2016年7月1日(初金)イエズス・キリストのいと尊き御血の大祝日のミサ
小野田神父説教
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。
今日は2016年7月1日、7月の初金曜日のミサを、そしてイエズス様のいと尊き御血の祝日、大祝日1級祝日のミサをしております。
今日この御ミサの直後に、初金曜日ですので、1時間の聖時間を皆さんと共に過ごしたいと思っています。この特にこの聖時間では3つの意向でお祈りする事を提案します。1つは、聖ピオ十世会、まずアメリカのウィノナで7名の司祭、それから9人の助祭が、エコンでは8名の司祭と12名の助祭が生まれました。そして明日は3名の新しい司祭がツァイツコーフェンで、もう1人パリで、合計4名の司祭が誕生する予定です。そして新しい司祭たちの為にたくさんのお祈りをこの聖時間でお願いします。
もう1つは、日本から聖なる司祭が、キリシタンのペトロ岐部神父様、あるいは中浦ジュリアン神父、あるいは聖パウロ三木、あるいはその他多くの立派な偉大な日本人司祭たちに続く、パウロ三木は司祭にはならずに殉教しましたけれども、その偉大なキリシタン大先輩に続く司祭がたくさん日本から出ますように、このお祈りをお願いします。
最後には、フィリピンでは昨日新しい大統領が就任しました。どうぞフィリピンの為にもたくさんお祈り下さい。
それからもう1つお祈りの意向をお願いしたい事があって、来たる明後日の主日に、東京では2人の方が成人の方が洗礼を受ける予定です。1人はずっと勉強してきた男の方で、もう1人の方は女性の方ですけれども体の調子が良くないので、緊急の洗礼を受けるという事で、でもこの2人がうまく良い洗礼を受ける事ができるようにどうぞお祈り下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス・キリストのいと尊き御血の大祝日ですので、私たちはイエズス様の御血の贖いの玄義について黙想する事を提案します。
私たちは悪と罪に依って、天主の怒りを受けるべき者となりました。しかし私たちはイエズス様のいと尊き御血によって、罪の奴隷状態から恩寵の状態へと贖われました。これは何を意味しているのでしょうか?
私たちがミサで、聖パウロの書簡、あるいは聖ヨハネの福音書を読むと、聖パウロは「キリストは将来の恵みの大司祭として来給うのであって、人の手でつくられなかったもの、動物の血によってではなく自分自身の血によって、」と言っています。これは何を意味しているのでしょうか?何故旧約時代では、動物の血が人間の罪を浄める事ができたのでしょうか?また私たちの主は、「全ては成し遂げられた。」と言って十字架の上で亡くなられて、その聖心は槍で刺し貫かれて、そこからは御血と水が流れ出ました。しかしこの出来事は2000年前に起こった事で、なぜ今現在の私たちが、2000年前の御血の功徳を適用することができるのか?もう既に終わったことではないのでしょうか?
もしその贖いの玄義が、新約・旧約全ての時代に時と場所を越えて適用されるとすれば、私たちはこの2016年においてどのようにイエズス様の贖いに対して協力ができるのか?私たちは何をしなければならないのか?その一体私たちはその原理をどうやって適応させて応用すれば良いのか?という事を黙想したいと思います。
第1のポイントでは、旧約の動物の血について黙想する事を許して下さい。例えばエジプトで10の災害がありました。モーゼは命令を、ヤーウェから命令を受けて、「1才の子羊を屠って、その血を門に塗れ。すると天使が、破壊の天使がそのエジプトの地を通った時に、その子羊の血があった所だけは見逃して殺さない。しかしそうでなければ、初子の男の子は動物も人間も全て、皆殺しにされてしまう。」と言いました。
聖ヨハネ・クリゾストモによると、「これは、動物の血だったからではなく、子羊の血だった羊の血だったからではなく、天主の御子イエズス・キリスト、天主の子羊の血の前兆だったから。その血を塗る事によって、イエズス・キリストの来たるべき御血が示されたから。それだから、イエズス・キリストとの関わりにおいてのみ効果があった」と言っています。
ノエの時代に全地が水で洗われましたけれども、イエズス・キリストの来たるべき御血の前兆でありました。水が罪を洗うのではなくて、来たるべき御血が、イエズス・キリストの流される御血が、全地を洗わなければなりませんでした。
イエズス様が流された御血を示す限りにおいて、旧約の全ての動物の生贄は価値があったのでした。
それは新約においても同じです。第2の点は、私たちの主は、2000年前にゲッセマニの園において苦しまれました。十字架の上において御血潮を流されました。鞭を打たれました。茨の冠を被せられました。しかしその流された御血は、実は私たちの、今生きる21世紀に生きる私たちの為のものであり、そして私たちの後に来る全ての人類の、世の終わりまで犯される罪の為だったのです。これはどういう事でしょうか?
