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聖ピオ十世会 聖伝のミサによるイエズスの至聖なる聖心の随意ミサ SSPX Traditional Latin Mass

2015年07月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年7月3日の初金曜日に大阪でイエズスの至聖なる聖心の随意ミサをいたしました。その時の説教をご紹介します。

 要旨は、人類はますますイエズス・キリストを無視して生活していることを目の当たりにしていること。イエズス・キリストは罪を償うために、苦しむために人間となられたにもかかわらず、人類は罪を犯し続けていること。
 罪は、無限に聖なる天主に対して犯されるものなので、それ自体では、無限の償いを要求すること。
 新約の時代では、私たちはイエズス・キリストと一致して償いを捧げることが出来ること。天主の本当のあわれみは、私たちに償いを要求すること。マリア様がその模範だったこと。イエズス・キリストの聖心は、私たちが聖心と一致して、聖母マリアのように償いをすることを求めていること。
 キリスト者の本当の生活とは十字架の生活、償いの生活であること。
 御聖体拝領の本当の意味は、天主の子羊と一致して、自分をいけにえとして捧げること、です。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





聖母の汚れ無き聖心巡回教会にようこそ。今日は2015年7月3日、7月の初金曜日のミサをしております。

“Improperium expectavit cor meum et miseriam, et sustinui qui simul mecum contristaretur, et non fuit : consolantem me quaesivi, et non inveni.”
「私の聖心は、咎めと憐れみを待ち受けていた。私と共に悲しむ者を待っていたが、それはいなかった。私を慰める者を探したけれども、私は彼を見つけなかった。」

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、初金の信心の中に深く入る事に致しましょう。先月は、アイルランドで国民投票で、イエズス様の自然法に全く反対する、「同性愛の結合が、法律によって認可するように」という大多数の投票がありました。数日前は、アメリカの最高裁で、「同性の人達が、同性愛で、結婚と同じ権利を認めるべきだ。」という判決が下されました。天主様の自然法に反するものがたくさん、法律として定められています。天主の法に逆らう、自然に逆らうものが、あたかも正しい事である権利であるかのように、認めなければならない、という法律が定められています。

この世の中は、罪を正しいものとしよう、とする動きが、たくさん今起こっています。

天主イエズス・キリストは、私たちの罪を償う為に、罪に赦しの為に敢えて人となられました。33年間、償いと苦しみの人生を送られました。

トマス・アケンピスによれば、「イエズス様の御生涯は全て、十字架と殉教であった。」と、言います。“Tota vita Christi crux fuit et martyrium.”

ところで、イエズス様がそうやって十字架を以って苦しみを以って、罪を償おうとされているにもかかわらず、人類はますます、それにもかかわらず、平気で罪を犯して天主に逆らおう、と、公然と立ち向かって逆らっています。

旧約時代の話の史実をみると、罪によって滅ぼされた街があります。例えばソドマとゴモラがそうです。或いは、ヨズエの書によれば、主の命令に逆らって罪を犯した兵士の為に、アカンの為に、そのイスラエル軍は、敵に勝つ事ができなかった、その罪を告白して、それの償いをするまで、勝つ事ができない、という史実がありました。

大罪がたった1つでもあれば、天主様の無限の御稜威に、聖性に、それに重大な罪と知りながら、敢えてそれを犯すのであれば、その罪を償う為に、私たち被造物は、全てを尽くしても、例えこの全ての被造物が無と帰したとしても、天主の御稜威に対して犯した罪を償う事はできません。

例え、私たちがその罪たった1つ、大罪1つさえを犯したとしても、この全被造物は、制限のある被造物は、それを償い尽す事ができないので、私たちはまさに滅ぼされてしまっても、仕方がない立場にあります。

旧約時代には、アブラハムという聖なる方が、取り次ぎに出ました、「もしも50人いれば、40人聖なる人がいれば、30人少なくとも、20人、或いは10人、ソドマとゴモラに義人がいれば、どうぞ勘弁してやって下さい。」しかし、ソドマとゴモラにはその数が足りませんでした。もしもその罪を償うような聖人がいれば、天主は今でも、その都市をこの地上に残しておかれた事でしょう。

