2018年11月6日(火)全ての死せる信徒の為の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は全ての死せる信者の為の随意ミサを捧げています。
では、このミサの利益というのは何なのでしょうか?
この「死者の為のミサ」というのは私たちに、2つのカトリックのドグマを教えています。
⑴1つは、「煉獄の霊魂の存在」という事、
⑵もう1つは、「諸聖人の通功」というカトリックの教えです。
今日は、このミサの、「死者の為にミサを捧げる」という事の素晴らしさ、どれほどカトリックの教えに適った、そのカトリックの教えの実りであるか、それの実践であるか、という事を黙想して、
⑶遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴第1に、この死者のミサは私たちに、「煉獄の霊魂たちが存在する」という事を教えています。
煉獄の霊魂たちというのは、成聖の状態において亡くなった全ての霊魂、本当ならば天国に行くはずの霊魂、主を愛して、主において亡くなった幸せな霊魂ですが、まだ罪の償いが残っており、永遠の償いではない、つまり地獄に行くほどの償いではないにもかかわらず、有限の浄めが残っている霊魂であって、そして天主はあまりにも聖なる方で、聖にして、聖にして、聖なる方であるので、その最も無限の聖なる御方の前に行くには、まだ汚れが残っている、主を愛しているにもかかわらず、償いが残っている、もしかしたら小罪の償い、あるいは地上への愛着、あるいは何らかの不完全性が残っている、その為に、罪の償いを果たさなければならない霊魂たち。
その霊魂たちは、浄めの場所として、一時的に、一定の期間、「煉獄」という所で、その煉獄の苦しみを通して浄められて、罪の償いを果たした後に、ようやく天主の永遠の光に、三位一体に、この世を照らす為に来られた光、イエズス・キリストのその燦然とした輝きを、目と目を合わせて、顔と顔を合わせて、至福直観で、至福を味わう前に浄められるその場所、それが煉獄です。
そこに霊魂たちが罪の償いの為に、ある者は1日、ある者は何年、10年、ある者はこの世の終わりまで、一定の期間、罪の償いの為に時を過ごします。「煉獄でのほんの1分の罪の償いは、その天主の償いの要求の為の厳しさの為に、この地上での100年の厳しい苦行の生活、断食の生活をはるかに超えたほど、辛い、苦しいものである」と言われています。
しかし天主様の聖性は、天主が聖であるというのは、あまりにも聖なる方であるので、1つの汚れさえも、その天主とは相容れる事ができないので、全てを綺麗に、純粋の、金を炎で純金にするように、霊魂たちも炎によって鍛えられて、そして全く綺麗な天主への愛となって初めて、天国に行く事ができます。
この天国に行く為に待っている煉獄の霊魂は、苦しみの教会に属する霊魂たちで、ただ苦しみを捧げる事によって、その苦しみはもはや功徳を積む事ができない苦しみですが、苦しみを御捧げする事によって、愛によって、愛のうちに捧げる事によって、主との愛の一致を待っています。
これを見ると、マルチン・ルターの新しく作られた宗教が、本当の宗教とどれほど違うか、という事を私たちに教えています。マルチン・ルターは、「煉獄など無い」と言います。「あるものは天国か、地獄か、どちらかである。」そして「死者の為に祈る、という事は無駄である」と言います。
「だいたい私たちの祈りにも、善業、ミサというものにも価値も無いし、そして人間は死んだら、天国に行くか、あるいは地獄に行くかどちらか、それしかないので、もしも天国に行くならば、そのような天国に行った人たちの為に祈るというのは無駄であるし、地獄に行ったならば、もう地獄に行ったのだから無駄である。」
ですから、プロテスタントの人は死者の為に祈りません。
プロテスタントの教えはちょうど、バーゲンセールのクリスマスで出てくる太ったサンタクロースのおじさんが、カトリックの教えとは全く関係ないように、あるいは名前はハロウィンだけれども、しかし悪魔の仮装行列とカトリックが関係ないように、名前は自由・平等・兄弟愛だけれども、フランス革命とカトリックの信仰とは関係がないように、プロテスタントの教えも、煉獄を否定し、煉獄の霊魂の為に祈る事を否定し、善業を否定し、煉獄の霊魂の為のミサの功徳を否定する、私たちの善業を否定する事において、本当の教えとは全く違うものです。
