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教皇フランシスコの考えを理解する:「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」(回勅「ラウダート・シ」)の意味

2020年04月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。

前回は、教皇フランシスコの新しさであると同時に、第二バチカン公会議の展開を指摘しました。

教皇フランシスコの、教皇職を動かす原理・設計図はこれです。彼の実質的な最初の回勅『ラウダート・シ』の最後の一節(245)です。
「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた。」

カトリック中央協議会訳では「主はご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれた」となっています。
この意味を探りつつ、考察しましょう。

【教皇ヨハネ・パウロ二世】

ヨハネ・パウロ二世は、その最初の回勅『人間の贖い主』で、自分の教皇職の原理・設計図・基本方針を発表しました。

それは「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」です。

これを土台・原理として、新しい教会の使命が説かれました。

「キリストはすべての人間と一致している」のだから、全ての人はすでに救われている。
しかし「キリストはすべての人間と一致している」ことは目に見えないので、教会は天主を目に見える形で現存させることがふさわしい、ただし、教師として人類に教えるのではなく、超越的な現実を証しするというやり方でそれをなす、とされます。

従って、教会の使命とは、証(あかし)となること、証人となることだとされます。これが教会の預言者としての役割とされます。

聖伝によれば、教会は教導教会(Ecclesia docens)と聴従教会(Ecclesia discens)の二つに区分されます。しかし第二バチカン公会議の新しい神学によれば預言者の役割は、全教会の役割とされます。

第二バチカン公会議の『教会憲章』 Lumen Gentium によれば、教会は人類の一致の「秘蹟」(秘義)であり、教会全体で目に見えない現実を証(あか)しする印(しるし)となる、とされます。世俗の世界で生活しながら、生活において、キリストを現存化させる、これが「新しい福音化」であり、模範によってどうしたら真の人間となるかを証しすることである、とされます。

ところで「キリストはすべての人間と一致している」ので、そしてこの一致はどのようなことがあっても失われないので、全ての人格(ペルソナ)は崇高なものとされます。

そこでヨハネ・パウロ二世においては、人間の人格の崇高さ(尊厳)を倫理道徳の基礎に置きます。キリストが自分を人間に与えたように、人間の人格は、自らを他者に与えることによって完成させられる、とされます。そこで、倫理基準は、その要求度がまだ高く、自分を他者に与えるために、自由が必要であるとされます。

【教皇フランシスコ】

しかし、フランシスコは、ヨハネ・パウロ二世を乗り越えます。ヨハネ・パウロ二世のさらに上を行きます。
「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた。」

この原理から帰結される倫理基準は「大自然と調和している」ことです。

人間も環境(大自然・森林・大地・大洋・ジャングル・空気などなど)も、同じ被造物であり、人類は大自然に含まれているその一部に過ぎないのだから、人間は大地や大自然を大切にすべきである、これが道徳と倫理の基準になります。

大地は神聖にして犯すべからず。

従って、たとえば次のように結果に至ります。「アマゾン地域は、教会にとって、そして世界にとって、『全体のための一部 pars pro toto として、一つのパラダイムとして、全世界のための希望として』奉仕するべきである。」(アマゾン・シノドス討議要綱 37) 

「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた」のであるから、例えば、アマゾン地域が、または別の先住民地域あるいは共有地域が、"信仰にとって意味を持つ場所" または "歴史の中での天主についての経験"であり、「天主の啓示の特定の源泉」であり、神学の基礎的原理や源泉についての「神学的場所」 loci theologici であるとされます。

アマゾン地域だけでなく「青年たち」も同じく一つの「神学的場所」(羅 locus theologicus, 西 un lugar teológico, 仏 un lieu théologique, 伊 luogo teologico, 英 a theological topic) とされます。

アマゾン・シノドスの最終文書(33)には次のようにあります。
Quiere ser compañera a la escucha reconociendo a los jóvenes como un lugar teológico, como "profetas de esperanza", comprometidos con el diálogo, ecológicamente sensibles y atentos a la "casa común".
「(…)アマゾン地域の教会は、青年たちの伴侶でありたく、また彼らの言うことをよく聞きたいと望む。青年を神学的場所として認め、また、対話に専心しエコロジーに敏感で「共通の家」に注意深い青年らを "希望の預言者" として認める。」