「イエズス様の贖いは、時を超えて、場所を超えて、私たち全ての霊魂に適用される、天主の永遠の効果を持っている」という事です。ですから旧約聖書、旧約にあった生贄も、イエズス様のその効果の前兆として、特別の価値を持っていました。特にマリア様は、イエズス様の贖いが果たされる既に50年前に、おそらく46年か47、8年前に、マリア様が御母のお母様のアンナ様の御胎内に宿られるその瞬間、その功徳をあらかじめ受けて赦されました。
同じように私たちも、2000年前のイエズス様の功徳を、今ここで受け取る事ができるのです。「イエズス様の御血の功徳を受けたい。それを適用したい」と、それを望む事によって受ける事ができます。
その適用する為に特に効果的なのが、特にイエズス様から与えられたのは、「7つの秘跡」です。洗礼の秘跡によって私たちは罪を全て許されます。7つの秘跡の中で最も効果的なのが、それが「御聖体の秘跡」です。私たちの主が苦しまれた全ての苦しみ、全ての愛、全ての願い、「私たちに与えたい」という全てのお恵みを、たった1回の御聖体拝領で私たちに「全て与えよう」と、それを、イエズス様全てを、丸ごと、御聖体拝領で下さろうとする、時と場所を越えて下さろうとする、それが御聖体拝領です。
ミサ聖祭もそうです。ミサ聖祭も私たちはミサに与る事によって、イエズス様のゲッセマニの園、あるいは鞭打ち、あるいは十字架でのその御苦難を全て、この新大阪で、時と場所を超えて与る事ができるのです。イエズス様がその苦しんだその十字架の足元に、すぐに私たちも跪いてお祈りをする事ができるのです。全く同じ効果と価値を持っているのです。イエズス様の贖いの業は時と場所を越えたものですから。
これは一体どういう事を意味するのでしょうか?イエズス様は、新しい第2のアダムとして、そして贖いの第1の原理として、贖いを行うものとして、天主として贖いを実行しますけれども、それと同時にまずマリア様を共贖者としてお選びになりました。それと同時に私たちをも、「その贖いに参与するように、贖いの業の一部となるように」と望んでおられるのです。
これはそれのちょっとした例ですけれども、例えばイエズス様が選んだ聖ペトロ、その後継者は教皇様です。イエズス様の代理者として今でも、教皇様がローマの教皇様がその力を、その特別のお恵みを持っています。イエズス様が選んだのは12人の使徒たちですけれども、その使徒たちの後継者は司教様たちとして、今でも力があります。イエズス様は十字架の上でマリア様に、「見よ、汝の子ここにあり。」そしてヨハネに向かって、「汝の母ここにあり。」そしてマリア様を私たちの母として、贖われた者たちの母として下さいました。マリア様は今でも、全て贖われた者の母として、天国でその母としての役割を果たしています。
イエズス様の贖いの業は、時を超えて、場所を越えて、こうやって働いています。
では、これは私たちにとってどういう意味があるのでしょうか?
つまり「私たちは、イエズス様の贖いに、密接に、直接に、関わる事ができる」という事です。イエズス様の贖いの業は2000年前に終わって、それでもう私たちは何もする事が無い、のではなく、今現在、今ここで、今この瞬間、イエズス様の贖いに参与して、イエズス様の贖いを更に進める事もできれば、あるいはそれに反対する事もできるという事です。
もしも私たちが例えば今日聖時間で、イエズス様の御聖体の前に1時間留まる事によって、ゲッセマニの園におけるイエズス様は、2016年の7月1日の私たちを見て、大きな慰めを受けます。イエズス様は、2000年前のイエズス様と今の私たちは、時を超えて繋がっているからです。しかしもしも私たちがイエズス様に、イエズス様に対して罪を犯せば、あるいはイエズス様に対してあるいは何らかのしてはいけない事をすれば、イエズス様はそれをあるいは鞭打ちの時に、あるいは茨の冠の時に、あるいは十字架の道行きにおいて、それをひしひしと感じられます。私たちの罪1つ1つが、イエズス様の苦しみを重くさせます。
私たちが今ここでするミサ聖祭に与る事、御聖体を拝領する事、イエズス様に対する祈りは、イエズス様をますます慰め、イエズス様に対して、イエズス様からの多くの恵みを勝ち取る元となります。
このように、今日のイエズス様の御血の祝日は私たちに、「イエズス様と私たちが今密接に、この瞬間繋がっている」という事を教えています。「旧約の時代・新約の時代は、イエズス・キリストのその贖いに深く繋がっていて、私たちはそれに深く参与する事ができる」という事です。「ますますイエズス様の贖いの実りを多くの霊魂たちにもたらす事ができる」という事です。「私たちの隣人の救いは、私たちの協力次第に依っている」という事です。
そこで今日はぜひ遷善の決心として、イエズス様の全てを、御聖体拝領において、御血の功徳、そのイエズス様の愛、イエズス様の恵みを全て、御聖体拝領で受け取って下さい。イエズス様から下さる、イエズス様が下さりたい、「与えたい」と思う事を何一つ拒む事なく、全て「はい」と言って受け取って下さい。
そして私たちはそれと同時に、イエズス様から受けた多くの恵みを、受けている多くの御恵みを感謝して、イエズス様と今密接に繋がっているという事を意識して、私たちもできる限りイエズス様をお慰めする事に致しましょう。罪の償いを果たす事に致しましょう。多くの霊魂の救いの為に、私たちが協力する事ができるように、お祈り致しましょう。
マリア様に最後にお祈り致しましょう。マリア様こそ、イエズス様から聖霊から与えられた全てをそのまま受け取って、罪によって拒む事なくそのまま受け取った、無原罪の汚れ無き御心でした。それをする事によって、完璧な共贖者となる事ができました。マリア様は、私たちがマリア様の道具となる事を、共贖者の道具となる事を望んでいますから、是非その私たちも、今この瞬間、またこれからの全ての毎日をイエズス様の一致において、多くの霊魂の救いの為に、イエズス様を慰める為に、使う事ができるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。