⑵第2に、この死者の為のミサは私たちに、もう1つのカトリックの教えを教えています、ドグマを教えています。それは「諸聖人の通功」という、非常に愛と、恵みと、憐れみに溢れる教えです。
これは、「煉獄の霊魂」という存在が、「天主の聖性が、天主が聖であるという事が、あまりにも聖であるという事、そして私たちがあまりにも不完全であるという事を教えていると同時に、それにもかかわらず、私たちはこの煉獄の霊魂たちを、『諸聖人の通功』という教えによれば、助ける事ができる」という事を教えてくれています。
つまり、「私たちはキリストの神秘体の一部であって、その神秘体の一部として、イエズス・キリストの頭の功徳を、ミサの無限の功徳を、私たちは死者の為に適用させる事ができる。私たちの祈りが、煉獄の霊魂の為に役に立つ。長い、本当ならば長い苦しみを煉獄で受けなければならない霊魂たちが、私たちの祈りや、ミサに与る事や、聖体拝領によって、イエズス様の無限の功徳をもっと適用させる事ができて、そして彼らの苦しみを私たちが代わりに短くさせてあげる事ができる。全くないがしろにされた、もう忘れ去られたような霊魂であっても、私たちが彼らを助ける事ができる。水の一杯を与える事ができる」という「諸聖人の通功」という教えです。
天国の聖人たち、これもマルチン・ルターは否定して、「天国の聖人たちが私たちの為に祈る、という事は全くない。」ですから、プロテスタントの寺院には聖人の像もありません。「キリストだけだ。他はいらない。マリア様もいらない」と言うのです。
しかし、カトリックは違います。「諸聖人の通功」という事は、天国の聖人たち、天使たち、マリア様を始め多くの方々が、私たちの為に祈り、私たちは煉獄の霊魂の為に祈り、マリア様も煉獄の霊魂の為に祈り、そして私たちの祈りを、私たちがマリア様に、「彼らの為に、」あるいはイエズス様に、「彼らの為に祈って下さい」と言えば、彼らは多くの助けを得る、という事を知っています。
そして遂に煉獄の霊魂たちが天国に行った暁には、今度は却ってこの霊魂たちが、恩人である私たちに恩返しをしてくれる、そしてもしも私たちが煉獄に行かなければならない時には、おそらく地上の霊魂たちが私たちの為に祈ってくれるだろう、煉獄の霊魂の為に一生懸命祈った霊魂であればあるほど、天主はそのような霊魂たちの為に、私たちの霊魂が煉獄にいる時には、そのような霊魂たちを起こして祈らせて下さるだろう、と知っています。
私たちはそれらを見ると、この世を創った天主は、非常に聖なる方であって、正義なる方と同時に、憐れみに満ちて、そして私たちを憐れんで下さって、愛に満ちて、愛に満たして下さって、そして互いに私たち、イエズス様に繋がれている者たちは、互いに愛し、愛されている、という愛の団居(まどい)、愛の神秘体を作ろうとしている事を、憐れみの神秘体を作ろうとしている事を、非常に実感します。
私たちも今こうあるのは、マリア様が祈り、諸聖人が祈り、天使たちが私たちの為に祈って下さっているからこそです。そのお陰で、私たちは今、こうして生きています。
そして私たちはそれを感じる、ひしひしと実感すると同時に、煉獄の霊魂たちの為に祈ろうと思います。何という美しい、憐れみに満ちた、天主様の偉大な、調和に満ちた創造の計画、憐れみの、救いの御計画でしょうか。カトリックの教えの美しさ、素晴らしさでしょうか。
⑶この死者の為のミサを捧げながら、ますますカトリックの真髄の中に深く入って下さい。
そして願わくは、カトリックの本当の美しい教えが、愛と、憐れみと、正義と、真理に満ちた教えが、日本の方々に伝わりますように、ますます知れ渡りますように。「ハロウィンというのは仮装行列、悪魔の仮装行列ではなくて、諸聖人の通功のことだ」と。
この世で面白おかしく、快楽を追求してグッタリとしている人たちを見て、この世での事に興奮して、そして疲れ切っている人々の顔を見て、「あぁ本当は、この世の為ではなく、永遠の為に私たちは生きているのだ。この世の短い時間を、永遠の為に生きているのだ」という事をますます深く悟る事ができますように、煉獄の霊魂の為にお祈りしつつ、マリア様にその御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は全ての死せる信者の為の随意ミサを捧げています。
では、このミサの利益というのは何なのでしょうか?
