Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

インドでのインカルチャレーション

2007年03月21日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

インドでのインカルチャレーション

 聖ピオ十世会の司祭で、インドで働いている神父様から幾つか写真を戴いたので、インドのカトリック教会の状況を紹介したい。


まず、インドの現実を知るために、インドの偶像神の数々を紹介する。


アヌマン(Anuman)




ガネシュ(Ganesh)






ヒンドゥー教の神の一つ





リンガム、シヴァ(Shiva)の男根の象徴



パルヴァティ(Parvathi)、シヴァの妻






下級のヒンドゥーの神々




ヒンドゥー教の人々の顔







ヨハネ・パウロ二世教皇様のインカルチャレーションの模範(??)




カトリック教会は、ヒンドゥー儀式(アルティ aarti)とサンスクリット語を導入するかもしれない。(アアルティは、油に灯心を浸して火を付けて神々に捧げるヒンドゥー教の儀式。ヒンドゥー教のほとんど全ての儀式で必ず行われる。)




ディアス枢機卿
(2006年5月20日より福音化聖省長官 Prefect of Evangelization of Peoples, Roman Curia) ガネシュに火を捧げる。


Cardinal Ivan Dias Burns Incense to a Hindu Deity も参照のこと

Bird’s Eye View of the News







司教様は、司祭とともに額にしるしを受ける。 
















 


ヨガのポーズをとるキリストは、蛇にくるまっている。




インドの或る聖堂でのイエズス・キリスト像





フランシス・バルボザ神父は「キリスト」を踊りで表現する。



Fr. Francis Barboza, SVD, performs liturgical steps of a Hindu dance.
With his feminine make-up and postures, he says that through this new form of inculturalization,
he communicates directly with God and preaches Christ to the people.
Lumiere du Monde, November 1983



インドでのインカルチャレーションの結果、ファチマの聖堂でヒンドゥー教の祈りが捧げられる

Pictures of a Desecration
- Photo report of Hindu ritual at Fatima -
John Vennari


2004年5月5日のファチマ聖堂の涜聖




ファチマの聖堂の主任司祭がヒンドゥー教の儀式を受ける


 主よ、我らを憐れみ給え!  聖母の汚れ無き御心よ、我らを憐れみ給え!


============

クリックで応援して下さい。↓
http://blog.with2.net/link.php?269452
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!

●聖ピオ十世会韓国のホームページ
http://www.sspxkorea.wo.to/

●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html

●グレゴリオ聖歌に親しむ会
http://sound.jp/gregorio/


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
これはひどい (たいらのぶかち)
2007-03-21 18:24:22
びっくりです。

「文化」と「宗教」の区別は殆ど無いといっても過言ではありませんから、インカルチュレーション(文化内受肉)という試みが、キリスト教と他の宗教との接触をもたらすことは(インカルチュレーションを促進するならば)必然ではあります。

とはいえ、これではどちらの信仰も単なる文化儀礼に成り下がっているように思います。自らの信仰に基づいて他者の信仰やその救済を否定する事は現代的ではないと考えていますが、だからといって、他の救済観に基づく宗教儀礼を行うという事は非常に問題だと思います。

ここでは、イエスどころか、ヒンドゥーの神々にしたって、たんなる表象に過ぎなくなっている事に気が付くべきでしょう。イエスや、ヒンドゥーの神々の裏に更にお互いに共通な絶対者でもいると言うのでしょうか。

きっと、それは、「人間」なのでしょうね。

返信する
書き込みをありがとうございました。 (Fr Thomas Onoda)
2007-03-24 12:55:46
アヴェ・マリア!

たいらのぶかち さん、

こんにちは! お久しぶりです。
ブログをご覧下さり、コメントを書き込んで下さってありがとうございます。

 カトリック教会はこう主張してきました。
「カトリック教会は唯一の救いの箱船である」フィレンツェ公会議(Dz 714)ので、「教会の外には救いがない」と。

 聖書には、異邦の神々はむなしい」(詩篇95:5)
「そこの民のいとわしい行いをまねするな。」(第二法18:9)とあります。

 しかし、何故、カトリック教会はこのような態度を取るようになってしまったのでしょうか?


 私の思うには、エキュメニズムに関する教令の3には
「キリストの霊はこれらの(分かれた諸)教会と(諸)教団を救いの手段として使うことを拒否しない」とあります。

キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言2には、キリスト教以外の諸宗教に関してさえも、
「カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない。これらの諸宗教の行動と生活様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念を持って考察する。」とあります。

 また『現代世界憲章』22には、
「実際、受肉したみことばの秘義においてでなければ、人間の秘義はほんとうに明らかにならない。・・・キリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた」(22)。

 もしもキリストが人間本性を取ること(=御托身、受肉)によって自分を全ての人間と一致させたのなら、全ての人々は、自動的に救われていることになるのではないでしょうか。
つまり、「教会」という概念が「全人類」と一致し、「教会の外には救いがない」という言葉と矛盾せずに全ての人々の救いが確実であるという理論なのではないでしょうか。

 バチカンがほぼ40年間、新しいミサでの御血の聖変化の言葉を「全ての人々のため」と訳しつづけていたのは、それなりの理由があったのではないでしょうか。

 つまり、キリストは、人間本性を取ることによって、人間を、人間の高貴な召命とその尊厳を人間自身に啓示したのだから、新しいミサでは御血は「全ての人々のため」に捧げられるのではないでしょうか。


 このようなインカルチャレーションが行われているのも、そのためだと思います。

 良き四旬節をお過ごし下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。