヨ1:1参照)。私たちの知性はある仕方で自分を理解し自分の像をつくる。神学者たちはそれをことばと呼んでいる。これは人間的なものと神的なものとを比較できるかぎりにおいてであるが、神はご自分を理解することによって永遠のみことばを生み出す。とはいえ信仰の教えるところを黙想する方がすぐれている。そして真心からイエズス・キリストがまことの神、まことの人であり、神としてはよろず代の先に御父から生まれ、人としてはおとめマリアから時間の中に生まれたことを信じ告白すべきである。私たちは御子の二重の誕生を認めるが、御子は一人であることを信じている。なぜならペルソナは一つで、そこで神性と人性とは一致しているからである。

10 キリストが兄弟たちをもっているという意味

 神的誕生という点からいうと、かれは兄弟も共同の遺産後継者ももたない。かれは御父のおん独り子であり、私たち人間はかれの被造物で、かれの手になる作品にすぎない。しかし人間としての誕生という点からいうと、かれは多くの人を兄弟とお呼びになっただけでなく、実際に兄弟として取り扱われ、ご自分と一緒に御父の遺産である栄光を受けられるようにされる。その人々とは信仰をもってキリストを受け入れ、この信仰を実際に愛の業をもって告白する人々のことである。そのため聖パウロはキリストを「多くの兄弟の長子」(ロ8:29)と呼んでいる。

11 キリストは神としてだけでなく、人としても私たちの主である

「われらの主」。聖書は私たちの救い主について多くのことを述べているが、そのうちのあるものは神としてのかれについて言われ、他のものは人間としてのかれについて言われている。実際、キリストは二つの本性から来るそれぞれ異なった特性をもっている。私たちは、キリストは全能であり、永遠、無限であると言うけれども、これらは神性から来る特性である。また、キリストは苦しみ、死に、復活したと言うが、これが人性について言われていることは明らかである。しかしあるものは両方の本性について言うことができる。たとえば、ここで言われている「われらの主」がそれである。
 確かにかれは御父と同じく永遠の神であり、また同様に御父と同じく万物の創造主である。御父とは別々の神ではなく全く同一の神であり、したがってかれと御父とは別々の主ではなく同一の主である。しかし多くの理由から私たちは人間としてのかれを私たちの主と正しく呼ぶことができる。それは、まずかれが私たちのあがない主であり、私たちを罪から解放されたことによってほんとうに私たちの主であり、またそう呼ばれる権利を得られたからである。聖パウロはつぎのように教えている。「かれは……自分自身を無とされた。……死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それはイエズスのみ名のまえに、天にあるものも地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が父なる神の栄光をあがめ、『イエズス・キリストは主である』といいあらわすためである」(フィ2:7~11)。キリストご自身も復活後、「私には、天と地との一切の権力が与えられている」(マ28:18)とおおせられている。また、かれは一つのペルソナに神性と人性という二つの本性を合わせもっておられることからも主と言われる。つまりたとえ私たちのために死なれなかったとしても、この感嘆すべき一致があるからこそ、創造された万物全体の主として、またとくにかれに従い最大の熱心さをもって仕える信者たちの主としてあがめられる資格をもっているのである。

12 キリストに自分をゆだねること

 したがって司牧者は、私たちはキリストのみ名にあやかってキリスト者と呼ばれていること、またかれが豊かにお与えになったお恵みについて無知であってはならないこと、さらにキリストはご自分で信仰を通じてそれらのことを私たちに知らせようとされたのであるから当然私たちは他の人々にまさってあがない主である主に、とこしえに自分をゆだねささげなければならないことを信者たちに教えるべきである。実際、私たちは洗礼によって奥義を授かるに当り、教会の入口でそのことを約束した。つまり悪魔を捨て、自分を全くキリストに渡すと宣言したのである。キリストの軍隊に入隊するに当ってあれほど荘厳で聖なる約束をもって自分を主にささげた私たちが、教会に入って神の御旨と掟を知り諸秘跡による恩恵を受けたのち、あたかも洗礼の洗い清めによってあがない主である主キリストにではなく悪魔と世間に身をささげたかのように、世間と悪魔の教えや掟に従って生きることがあるとするならば、どれほどの重刑を課されてしかるべきであろうか。一方、私たちに対してこれほどまでに寛大で好意的な神の聖心を思うとき、神に対する愛に燃え立たない人はいないであろう。実際、私たちは主の御血をもってあがなわれた奴隷としてその権能と支配の下にあるものなのに、かれは私たちを奴隷とは呼ばず、友あるいは兄弟とお呼びになるほどの愛をもっておられるのである(ヨ15:14~15参照)。これがキリストを私たちの主として認め、敬い、あがめなくてはならない、最も正しいまたおそらく最大の理由である。