この「死者の為のミサ」というのは私たちに、2つのカトリックのドグマを教えています。
⑴1つは、「煉獄の霊魂の存在」という事、
⑵もう1つは、「諸聖人の通功」というカトリックの教えです。
今日は、このミサの、「死者の為にミサを捧げる」という事の素晴らしさ、どれほどカトリックの教えに適った、そのカトリックの教えの実りであるか、それの実践であるか、という事を黙想して、
⑶遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴第1に、この死者のミサは私たちに、「煉獄の霊魂たちが存在する」という事を教えています。
煉獄の霊魂たちというのは、成聖の状態において亡くなった全ての霊魂、本当ならば天国に行くはずの霊魂、主を愛して、主において亡くなった幸せな霊魂ですが、まだ罪の償いが残っており、永遠の償いではない、つまり地獄に行くほどの償いではないにもかかわらず、有限の浄めが残っている霊魂であって、そして天主はあまりにも聖なる方で、聖にして、聖にして、聖なる方であるので、その最も無限の聖なる御方の前に行くには、まだ汚れが残っている、主を愛しているにもかかわらず、償いが残っている、もしかしたら小罪の償い、あるいは地上への愛着、あるいは何らかの不完全性が残っている、その為に、罪の償いを果たさなければならない霊魂たち。
その霊魂たちは、浄めの場所として、一時的に、一定の期間、「煉獄」という所で、その煉獄の苦しみを通して浄められて、罪の償いを果たした後に、ようやく天主の永遠の光に、三位一体に、この世を照らす為に来られた光、イエズス・キリストのその燦然とした輝きを、目と目を合わせて、顔と顔を合わせて、至福直観で、至福を味わう前に浄められるその場所、それが煉獄です。
そこに霊魂たちが罪の償いの為に、ある者は1日、ある者は何年、10年、ある者はこの世の終わりまで、一定の期間、罪の償いの為に時を過ごします。「煉獄でのほんの1分の罪の償いは、その天主の償いの要求の為の厳しさの為に、この地上での100年の厳しい苦行の生活、断食の生活をはるかに超えたほど、辛い、苦しいものである」と言われています。
しかし天主様の聖性は、天主が聖であるというのは、あまりにも聖なる方であるので、1つの汚れさえも、その天主とは相容れる事ができないので、全てを綺麗に、純粋の、金を炎で純金にするように、霊魂たちも炎によって鍛えられて、そして全く綺麗な天主への愛となって初めて、天国に行く事ができます。
この天国に行く為に待っている煉獄の霊魂は、苦しみの教会に属する霊魂たちで、ただ苦しみを捧げる事によって、その苦しみはもはや功徳を積む事ができない苦しみですが、苦しみを御捧げする事によって、愛によって、愛のうちに捧げる事によって、主との愛の一致を待っています。
これを見ると、マルチン・ルターの新しく作られた宗教が、本当の宗教とどれほど違うか、という事を私たちに教えています。マルチン・ルターは、「煉獄など無い」と言います。「あるものは天国か、地獄か、どちらかである。」そして「死者の為に祈る、という事は無駄である」と言います。
「だいたい私たちの祈りにも、善業、ミサというものにも価値も無いし、そして人間は死んだら、天国に行くか、あるいは地獄に行くかどちらか、それしかないので、もしも天国に行くならば、そのような天国に行った人たちの為に祈るというのは無駄であるし、地獄に行ったならば、もう地獄に行ったのだから無駄である。」
ですから、プロテスタントの人は死者の為に祈りません。
プロテスタントの教えはちょうど、バーゲンセールのクリスマスで出てくる太ったサンタクロースのおじさんが、カトリックの教えとは全く関係ないように、あるいは名前はハロウィンだけれども、しかし悪魔の仮装行列とカトリックが関係ないように、名前は自由・平等・兄弟愛だけれども、フランス革命とカトリックの信仰とは関係がないように、プロテスタントの教えも、煉獄を否定し、煉獄の霊魂の為に祈る事を否定し、善業を否定し、煉獄の霊魂の為のミサの功徳を否定する、私たちの善業を否定する事において、本当の教えとは全く違うものです。