もしも旧約時代では、その罪の為に、直接天主は目に見える罰を下して、この地上から、それらの罪の都市や国々を滅ぼし尽くしてしまったとしても、新約時代には、天主の御憐れみによって、イエズス・キリストが、天主の御言葉がイエズス・キリストになって、イエズス・キリストが私たちの罪の償いの為に、御血潮を全て流して、天主の血を流して、天主の聖心を開いて、私たちがその中に避難する事ができるように、私たちがその血潮から赦しを受ける事ができるように、と全ての苦しみと屈辱とを捧げて下さいました。十字架に於ける受難を捧げて下さいました。

新約時代においては、聖マルガリタ・マリア・アラコックに仰ったイエズス様の聖心の言葉によれば、「新約時代においては、たった一人の霊魂でさえも、一人のキリスト者が、カトリックが、数千名の罪人の回心を勝ち取る事ができる。何故かというと、彼は私の聖心と一致して償いを捧げる事ができるからだ。」と、仰っています。

ここに、イエズス・キリストの聖心の本当の憐れみの価値があります。

フェレー司教様がつい最近、恩人と友人の皆さんに対する手紙を書かれて、本当の憐れみと、偽物の憐れみについて、お話をして下さいました。偽物の憐れみは、「天主様は私達を、『罪を犯してもいいよ、いいよ。罪をさあ、さあ犯して。それでも赦してあげるから、さあ、犯し続けなさい。それで良いんだ。』」という、それが偽物です。

本当の憐れみというのは、「罪はダメだ。罪は天主はどうしても受け容れる事ができない。天主はその罪によって、無限の屈辱を受ける、無限の償いを要求する。天主の正義は、その罪の償いの為に、全被造物が滅んでも足りないほどの正義を要求する。しかし、それよりも更に無限の聖性の御子が、私たちの代わりに罪の償いをして下さった。だから、私たちは罪を捨てて、天主に立ち戻り、天主の聖心に合わせて、償いの業を果たさなければならない。悔悛せよ。さもなければ、あなたたちは全て滅びてしまうだろう。天の国は近付いた、回心せよ。」

これが、洗者聖ヨハネと、イエズス様の宣教のメッセージでした。

イエズスの聖心は、私たちから共に償いを果たしてくれる霊魂を求めています。

イエズス様はまず、マリア様にそれを求めました。イエズス様はこの地上に来られる時に、「父よ、ご覧下さい。私は御身の御旨を果たす為に、この世に来ました。私を使って下さい。」マリア様も同じように答えました。「どうぞ、主の婢女はここにおります。」「仰せの如く、我になれかし。」「私を道具として使って下さい。私を罪の償いの為に使って下さい。」

イエズス様は知っていました。罪の、人類の罪の償いを果たす為に、十字架が待っている事を、生贄とならなければならない事を、苦しまなければならない事を。マリア様も知っていました。裏切りを受け、否まれ、侮辱されて、足蹴にされ、冒涜され、十字架に付けられる子の、子供の母親とならなければならない事を、知っていらっしゃいました。

それにもかかわらず、イエズス様とマリア様は、「はい、ここにおります。どうぞ私を道具として使って下さい。主の御旨を、どうぞ私に成し遂げて下さい。」とやって、同意されました。

同じく、イエズス様は私たちに、この罪を償う霊魂を求めておられます。

イエズス様は苦しむ為にこの世に来られました。この世を赦す為に来られました。しかし、この世は罪を犯し続けています。公然と天主に逆らっています。それを償う霊魂が今必要です。

今から350年前に、イエズス様の聖心は、聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れてこう仰いました、聖心を手にして、「見よ、人類をこんなにも愛している私の聖心を。見よ。その人類を愛したその御礼に、冒瀆と、屈辱と、無関心しか受け取らないこの聖心をご覧。だから、私はお前に、その償いをする事を望んでいる。」