訳注  (1) Conc. Tridentinum, Sess. Ⅴ et Ⅵ, DS 1510-1482 参照
    (2) Conc. Nicaenum, Symbolum Nicaenum, DS 125 参照

ローマ公教要理【使徒信経の部】をご紹介します(4)

2010年09月01日 | カトリックとは
第二章
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
(続き)



10 父という語に秘められている奥義とペルソナについて

 いま述べた説明のほかに、信者は父ということばを聞くとき、より崇高な奥義に心を向けなければならない。実際、神が住んでおられる近づけない光(ティ①6:16)の中に隠され秘められたもの、人間の理性と知性が期待することも推測することもできないことを、神の啓示は父ということばをもって示しはじめるのである。
 つまりこの呼び名は、神の一つの本性にはただ一つのペルソナだけでなくいくつかのペルソナを認めなければならないことを示している。実際、神性は御一体であるが三つのペルソナがある。それは他のいかなるものからも生まれない御父のペルソナと、すべての時代に先立って御父からお生まれになった御子のペルソナ、そして永遠から御父と御子から発出した聖霊のペルソナである。御父は唯一の神性をもつ第一のペルソナで、その御独り子と聖霊とともに唯一の神、唯一の主であるが、この三方は一つのペルソナを構成するのではなく、ただ一つの本性をもった三つのペルソナである。(3) これらのペルソナの間にはどんなわずかな差異や不平等も考えられず、ただペルソナ相互間の特性によって区別されている。つまり御父は生まれざるものであり、御子は御父から生まれたものである。そして聖霊は御父と御子から発出する。さらに私たちは、三つのペルソナは同一の本性、同一の実体をもっていることを告白する。つまり私たちは永遠の真の神に関する信仰告白では各ペルソナの独自性と実体の唯一性、三位間の平等を敬虔と真心をこめてあがめるべきことを宣言するのである。(4)
 したがって、御父は第一のペルソナであるとは言ってもこれを三位間の前後、大小の差別を示すものと受け取ってはならない。そのような不信仰は信者の考えの中にあってはならない。三つのペルソナは同じ永遠性、同じ栄光の輝きをもっているというのがキリスト教の信仰である。とはいえ御父は根源のない根源であるから、確信をもって何のためらいもなく、かれは第一のペルソナであると言明できる。そしてかれは父という特性によって他のペルソナと区別され、かれだけが永遠から御子を生む。したがって神は常に同時に御父でもあったことを思い起させるため、この信仰告白においては神と御父の名を一緒に用いているのである。
 これほど深遠で理解困難な真理を知りまた説明すること以上に微妙なものはなく、またこの点における誤りほど重大なものはないのであるから、司牧者はこの奥義の説明に使われる、本質、ペルソナという独自のことばに小心なまでに留意し、唯一性は本質について言われ、区別はペルソナについて言われていることを信者たちが分かるようにしなければならない。しかし、「尊厳を探るものは栄光によって圧倒されるであろう」(格25:27)ということばを思い起こし、この点について微細なこまごまとした探求はさけ、神がこの真理を私たちにお教えになったことを信仰をもって探り確かめるだけで満足すべきである(神の啓示を信じないことははなはだしく愚かなことであり、最大の不幸である)。私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに、「あなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、聖父と聖子と聖霊との、御名によって洗礼を授けよ」(マ28:19)とおおせられており、使徒聖ヨハネも、「天においては、御父とみことばと聖霊、この三つは一致する」(ヨ5:7)と言っている。
 さて神のご慈愛によってこれらのことを信じている人々には、無からすべてのものを造り出しそれを巧みにつかさどり(知8:1参照)、ご自分の子となる能力を授けて(ヨ1:12参照)聖なる三位一体の奥義を人間の魂に啓示された神に向かい、つぎのような恵みを絶えず熱心に祈り求めなければならない。すなわちいつか天国に受入れられ、かれを見、知ることによって、ご自分と平等で類似しておられる御子を生む御父の言い知れぬ豊かさを仰ぎ見ることができるよう、また御父と御子とは完全に平等で両者から発出する聖霊という愛の霊が、永遠不可分のきずなをもって生むものと生まれたものとを一致させるのを仰ぎ見ることができるよう、さらに三位間の本質の唯一性と三つのペルソナの完全な区別とを仰ぎ見ることができるよう懇願すべきである。