⑵第2に、この死者の為のミサは私たちに、もう1つのカトリックの教えを教えています、ドグマを教えています。それは「諸聖人の通功」という、非常に愛と、恵みと、憐れみに溢れる教えです。
これは、「煉獄の霊魂」という存在が、「天主の聖性が、天主が聖であるという事が、あまりにも聖であるという事、そして私たちがあまりにも不完全であるという事を教えていると同時に、それにもかかわらず、私たちはこの煉獄の霊魂たちを、『諸聖人の通功』という教えによれば、助ける事ができる」という事を教えてくれています。
つまり、「私たちはキリストの神秘体の一部であって、その神秘体の一部として、イエズス・キリストの頭の功徳を、ミサの無限の功徳を、私たちは死者の為に適用させる事ができる。私たちの祈りが、煉獄の霊魂の為に役に立つ。長い、本当ならば長い苦しみを煉獄で受けなければならない霊魂たちが、私たちの祈りや、ミサに与る事や、聖体拝領によって、イエズス様の無限の功徳をもっと適用させる事ができて、そして彼らの苦しみを私たちが代わりに短くさせてあげる事ができる。全くないがしろにされた、もう忘れ去られたような霊魂であっても、私たちが彼らを助ける事ができる。水の一杯を与える事ができる」という「諸聖人の通功」という教えです。
天国の聖人たち、これもマルチン・ルターは否定して、「天国の聖人たちが私たちの為に祈る、という事は全くない。」ですから、プロテスタントの寺院には聖人の像もありません。「キリストだけだ。他はいらない。マリア様もいらない」と言うのです。
しかし、カトリックは違います。「諸聖人の通功」という事は、天国の聖人たち、天使たち、マリア様を始め多くの方々が、私たちの為に祈り、私たちは煉獄の霊魂の為に祈り、マリア様も煉獄の霊魂の為に祈り、そして私たちの祈りを、私たちがマリア様に、「彼らの為に、」あるいはイエズス様に、「彼らの為に祈って下さい」と言えば、彼らは多くの助けを得る、という事を知っています。
そして遂に煉獄の霊魂たちが天国に行った暁には、今度は却ってこの霊魂たちが、恩人である私たちに恩返しをしてくれる、そしてもしも私たちが煉獄に行かなければならない時には、おそらく地上の霊魂たちが私たちの為に祈ってくれるだろう、煉獄の霊魂の為に一生懸命祈った霊魂であればあるほど、天主はそのような霊魂たちの為に、私たちの霊魂が煉獄にいる時には、そのような霊魂たちを起こして祈らせて下さるだろう、と知っています。
私たちはそれらを見ると、この世を創った天主は、非常に聖なる方であって、正義なる方と同時に、憐れみに満ちて、そして私たちを憐れんで下さって、愛に満ちて、愛に満たして下さって、そして互いに私たち、イエズス様に繋がれている者たちは、互いに愛し、愛されている、という愛の団居(まどい)、愛の神秘体を作ろうとしている事を、憐れみの神秘体を作ろうとしている事を、非常に実感します。
私たちも今こうあるのは、マリア様が祈り、諸聖人が祈り、天使たちが私たちの為に祈って下さっているからこそです。そのお陰で、私たちは今、こうして生きています。
そして私たちはそれを感じる、ひしひしと実感すると同時に、煉獄の霊魂たちの為に祈ろうと思います。何という美しい、憐れみに満ちた、天主様の偉大な、調和に満ちた創造の計画、憐れみの、救いの御計画でしょうか。カトリックの教えの美しさ、素晴らしさでしょうか。
⑶この死者の為のミサを捧げながら、ますますカトリックの真髄の中に深く入って下さい。
そして願わくは、カトリックの本当の美しい教えが、愛と、憐れみと、正義と、真理に満ちた教えが、日本の方々に伝わりますように、ますます知れ渡りますように。「ハロウィンというのは仮装行列、悪魔の仮装行列ではなくて、諸聖人の通功のことだ」と。
この世で面白おかしく、快楽を追求してグッタリとしている人たちを見て、この世での事に興奮して、そして疲れ切っている人々の顔を見て、「あぁ本当は、この世の為ではなく、永遠の為に私たちは生きているのだ。この世の短い時間を、永遠の為に生きているのだ」という事をますます深く悟る事ができますように、煉獄の霊魂の為にお祈りしつつ、マリア様にその御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。