ある時、同じイエズス様の聖心は、聖女マルガリタ・マリア・アラコックにこう言いました、「我が娘よ、『人々の為に、私の聖心は全てを犠牲にした。』というのは本当だ。しかし、この私の聖心は、その御礼にお返しに、何も受けなかった。この何も受けなかった、という事が、何も受けていない、という事が、私の受難の惨い拷問よりも、もっと私の聖心を傷付ける。私が、『善を施したい』という、『彼らに、人類に善を施したい』というその大きな望みにもかかわらず、彼らは私に、冷淡と、軽蔑とで応えている。娘よ、彼らの冒涜を償ってほしい。」

イエズス様は、聖女マルガリタ・マリア・アラコックを通して、私たちにも同じ償いを求めています。私たちはミサの始めに、いつもこう司祭がこう言うのを聞きます、「Introibo ad altare Dei.《主の祭壇に登ろう。》」と。

主の祭壇というのは、イエズス様の聖心でなくして一体何でしょうか。イエズス様は、私たちがその中に入る事ができるように、大きく開いて下さった聖心でなくて何でしょうか。御血潮の満ちている、憐れみに満ちている聖心でなくて何でしょうか。

しかし、多くの人はこのイエズス様の聖心に入ろうとしません。そうでなく、却って罪を犯し、罪に凝り固まっていようとしています。憐れみと、罪の赦しを受ける代わりに、却って冷淡と、イエズス様の苦しみを無とする事に耽っております。

ですからイエズス様は、ますますそのような屈辱に対する償いをする霊魂を、生贄の霊魂を求めています。

アルスの聖司祭はこう言っていました、「この世の人たちは、十字架がある事に不平不満を言う。しかし、善きカトリック信者は、十字架がないと、その事を悩む」と。或いは別の時に、同じ聖ジャン・マリ・ヴィアンネー神父様は、「キリスト信者というのは、ちょうど十字架の中で、お魚が水の中を泳ぐように、十字架の中で生きている、生活するものだ。お魚が水がなければ生きていけないように、善きカトリック信者は、十字架がなければ生きていけない。」

ある時、アッシジの聖フランシスコは、イエズス様が十字架に付けられているのを見て、「あぁ、イエズス様は十字架に付けられているのだけれども、私は十字架に付けられていない。」と、嘆いたそうです。

多くの聖人たちは、マリア様を含めて、多くの聖人たちはイエズス様からの十字架の招きに、「はい。ここにおります。十字架を送って下さい。」と、応えました。

ですから、今日7月の初金、聖血の聖なる月の初金に、イエズス様からの愛の招きに、どうぞ愛を以って応えて下さい。イエズス様は、御自分を慰めてくれる霊魂たちを探しておられます、「誰か、誰か私の元に来るのを望みますか?誰が私を慰めてくれますか?誰かそのような希望者はいらっしゃいますか?」と、イエズス様は私たちの胸をノックして、恵んで欲しい、私を、イエズス様を慰めて欲しい、というのを、その霊魂を探しておられます。私たちは一体、何と応えるべきでしょうか?

マリア様と一緒に、「主よ、主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし。」と、言うべきではないでしょうか?

御聖体拝領をどうぞなさって下さい。イエズス様の御体は「ホスチア」と呼ばれています。つまり「生贄」という意味です。ミサというのは、単なる食事、会食会ではありません。ミサというのは、『イエズス様の十字架の生贄の再現』です。御聖体というのは、単なるパンではありません。イエズス様、『生贄となったイエズス様の真の御体』です。御聖体を拝領する、という事は、『イエズス様の生贄に、私たちも生贄として捧げる、一致する』という事です。イエズス様に、私たちも犠牲として捧げる、という事です。「主よ、ご覧ください。主のしもべがここにおります。」と、申し上げる事です。

ですからこそ、初金の時にイエズス様は、9回、罪の償いの為に御聖体拝領する事をお望みになりました。どうぞ、償いの初金の御聖体拝領を捧げて下さい。生贄として私たち自身を捧げる事に致しましょう。

マリア様にお祈りして、是非私たちが全て、イエズス様の愛の生贄として捧げる事ができるように、良き道具となる事ができるように、助けを求めましょう。

“Improperium expectavit cor meum et miseriam, et sustinui qui simul mecum contristaretur, et non fuit : consolantem me quaesivi, et non inveni.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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