11 「全能」の意味

「全能の」神。聖書は、どれほどの信仰と熱心さとをもって神の全能をあがめなくてはならないかを示すため、多くの名称を用いて神の無限の力とその最高の尊厳を説明している。司牧者はまず、神はいつも全能の力をもつとされていることに注目させなければならない。神はご自身のことを「私は全能の主である」(創17:1)とおおせられた。またヤコブはヨゼフのところに子供たちを送るに当って、「私の全能の神なる主が、あの人の前にあなたたちにあわれみを得させてくださいますように」(創43:14)と祈っている。黙示録にも、「かつて在り、今もあり、のちに来られるお方、主なる神、全能のお方」(黙4:8)と書かれている。ほかの箇所には、「全能の神の日」という表現もある(黙16:14参照)。またいろいろな表現を用いて神が全能であることを示している。「神には、おできにならないことはありません」(ル1:37)。「主の手は短いというのか?」(民11:23)、「あなたが望みさえすれば、権勢はいつもあなたの手元にある」(知12:18)。その他この種の表現は多くあるが、それが言おうとしていることは明らかに全能という一語で表わすことができる。
 したがって、神が実現できないものは何も存在せず、またそのようなものを考えたり想像したりすることもできないことが分る。神は、それがどんなに偉大なことであれ何らかの形で私たちが考えつくこと、たとえばすべてを無にもどしたり、一瞬のうちに無から多くの世界を造ったりする力をもっておられるだけでなく、それよりもはるかに高遠な、人間の理性や知性の推測の及ばない多くのものにまでその能力は及ぶのである。

12 神は罪を犯したり誤ることはできない

 全能であるとはいっても神は偽りを言ったり、だましたり、だまされたり、また罪を犯したり、消滅したりすることはできない。またそれが何であれ知らないということもありえない。そのようなことは不完全な行為をする存在者においてみられることであり、神の行為はいつも無限に完全であるので、そのようなことを行うことはできない。そのようなことができるのは力の弱いものであって、最高、無限の能力をもっておられる神は行うことはできない。このように私たちは、神が全能であることを信じると同時に神の本性の最高の完全さと合致調和しないものはすべて神と無関係であることも知っている。

13 神の属性のうち全能だけを取り上げるわけ

 信経では神その他の属性を省略し神の全能だけを信ずべきこととしているが、それは正しくまた賢明なことであった。なぜなら神を全能者として認めることによって、それと同時に当然かれがすべてのことを知りまたすべてがかれの主権と支配に従属していることを告白することになるからである。なお神が全能であることを固く信じることによって、その当然の結果として全能であるために不可欠な、その他の完全さをたしかに神はおもちになっていることを認めざるをえないのである。
 さらに、神にとって不可能なことは何もないという確信ほど私たちの信仰と希望を強めうるものはない。それ以後信ずべきこととして教えられることはすべて、たとえそれがどれほど偉大なもの、不可解なものであっても、また自然の秩序や法則を超えるものであっても、一度神の全能について知った後では何のためらいもなく受入れられるであろう。また神の啓示の示すことがすぐれたものであればあるほど、一層喜んで信じるのが当然であると考えるようになるであろう。なお何かの善を期待する場合、それがどんなに大きくとも私たちの信頼をなくさせるようなことはなく、かえって全能の神に不可能なことは何もないことをしばしば思い起こして刺激され勇気づけられるであろう。
 したがって私たちは隣人の善と利益のために何か困難なことをしなければならない場合、あるいは何かを神に祈願しようとする場合、神の全能に対する信仰をもっていなければならない。前者の場合については主ご自身、使徒たちの不信仰をとがめながらこう教えておられる。「あなたたちに、からしだね一つぶほどの信仰があったら、この山に〝ここからあそこへ移れ〟といえば移るにちがいない」(マ17:20)。後者の場合について聖ヤコボはこう書いている。「迷うことなく、信仰をもって求めよ。迷う者は、風に巻き上げられ動かされる海の波に似ている。こういう人は、主から何かを受けようと期待するな」(ヤ1:6~7)。
 さらにこの信仰はその他多くの恵みと利益をもたらす。とくに、すべてにおいて心の節制と謙遜とをもつように教える。使徒たちのかしらは、「神の力あるみ手のもとにへりくだれ」(ペ①5:6)と言っている。また恐れる理由もないのに恐れることのないように(詩53:6参照)、ただ私たちと私たちのものすべてをみ手にしておられる(知7:16参照) 神のみを恐れる(詩33:8参照)ことを教える。救い主はこうおおせられた。「あなたたちが恐れねばならぬのは、だれかを教えよう。殺したのち、ゲヘンナに投げ入れる権力のあるお方をおそれよ」(ル12:5)。さいごに、この信仰は神がお与えになる多大の恵みを認め、それを感謝するのに役立つ。すなわち神が全能であることを思うとき、しばしば「全能のお方が私に偉大なことをなさった」(ル1:49)と叫ばないような恩知らずの人はだれもいないであろう。