教会は、もはや能動的に人類に対して証人であろうとさえしません。

教皇フランシスコによれば、教会は受け身の立場であり、この世の言うことを弟子のように聞く(a la escucha)だけです。

教会は、聖伝によって伝わる役割、つまり「天主の垂れた啓示を人類に教える、超自然の真理で人類を教導するという権能・役割・カリスマ」を放棄します。そうではなく、聞くだけです。そうすることで「エコロジカルな市民性」(ラウダート・シ 211)を目指します。

もはや教会が言うことは、あまりにも平凡でありきたりのことに成り下がってしまいました!教皇フランシスコが私たちに回勅で訴えることを聞いてください。
「もっと経済的な余裕があっても、暖房をより少なく使い、温かい服を着る、…プラスチックや紙を使うことを避ける、水の消費を削減する、ごみを区別して出す、食べることができるだけ料理する、他の生き物に気をかける、公共の交通手段を使う、木を植える、無駄な電気を消す、… すぐに捨ててしまうのではなく再利用をする、これが正しい理由のために行われたとき、私たちの尊厳を表明する愛の行為となりうる。」(ラウダート・シ 211)

教会の最高の権威が、ごみのリサイクルについて話しています。霊魂の永遠の救いについて、ではなく。超自然の天主を信じ、礼拝し、希望し、天主を愛することではなく。天主の十戒についてではなく。
この地球をきれいに保つ、それはそれでよいことですが、天主の掟を守るというさらに良いことは忘れられています。「よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。」たとえ環境汚染を終わらせて全宇宙を保全したとしても、永遠に霊魂を失うのなら何の益があるでしょうか?

現在の教会は、世俗のことがらを聖なるものとしようとするかのようです。

それと同時に、教会それ自身は、自らを非神聖化していきます。教皇フランシスコは教皇としての権威を自ら破壊しようとしてます。

カトリック教会が今まで大切にしてきたもの、愛してきたものにたいして、フランシスコは「非神聖化」を行います。

例えば、最近では、2019年12月12日グァダルーペの聖母の祝日では、教皇フランシスコは自分の司祭叙階50周年を祝いつつ(1969年12月13日叙階)、聖母について次の称号のみ本質的として認めました。つまり「女」「母」「婦人」「弟子」です。グァダルーペの聖母については「混血」としました。カトリック教会の聖伝の教えを「ばかげた話」だと反対して、とてもショッキングな発言もします。

「聖母は、自分の師(キリスト)つまり自分の御子である唯一の贖い主に忠実であり、自分のために御子から何かを取ろうとは望まなかった。聖母は自分を決して共同の贖い者(共贖者)として提示しなかった。そうではない。弟子だった。」
Virgen de Guadalupe: María “se mestizó para ser Madre de todos”Homilía del Santo Padre
"Fiel a su Maestro, que es su Hijo, el único Redentor, jamás quiso para sí tomar algo de su Hijo. Jamás se presentó como co-redentora. No, discípula."

この説教の終わりには、教皇フランシスコはこうも付け加えています。
「人々が私たちのところにやってきて、これこれを宣言すべきだとか、あれこれを教義にすべきだという話を持ってくるとき、私たちはそのようなばかげた話に道を迷わないようにしましょう。マリアは女性であり、私たちの婦人であり、御子の母であり、位階制の母なる教会の母であり、混血、私たちの民々の婦人、また、何と天主と「混ざった」方か。」

"Cuando nos vengan con historias de que había que declararla esto, o hacer este otro dogma o esto, no nos perdamos en tonteras: María es mujer, es Nuestra Señora, María es Madre de su Hijo y de la Santa Madre Iglesia jerárquica y María es mestiza, mujer de nuestros pueblos, pero que mestizó a Dios."


あるいは、「教皇庁年鑑」の最新版において、教皇の称号として「キリストの代理者」が取り除かれ、単なる「歴史的称号」(昔はそうだったが今はそうではない)として取り扱われています。教皇庁年鑑では、いまでは「ローマ司教、フランシスコ」だけが保存されて残りました。教理省元長官ミュラー枢機卿は「これは神学的野蛮行為だ」と表現しています。

つまり、教皇フランシスコは、教皇としての権威や名誉や品格をあえて破壊しようとするかのようです。何故なら教会の教導職とはもはや必要がないからです。教会は、天主から受けた啓示を人類に教えるのではなく、教会は人類の言うことを、大自然が言うことを聞くことが使命だ、とされるからです。

何故なら「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」からです。

続く



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