14 御子と聖霊も全能である

この箇条では「全能の父」と言われているが、全能ということは御父だけについて言われ、御子や聖霊については言われないというような誤った考えをもってはならない。なぜなら父なる神、子なる神、聖霊である神と言うけれども三つの神があるのではなく、ただ一つの神があるだけである。それと同じく、御父、御子、聖霊は全能であると言ってもそれは三つの全能者があると言っているのではなく、ただ独りの全能者があることを認めている。しかしながら御父を全能者と呼ぶのは御父がすべてのものの起源であるという特別の理由からで、それはちょうど御父の永遠のみことばであるところから御子を英知と呼び、御父と御子の両者間の愛であるところから聖霊を愛とするのと同じである。しかしこれらおよびその他の特性はカトリック教会の信仰の規定に従って三つのペルソナに共通して言うことができるのである。

15 どのようにして神は天地をお造りになったか

「天地の創造主」。全能の神に関するこれまでの説明がどれほど必要であったかは、これから述べようとする万物の創造に関する説明で明らかになる。なぜならこれほどの不思議なわざも創造主の無限の能力を固く信じている人には容易に信じることができるからである。さて神はある材料を用いて世界をこしらえたのではなく無からお造りになったのである。それも何らかの圧力を受けたり必要にせまられたからではなく、自発的にご自分から望んでそうされたのである。かれを創造のわざに駆り立てた唯一の動機は造り出したものにご自分の善を分け与えることであった。実際、「私は神に言う、『あなたは、私の主、あなた以外に、私の善はない』」(詩16:2)と預言者ダヴィドが言っているように、神はご自身においてまたご自身によって至福であり何も必要とされないのである。神はご自分の善性の導くままにお望みのものをすべてお造りになったが(詩115:3参照)、それらの手本あるいは形相にされたのは神ご自身である。すべてのものの範型は神の知性に含まれているのであって、この最大の芸術家はご自分の中に手本を見、ご自分に個有の最高の英知と無限の力とをもってその手本に似せて宇宙全体を初めにお造りになったのである。「神は言われた。そしてそれらはできた。神は命じられた、そしてそれらは造られた」(詩33:9参照)。

16 「天と地」の意味

ここでいう「天と地」は天と地にある一切のものを含んでいる。つまり神は預言者が神の御指のわざ(詩8:4参照)と呼んでいる天をお造りになっただけでなく、太陽、月およびその他の星辰の光をもって天を飾られ、またこれ以上早くまた規則的なものは何もないほどの恒常的な運動を天体に与え、季節と日と年とを分けるしるしとされた(創1:14参照)。

17 天使の創造について

 神はご自分のみそばにはべらせ奉仕させるため純粋に精神的な存在をもつものおよび数多くの天使をお造りになり、感嘆すべき恩恵と能力のたまものをお与えになった。聖書が悪魔は真理にとどまらなかった(ヨ8:44参照)と言っているところから、悪魔と神に背いたその他の天使達がその創造の時から恩恵を与えられていた事は明らかである。これについて聖アウグスティヌスは「神は天使たちの本性を造ると同時に恩恵を与え、まっすぐな意志すなわちかれらをご自分に一致させる清らかな愛をもつものとされた」(5) と言っている。したがって聖なる天使たちはいつもこの正しい意志つまり神の愛をもっていたと言わなければならない。ところで天使たちの知識について聖書は、「私のあるじは、神の御使いと同じくらい賢いお方ですからこそ、地上のすべてのことを、よくご存じに違いありません」(サ②14:20)と言っている。さらにダヴィドは天使たちが能力をもっていることを証明して、「みことばの声をきき、その命をおこなう力ある者よ」(詩103:20)と言っている。そのため聖書ではしばしば主の力、軍隊(詩103:21、148:2、イ6:3など参照)と呼ばれている。
 このようにすべての天使に超自然的なたまものが与えられていた。しかしそのうちの多くのものは自分たちの父であり創造主である神に背き、天の住まいを追われ、地中の非常に暗い牢獄に閉じこめられ、その傲慢のために永劫の罰を受けている。それについて聖ペトロは、「神は罪をおかした天使たちをゆるさず、地獄に投げ入れ、闇の淵にすてて審判の時まで見張らせ」(ペ②2:4)と言っている。

18 地の創造について

 一方、神は地をそのもといの上にすえ(詩104:5参照)、みことばをもってそれを宇宙の中心地におかれた。神は山々を高め、定められたところに谷々をもうけ、また水の勢いが地上にまで及ぶことのないように水の超えられない境を定め、地を覆うことのないようにされた(詩104:8~9参照)。そして木やあらゆる種類の草や花をもって地を覆いこれを飾られただけでなく、さらに無数の種類の動物をもって、以後に海と空とを満たされたように地をも満たされた。

19 人間の創造

 最後に神は地のちりで人間の体を造り(創2:7参照)、苦しむことも死ぬこともないものにされた。それは体そのものの本質から来るものではなく神の恵みによるものである。魂について言うと神はご自分にかたどりご自分に似せてこれを造り(創1:26参照)自由意志をお与えになった。そして魂のすべての働きと望みを決して理性の命令にもとることのないようにされた。さらに「原始義」という感嘆すべきたまものをお与えになり、ほかの動物を人間に服従させられた。司牧者は信者たちを教えるにあたって、これらのことを容易に創世記から引き出すことができるであろう。
 
20 「天と地」ということばには、見えるもの見えないものすべてが含まれている

 このように天地の創造は万物の創造という意味にとらなくてはならない。すでに預言者ダヴィドはこのことをつぎのように要約している。「天はあなたのもの、地もまたあなたのもの、世と、そこにあるもの、それはあなたに立てられた」(詩89:12)。ニケア公会議の教父たちは「見えるもの見えないもの」という二語を信経に加えて、より簡潔に表わしている。(6) 実際、神から造られたと言われる万物はどれも、感覚によってとらえることのできるものつまり見えるものか、あるいは知性によってしかとらえることのできないつまり見えないものかのいずれかである。

21 神の支配と摂理について

 神が万物の創造主であり創始者であることを信じると同時に創造の業が完成したあとの被造物は、存続するために神の無限の力を必要とすることを忘れてはならない。実際、万物は存在しはじめるために創造主の最高の能力、英知、慈愛を必要としたが、それと同じように被造物は神の絶えざる摂理によって支えられ、初め造られた時と同じ力をもって維持されないかぎり、すぐに無に返ってしまう。そのことを聖書は、「あなたがお望みにならなかった物が、存在するはずがない。あなたがお呼び出しにならなかった物が、どうして存在したろうか?」(知11:25)と言っている。

22 神の支配は二次的原因を排除しない

 神は存在する万物をその摂理をもって支え、治められるだけでなく、運動するものあるいは何かを行うものにその運動と行為のための力をお与えになる。しかしそれは二次的原因の作用を妨げるのではなく、それに先がけて働く。それはきわめてひそやかな力で「この世の果てから果てまで、その力をおよぼし、すべてのものを、巧みに司どる」(知8:1)と知恵者が言っているように、すべてのものに及んでいる。知らずに神を拝んでいたアテネ人に対する聖パウロの説教にもこのことが言われている。「神は、私たちから遠くはなれておいでになる方ではないからです。私たちは神の中に生き、動き、存在するものです」(使17:27~28)。
  
23 創造は御父だけの業ではない

 第一条に関する説明を完結するためには、創造の業は聖にして不可分の三位一体の全部のペルソナに共通のものであることを付け加えなければならない。実際、使徒信経のこの箇条では御父が天地の創造者であると宣言されているが、聖書は御子について「万物はかれによってつくられた」(ヨ1:3)と述べ、また聖霊については、「水の上に神の霊がただよっていた」(創1:2)と言い、他の箇所では「天は、主のみことばによって、その軍勢は主の口の息吹によってつくられた」(詩33:6)と述べているのからである。

訳注  (1) Conc.Nicaenum, Symbolum Nicaenum, DS 125
    (2) Symbolum “quicumque”pseudo-Athanasianum, DS 75
    (3) ibid.
    (4) ibid. 参照
    (5) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 12, cap. 9
    (6) Symbolum Nicaenum, DS 125



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